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2024年8月11日日曜日

ヒトはポカンとしているものだ、たとえ大量虐殺があったって。

 


僕も似たようなことを言ってきたがね、でもポカンとしているのは日本人だけじゃないよ。最近は大量虐殺があったって自分や自分の愛するひとに関わりがなかったらヒトはポカンとしているものじゃないか、そこから出発すべきじゃないかと考えるようになったね。

繰り返し引用してきたが、ルソーとフロイトの古典的な同一化の話がある。

私たちはどのようにして憐れみに心を動かされるのであろうか。私たちを自分の外に連れ出して、苦しんでいる存在に同一化することによってである。

Comment nous laissons-nous émouvoir à la pitié ? En nous transportant hors de nous-mêmes ; en nous identifiant avec l'être souffrant.( ジャン=ジャック・ルソー『言語起源論』1781年)

同情は同一化によって生まれる[das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]〔・・・〕

一人の自我が、他人の自我にある点で重要な類似をみつけたとき、われわれの例でいえば、同様な感情を用意している点で意味ふかい類似をみとめたとき、それにつづいてこの点で同一化が形成される[ Das eine Ich hat am anderen eine bedeutsame Analogie in einem Punkte wahrgenommen, in unserem Beispiel in der gleichen Gefühlsbereitschaft, es bildet sich daraufhin eine Identifizierung in diesem Punkte](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)



これを受け入れるなら、人は同一化しなかったら憐れまない、同情しないんだ。


さらにルソーはキツイ「真理」を言っている。


人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけを憐れむ。

On ne plaint jamais dans autrui que les maux dont on ne se croit pas exempt soi-même.(ジャン=ジャック・ルソー『エミール』1762年)


つまり自分はまぬがれると思ったら、憐れまないと言ってる。ガザのジェノサイドを自分は免れると思ったら同情しないんだ。ここはヒトそれぞれの想像力の問題があるがね。



僕もこのガザの学校の死者たちの家族に真に同一化しているか言えば危ういよ、自分は免れているとおもっているね。


ヴェイユのいうエゴイズムを人はみな持っているんじゃないかな。


一般にエゴイズムといわれるものは自己愛ではなく、遠近法の効果である。人は、自分がいるところから見える物の配置が変わることを悪と呼び、その地点から少し離れたものは見えなくなってしまう。中国で十万人の大虐殺が起こっても、自分が知覚している世界の秩序は何の変化もこうむらない。だが一方、隣で仕事をしている人の給料がほんの少し上がり、自分の給料が変わらなかったら、 世界の秩序は一変してしまうであろう。それを自己愛とは言わない。人間は有限である。だから、正しい秩序の観念を、自分の心情に近いところにしか用いられないのである。

Ce qu'on nomme généralement égoïsme n'est pas amour de soi, c'est un effet de perspective. Les gens nomment un mal l'altération d'un certain arrangement des choses qu'ils voient du point où ils sont ; de ce point, les choses un peu lointaines sont invisibles. Le massacre de cent mille Chinois altère à peine l'ordre du monde tel qu'ils le per-çoivent, au lieu que si un voisin de travail a eu une légère augmenta-tion de salaire et non pas eux, cet ordre est bouleversé. Ce n'est pas amour de soi, c'est que les hommes étant des êtres finis n'appliquent la notion d'ordre légitime qu'aux environs immédiats de leur coeur.

(シモーヌ・ヴェイユ 「前キリスト教的直観」Intuitions pré-chrétiennes )



ましてやフロイトのいう「病者のエゴイズム」状態にあれば、身近な人にだって関心がなくなる。


器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心[libidinöse Interesse] を自分の愛の対象[Liebesobjekten] から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。


このような事実が月並みだからといって、これをリビドー理論[ Libidotheorie] の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー備給を彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと[Der Kranke zieht seine Libidobesetzungen auf sein Ich zurück, um sie nach der Genesung wieder auszusenden.]

W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している[Einzig in der engen Höhle]」と述べている。リビドーと自我の関心[Libido und Ichinteresse]とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病者のエゴイズム[Der bekannte Egoismus der Kranken]はこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心[intensiver Liebesbereitschaft]が、肉体上の障害のために追いはらわれ、突然、完全な無関心[völlige Gleichgültigkeit]にとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)



ここでフロイトが言っている「病者のエゴイズム」は自己愛(二次ナルシシズム)ではなく自体性愛(一次ナルシシズム)であってーー《自体性愛的欲動は原初的なものである[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich]》(フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)ーー、これがラカンが《私は自分の身体しか愛さない》と言っていることである。


問題となっているのはフロイトが『ナルシシズム入門』で語っていることである。つまり我々は、自己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質でもって他者を愛しているのだということである[nous aimons l'autre de la même substance humide qui est celle dont nous sommes le réservoir, qui s'appelle  la libido]〔・・・〕つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。


愛の形而上学の倫理、愛の条件[Liebesbedingung]の本源的要素が問題なのであるが、この愛はーー愛の彼岸に残滓としてあるものを知ることでもあるがーー、われわれがここで愛と呼ぶものはある意味では、私は自分の身体しか愛さないということである。たとえ私はこの愛を他者の身体に転移させるときにでもやはりそうなのである。

Moralité de cette métaphysique de l'amour… puisque c'est de cela qu'il s'agit, l'élément fondamental de la Liebesbedingung, de la condition de l'amour …moralité, en un certain sens je n'aime… ce qui s'appelle aimer, ce que nous appelons ici aimer, histoire de savoir aussi ce qu'il y a comme reste au-delà de l'amour, donc ce qui s'appelle aimer d'une certaine façon …je n'aime que mon corps, même quand cet amour,  je le transfère sur le corps de l'autre. (Lacan, S9, 21 Février 1962)



この自体性愛こそ自閉症の事実上の原義である、自閉症概念創出者のオイゲン・ブロイラーが言っているように。



自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである[Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. ](オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911年)


この自体性愛=自閉症が、ラカニアンにとって主体の起源であり、享楽である。

自閉症は主体の故郷の地位にある[l'autisme était le statut natif du sujet](J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)

享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである[la jouissance …qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme.](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


ーー《身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である[The jouissance of the body is autistic: thanks to love and to the fantasy we can have relationships with partners – but in the end jouissance is autistic]》.(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)


ま、要するに現在は幻想が剥がれ落ちたんだな、エディプスの幻想やら宗教の幻想やらが。かつての礼儀作法の国日本なら礼儀の法の幻想が。


最近は自閉症者と呼ばれる人が多いようだからな、特に日本では。というわけで、彼らみな「病者のエゴイスト」だよ、ツイッター眺めるとそんなヤツばかり目につくね。


とはいえ主体の根にあるのは自閉症であり、現在はそれが露骨に現われているという前提に立ったとき、どうしたらいいかってのは容易には見出せない。人間はこういったもんだと諦めるほかなくなってしまう。悪はやりたい放題となる。

これじゃあいくらなんでもマズイ、・・・で、こういった文脈のなかに例えば、柄谷やラカニアンによる「普遍宗教の回復」の議論がある。