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2024年8月12日月曜日

無題

 

いや最晩年まで変わっていないよ、前回記した通りだ。ラカンの享楽がフロイトの自体性愛でありブロイラーの自閉症であるのは。


まずセミネールⅩ不安で、


去勢(-φ)を軸に、


自己身体[corps proper]

一次ナルシシズム[narcissisme primaire]

自体性愛 [auto-érotisme]

自閉症的享楽[jouissance autiste]


を等置している。



で、最後のラカンの享楽の定義が、《享楽は去勢である[la jouissance est la castration]》( Lacan parle à Bruxelles, Le 26 Février 1977)なんだから、享楽は自体性愛にほかならない。

去勢の意味は一般にはちょっと難しいかもしれないがね。

フロイトにおいて自体性愛、つまり自己身体愛の「自己身体」は究極的には母の身体なんだ。


乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり、自己身体の重要な一部の喪失と感じるにちがいない。〔・・・〕そればかりか、出生行為はそれまで一体であった母からの分離として、あらゆる去勢の原像である[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration, d. h. als Verlust eines bedeutsamen, …ja daß der Geburtsakt als Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war, das Urbild jeder Kastration ist. ](フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)


つまり母の身体の喪失が去勢された自己身体ということになる。


フロイトは自体性愛について次のように記している。

自体性愛から対象愛への発展において、ある点に固着されたままのものがあり、それは自体性愛に近似する[Sie sind in der Entwicklung vom Autoerotismus zur Objektliebe an einer Stelle, dem Autoerotismus näher, fixiert geblieben. ](フロイト『症例ハンス』第3章、1909年)


これは自己身体への固着[Fixierung am eigenen Körper]を言っているのだが、実際は「去勢された=喪われた」母の身体への固着ということになる。固着の特性は、つい先日記したばかりだが、無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]だ。


これらが自体性愛、つまり享楽の本来の意味であり、結局、去勢された母の身体を取り戻そうとする死ぬまで不可能な無意識的反復運動が自体性愛的欲動の内実だ、ーー《自体性愛的欲動は原初的なものである[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich]》(フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)


ま、ラカニアンにもいろんなことを言う人がいるがね、でも少なくともこれが仏主流ラカン派(フロイト大義派)の現在の結論だ。



ラカンは反復と喪われた対象との結びつきを常に強調した。…ラカンは根源的に喪われた対象をふたたび見出すための努力として反復を位置づけるのを止めなかった。

Lacan n'a jamais manqué de souligner le lien de la répétition à l'objet comme objet perdu (…) Il n'a pas cessé de situer la répétition comme un effort pour retrouver l'objet foncièrement perdu. (J.-A. Miller, « Transfert, répétition et réel sexuel.» 2010)


この根源的に喪われた対象とは、先に示した去勢の原像としての母胎だよ。すなわち《喪われた子宮内生活 [das verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


で、《母胎回帰としての死[Tod als Rückkehr in den Mutterleib ]》(フロイト『新精神分析入門』第29講, 1933年)だ、つまり自体性愛的欲動は死の欲動にほかならない。



享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est  le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


だいたい日本のラカン研究者はこういう話が好きじゃないんじゃないかね、あまり表に出てこないとしたら。彼らはおおむね中期ラカンーー構造主義にいささか道を踏み外した時代のラカンーーが好きなんだろうよ。


海外ならジジェクやバディウがモロに中期ラカン組だねーー、

パンドラの箱があまりにも長く開けられている。われわれは今、ジジェクをもっている。私のセミネールで彼に教えた基本原則を使って、ラカンを「ジジェク化」する彼だ。われわれはバディウをもっている。ラカンを「バディウ化」する彼だ。全くよくない。われわれは、パンドラの箱をもう一度閉じる時だ。

Mais la boîte de Pandore est ouverte depuis longtemps ! Vous avez Zizek qui zizekise Lacan depuis qu'il a appris les rudiments de la doctrine jadis, à mon séminaire de DEA. Vous avez Badiou qui badiouise Lacan, et ce n'est pas joli joli. Il s'agirait plutôt de la refermer, la Pandora's Box.(ジャック=アラン・ミレール 、Eve Miller-Rose et Daniel Roy, Entretien nocturne avec Jacques-Alain Miller, 2017年, PDF )


………………


※附記

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を徴示する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


繰り返せば「喪われた母の身体=去勢された母の身体」である。

享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である。この去勢された享楽の対象をラカンはモノの名として示した。[ La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. Cet objet de la jouissance  …c'est ce que Lacan a désigné du nom de la Chose](J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004)


こういった話はもう何回も繰り返したからな、少なくとも数年前まではくどいぐらいに。もはや表題は「無題」にしとくさ