さて前回の「パッションの過剰」を理論的にーー哲学的あるいは精神分析的にーーもういくらか補足しておこう。
◾️性欲動は戦争の原因かつ平和の目的 |
性関係は、人間のあらゆる行動やしぐさの見えざる核心であり、どんなにこれをおおい隠そうとしてもおおいの下からおのずとその正体を現してしまう。 性関係は戦争の原因ともなれば平和の目的ともなり、真剣さの基礎ともなれば、冗談の目的ともなる。 機知の尽きない源泉でもあれば、あらゆる謎をとく鍵にもなる。 das Geschlechtsverhältniß in der Menschenwelt spielt, als wo es eigentlich der unsichtbare Mittelpunkt alles Thuns und Treibens ist und trotz allen ihm übergeworfenen Schleiern überall hervorguckt. Es ist die Ursache des Krieges und der Zweck des Friedens, die Grundlage des Ernstes und das Ziel des Scherzes, die unerschöpfliche Quelle des Witzes, der Schlüssel zu allen Anspielungen〔・・・〕 |
性器は意志の焦点であり、人間は具現化された性欲動である。それは人間が男女の交わりによって生まれ、人間の最大の願望は性行為だからである。しかも性欲動のみが人間のすべてのいとなみを結合し、永続させる。人間の生への意志はたしかにはじめは個人の維持への努力として現れる。だがこれは単に種を維持せんとする努力の一段階にすぎない。種を維持せんとする努力は種族の生活そのものよりも激烈である。この努力は長期間にわたって行われるが、その重要性は個人の生存のための努力を上まわっている。 性欲動は生への意志の最も完全な表現であり、その最もはっきりした形態である。 die Genitalien den Brennpunkt des Willens genannt habe. Ja, man kann sagen, der Mensch sei konkreter Geschlechtstrieb; da seine Entstehung ein Kopulationsakt und der Wunsch seiner Wünsche ein Kopulationsakt ist, und dieser Trieb allein seine ganze Erscheinung perpetuirt und zusammenhält. Der Wille zum Leben äußert sich zwar zunächst als Streben zur Erhaltung des Individuums; jedoch ist dies nur die Stufe zum Streben nach Erhaltung der Gattung, welches letztere in dem Grade heftiger seyn muß, als das Leben der Gattung, an Dauer, Ausdehnung und Werth, das des Individuums übertrifft. Daher ist der Geschlechtstrieb die vollkommenste Aeußerung des Willens zum Leben, sein am deutlichsten ausgedrückter Typus: (ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』 42章、1844年) |
「種を維持せんとする努力」、「性欲動は生への意志の最も完全な表現」ともあるが、ニーチェにおける種こそすべて、生への意志を掲げておこう。 ◾️種こそすべて |
十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放[letzten Befreiung] と非責任性[Unverantwortlichkeit] への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年) |
◾️生への意志=力への意志=欲動 |
生への意志? 私はそこに常に力への意志を見出だす。Wille zum Leben? Ich fand an seiner Stelle immer nur Wille zur Macht. (ニーチェ「力への意志」遺稿、ー1882 - Frühjahr 1887 ) |
力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: … すべての欲動力[alle treibende Kraft]は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt... 「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?ist "Wille zur Macht" eine Art "Wille" oder identisch mit dem Begriff "Wille"? …… ――私の命題はこうである。これまでの心理学における「意志」は、是認しがたい普遍化であるということ。そのような意志はまったく存在しないこと。 mein Satz ist: daß Wille der bisherigen Psychologie, eine ungerechtfertigte Verallgemeinerung ist, daß es diesen Willen gar nicht giebt, (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888) |
『意志と表象としての世界』ーーこのショーペンハウアーを、狭くかつ個人的に、翻訳し返せば、「性欲動と思索としての世界」である。Die Welt als Wille und Vorstellung”―ins Enge und Persönliche, ins Schopenhauerische zurückübersetzt: “die Welt als Geschlechtstrieb und Beschaulichkeit.” (ニーチェ遺稿、Herbst 1885―Frühjahr 1886) |
力への意志は至高の欲動のことではなかろうか[ la volonté de puissance n'est-elle pas l'impulsion suprême? ](クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年) |
この生への意志=力への意志こそ、フロイトにおけるリビドーである。
私は性欲動のエネルギーとその形態にリビドーの名を与えた[Ich nannte die Energie der Sexualtriebe ― und nur diese ― Libido. Ich mußte nun annehmen](フロイト『自己を語る』1925年) |
リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年) |
すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年) |
………………………
以下、確認しておこう。
◾️精神分析とショーペンハウアー・ニーチェとの一致 |
精神分析とショーペンハウアーの哲学との大幅な一致、ーー彼は感情の優位と性の際立った重要さを説いただけでなく、抑圧の機制すら洞見していたーーは、私がその理論を熟知していたがためではない。ショーペンハウア一を読んだのは、ずっと後になってからである。哲学者としてはもう一人ニーチェが、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。だからこそ、私は彼を久しく避けてきたのだ。私が心がけてきたのは、誰かに先んじること にもまして、とらわれない態度を持することである。 Die weitgehenden Übereinstimmungen der Psychoanalyse mit der Philosophie Schopenhauers ― er hat nicht nur den Primat der Affektivität und die überragende Bedeutung der Sexualität vertreten, sondern selbst den Mechanismus der Verdrängung gekannt ― lassen sich nicht auf meine Bekanntschaft mit seiner Lehre zurückführen. Ich habe Schopenhauer sehr spät im Leben gelesen. Nietzsche, den anderen Philosophen, dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken, habe ich gerade darum lange gemieden; an der Priorität lag mir ja weniger als an der Erhaltung meiner Unbefangenheit. (フロイト『自己を語る』1925年) |
◾️抑圧と自我の異郷 |
知性は自らの意志による実際の決定や秘密の解決からあまりにも排除されたままであるため、時としてそれを、異郷の人の決断のように、小耳に挟んで驚いて経験することしかできない。der Intellekt bleibt von den eigentlichen Entscheidungen und geheimen Beschlüssen des eigenen Willens so sehr ausgeschlossen, daß er sie bisweilen, wie die eines fremden, nur durch Belauschen und Ueberraschen erfahren kann, (ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』19章) |
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抑圧されたものは自我にとって異郷、内的異郷である[das Verdrängte ist aber für das Ich Ausland, inneres Ausland](フロイト『新精神分析入門』第31講、1933年) |
自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである。 das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. 〔・・・〕 エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。〔・・・〕この抑圧された欲動は内界にある自我の異郷部分である[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen …das ichfremde Stück der Innenwelt ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
◾️ショーペンハウアーの無意識とフロイト |
私たちの意識を、ある深さの水の層にたとえてみよう。すると、明確に意識されている考えは、その表面にすぎない。一方、水の塊は、不明瞭なもの、つまり感情、知覚や直観の後続感覚、そして一般的に経験されるもの、私たちの内なる本質の核心である私たち自身の意志の性向と混ざり合ったものである。die Sache zu veranschaulichen, unser Bewußtsein mit einem Wasser von einiger Tiefe; so sind die deutlich bewußten Gedanken bloß die Oberfläche: die Masse hingegen ist das Undeutliche, die Gefühle, die Nachempfindung der Anschauungen und des Erfahrenen überhaupt, versetzt mit der eigenen Stimmung unsers Willens, welcher der Kern unsers Wesens ist. (ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』14章) |
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抑圧は、水の圧力に対するダムのように振る舞う[Die Verdrängungen benehmen sich wie Dämme gegen den Andrang der Gewässer. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』 第3章、1937 年) |
無意識は、私たちの精神活動を構成する過程における定期的かつ避けられない段階である。すべての精神的行為は無意識として始まり、それが抵抗を受けるかどうかに応じて、無意識のままになるか、さらに意識へと進むことができる。 Das Unbewußte ist eine regelmäßige und unvermeidliche Phase in den Vorgängen, die unsere psychische Tätigkeit begründen; jeder psychische Akt beginnt als unbewußter und kann entweder so bleiben oder sich weiterentwickelnd zum Bewußtsein fortschreiten, je nachdem, ob er auf Widerstand trifft oder nicht. (フロイト『精神分析における無意識概念についての若干の見解』Einige Bemerkungen über den Begriff des Unbewussten in der Psychoanalyse 1912年) |
さらにニーチェとフロイトにおける戦争はどうか。
◾️戦争は不可欠 |
戦争は不可欠[Der Krieg unentbehrlich] 人類が戦争することを忘れてしまった時に、人類からなお多くのことを(あるいは、その時はじめて多くのことを)期待するなどということは、むなしい夢想であり、おめでたい話だ[eitel Schwärmerei und Schönseelentum]。あの野営をするときの荒々しいエネルギー、あの深い非個人的な憎悪、良心の苛責をともなわないあの殺人の冷血[jene Mörder-Kaltblütigkeit mit gutem Gewissen]、敵を絶滅しようというあの共通な組織的熱情、大きな損失や自分ならびに親しい人々の生死などを問題にしないあの誇らかな無関心、あの重苦しい地震のような魂の震憾などを、すべての大きな戦争があたえるほど強く確実に、だらけた民族にあたえられそうな方法は、さしあたり、ほかには見つからない。 |
もちろん、ここで氾濫する河川は、石やあらゆる種類の汚物を押し流して、微妙な文化の沃野を荒すけれど、後日、事情が好転すれば、この河川の力によって、精神の仕事場の歯車が新しい力でまわされることになる。文化は激情や悪徳や悪事をどうしても欠くことはできないのだ[Die Kultur kann die Leidenschaften, Laster und Bosheiten durchaus nicht entbehren]。 帝政時代のローマ人がいくらか戦争に倦いてきたとき、彼らは、狩猟や剣士の試合やキリスト教徒の迫害によって、新しい力を獲得しようとこころみたものだった。大体においてやはり戦争を放棄したように見える現在のイギリス人は、あの消滅してゆく活力をあらたにつくり出すために、別の手段を取っている。 あの危険な探険旅行とか遠洋航海とか登山とかは、科学上の目的からくわだてられるものと言われているが、その実、あらゆる種類の冒険や危険から、余分の力を持って帰ろうというのだ。 |
人間はまだまだ戦争の代用物[Surrogate des Krieges]をいろいろ考え出すことだろうが、現今のヨーロッパ人のように高度の文化を持った、したがって必然的に無気力な人類は、文化の手段のために、自分たちの文化と自分たちの存在そのものを失わないためには、戦争どころか、最も大きい、最もおそろしい戦争――すなわち、野蛮状態への一時的復帰を[zeitweiliger Rückfälle in die Barbare]ーー必要とするということがむしろこの代用物によって、かえってはっきりわかるようになることだろう。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』上 477番、1878年) |
これまでのところ、人間の最高の祝祭は生殖と死であるに違いない。 So weit soll es kommen, daß die obersten Feste des Menschen die Zeugung und der Tod sind! (ニーチェ遺稿137番、1882 - Frühjahr 1887) |
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◾️戦争と「抑圧されたものの回帰=固着点への退行」 |
悪魔とは抑圧された無意識の欲動的生の擬人化にほかならない[der Teufel ist doch gewiß nichts anderes als die Personifikation des verdrängten unbewußten Trieblebens ](フロイト『性格と肛門性愛』1908年) |
人間の原始的、かつ野蛮で邪悪な衝動(欲動)は、どの個人においても消え去ったわけではなく、私たちの専門用語で言うなら、抑圧されているとはいえ依然として無意識の中に存在し、再び活性化する機会を待っています。 die primitiven, wilden und bösen Impulse der Menschheit bei keinem einzelnen verschwunden sind, sondern noch fortbestehen, wenngleich verdrängt, im Unbewußten, wie wir in unserer Kunstsprache sagen, und auf die Anlässe warten, um sich wieder zu betätigen.(フロイト書簡、Brief an Frederik van Eeden、1915年) |
戦争は、より後期に形成された文化的層をはぎ取り、われわれのなかにある原人間を再び出現させる[Krieg …Er streift uns die späteren Kulturauflagerungen ab und läßt den Urmenschen in uns wieder zum Vorschein kommen. ](フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年) |
特殊な退行作用[besondere Fähigkeit zur Rückbildung – Regression –]……原初の心的状態は、言葉の十全な意味で、不滅である[das primitive Seelische ist im vollsten Sinne unvergänglich]。〔・・・〕 戦争の影響は、このような退行を生み出す力のうちのひとつであることは疑いない[Ohne Zweifel gehören die Einflüsse des Krieges zu den Mächten, welche solche Rückbildung ( Regression) erzeugen können](フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年) |
抑圧の第一段階は、あらゆる抑圧の先駆けでありその条件をなしている固着である[das »Verdrängung«…Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕 この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege]〔・・・〕 侵入、抑圧されたものの回帰 。この侵入は固着点から始まる。これはリビドー的展開の固着点への退行を意味する。 des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen. Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle zum Inhalte. (フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー )1911年) |
私は性欲動のエネルギーとその形態にリビドーの名を与えた。私はつぎに、リビドーは必ずしも所定の発達過程を順調に進むわけではないと想定することを余儀なくされた。特定の成分の過剰な強さ、または未成熟な満足を伴う出来事の結果、リビドーの固着はその発達過程のさまざまな点で起こりうる。引き続いた抑圧に伴い、リビドーは固着点に戻り(退行)、症状の形態を通し侵入するのである。後に、固着点の位置が神経症の選択、つまり引き続く疾病の出現形態を決定することがさらに明らかになった。 Ich nannte die Energie der Sexualtriebe ― und nur diese ― Libido. Ich mußte nun annehmen, daß die Libido die beschriebene Entwicklung nicht immer tadellos durchmacht. Infolge der Überstärke einzelner Komponenten oder frühzeitiger Befriedigungserlebnisse kommt es zu Fixierungen der Libido an gewissen Stellen des Entwicklungsweges. Zu diesen Stellen strebt dann die Libido im Falle einer späteren Verdrängung zurück (Regression) und von ihnen aus wird auch der Durchbruch zum Symptom erfolgen. (フロイト『自己を語る』1925年) |
当面以上にしておくが、ショーペンハウアーには、ニーチェとフロイトの核心の多くの示唆があるのである。そしてもちろんラカンの享楽とは、フロイトのリビドー等価である[参照]。
さらに遡れば、プラトンのエロスこそフロイトのリビドーつまり性欲動である。 |
リビドー[Libido]は情動理論から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー [Energie solcher Triebe] をリビドーと呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。 Libido ist ein Ausdruck aus der Affektivitätslehre. Wir heißen so die als quantitative Größe betrachtete ― wenn auch derzeit nicht meßbare ― Energie solcher Triebe, welche mit all 〔・・・〕 哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛との関係の点で精神分析でいう愛の力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse〔・・・〕 この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年) |
※附記
フロイトラカンにおいて、なぜ愛の欲動としてのリビドーが死の欲動でもあるのか。それについては以前に何度も繰り返したが、ここでは簡単にその内実を再確認しておこう。
以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen,](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年) |
人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…) eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年) |
母胎回帰としての死[Tod als Rückkehr in den Mutterleib ](フロイト『新精神分析入門』第29講, 1933年) |
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すべての欲動は実質的に、死の欲動である[toute pulsion est virtuellement pulsion de mort](Lacan, E848, 1966) |
タナトスの形式の下でのエロス [Eρως [Éros]…sous la forme du Θάνατος [Tanathos] ](Lacan, S20, 20 Février 1973) |
死は愛である [la mort, c'est l'amour]. (Lacan, L'Étourdit E475, 1970) |
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance. ](Lacan, S17, 26 Novembre 1969) |
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ラカンによる享楽とは何か。…そこには秘密の結婚がある。エロスとタナトスの恐ろしい結婚である[Qu'est-ce que c'est la jouissance selon Lacan ? –…Se révèle là le mariage secret, le mariage horrible d'Eros et de Thanatos. ](J. -A. MILLER, LES DIVINS DETAILS, 1 MARS 1989) |
リビドーはそれ自体、死の欲動である[La libido est comme telle pulsion de mort](J.-A. Miller, LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989) |
享楽の名は、リビドーというフロイト用語と等価である[le nom de jouissance, … le terme freudien de libido …faire équivaloir. ](J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 -30/01/2008) |
これ自体、ニーチェにある。 |
愛への意志、それは死をも意志することである[ Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode]。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる[Also rede ich zu euch Feiglingen! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』 第2部「無垢な認識」1884年) |
真理への意志ーーそれは隠された死への意志でありうる[Wille zur Wahrheit“ ― das könnte ein versteckter Wille zum Tode sein](ニーチェ『 悦ばしき知』第344番、1882年) |
おそらく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女なるものではないか?おそらくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?…[Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... ](ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年) |