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2024年8月12日月曜日

マンピョウ氏のクルスク侵攻分析

 


日系のマンピョウさんーー共和党上院インナーサークル委員・政治科学アカデミー会員・企業・団体役員 ーーは実に鋭い分析をしているね、「その正否はともあれ」と当面言っておくが。私は氏のあまりにものトランプ顕揚のために最近はあまり見ていなかったのだが、つぎのクルスク侵攻分析は唸っちゃうよ。



DULLES N. MANPYO@iDulles Aug 12, 2024


「クールスク侵攻にはこれまでと異なる変化が見られる。これまでバンデライナは軍事作戦そのものより、メディア的要素にのみ関心を払ってきた。軍事的行動はそのための舞台であり、バンデライナが善戦している素材対象であり、第72情報心理作戦センターがそれを映像化することによって援助を引き出すための対象だった。乞食の道化とその愚かに遵う将官たちはそのために何百、何千のウクライナ人を砲火の餌として捨てることになんの罪責感を覚えなかった。だがこの軍事行動は察らかに違う。バンデライナ臭がない。いつもは事前に作ってあったのではないかと疑わしく十分以上の〝バンデライナ週間ニュース〟がない。沈黙が守られている。いくつかの選況は伝えているものの、押し殺したような無表情で淡々と伝えるのみ。いつものバンデライナの〝成功〟〝活躍〟を描いたものがたりは一言も触れないし、ロシア領深く進攻した自派に寝返ったロシア国内の馬賊を持ち上げることもしていない。つまり、彼らとこの戦闘が関わり合いを持たぬ空気、異星人がロシア領に進攻したかにように報じているのだ。このようなこれまでにないトーンの中、ブダーノフは、あらまし次にような趣旨の話をキエフ市内で行った。今の戦いのペースならロシアは志願兵を使い果たすので、来夏には本格的動員を行わざるを得なくなる。ロシアにとってそれはできない。だから戦争を止めるしかなくなる。つまりロシアの軍事力、戦争遂行力と言ったものは関係がなく、ワグネリアンから志願兵の枠内で戦争を行うのがロシアの戦争条件で、動員となるとロシアは戦争ができなくなると見ていることだ。対してバンデライナは18歳以上を全動員すれば2033年まで、16歳以上を動員すれば2044年までバンデライナは戦争を続けられると〝註解〟風に述べた。ブダーノフのこれまでの空に拳を突き立てる話しぶりとは趣きは影を潜め、それは、誰かに自分たちの権限のなにもかもを奪われ、手出しもできないほどピシャリと手を叩かれ、睥睨された菜に塩の風だ。つまりこの作戦は業を煮やしたNATOにバンデライナが全権を拐われたのではないかという目串が濃厚なのである。以上を含め、何が起きたのかについての疑問点。戦略的観点から疑問の余地のないこの自滅行為の目的はなにか……。既に電文で触れている部分と併せ、おそらく事実は、引き出されつつある結論から少し離れたところにある……そのような触感をもつ」 -0-


「NATO志願軍部隊によって練られた、戦争の予行実戦……。これがクールスク進攻の目的だというのが私の見当だ。そこにロシア内部の動揺と、ロシア内部の協力組織の存在を示唆すること。つまり偵察行動と観測気球が具体的達成目的だ。このほかの種々の巷説はどれも的確が完成しないパズルになっている。ロシアに動揺を与えたのは、第二次世界大戦後、初めて領土紛争の存在しなかった自国領土に外国軍が進攻したという事件であったこと。しかも自国内に敵と内通した組織が存在し進攻の手助けをしたことだった。独ソ戦の悲劇の記憶が突如ロシア人を襲った。突然の裏切り、そして寝返りが隣人に起こるという隣人同士の不信。戦争を遂行する当事国の最も忌み嫌う敵の第五列発生は、事実を認めなくてはならない当事国に鉛色の心象風景をもたらす。そしてロシアの戦時報道も不意打ちによって相互打ち消しとなっている。軍参謀総長の(力を用いて撃退しなければならない)と、報道の(敵の進攻を阻止した)はどちらが正確かで相互を打ち消し、不安の効果を自ら作っている。ただ言えることは、強調してもし足りないが、これまで何度となく警告してきたように、バンデライナにバキュームを設置して、西側の体力を吸収し尽くし、西側そのものをロシアの安全保障にとっての事実上の緩衝地帯にする戦略目標が正しいにしても、バキュームで吸い取り続けることは永遠に可能性ではないこと、時限性のものであり、バキュームをポルスカ、ロムニアに前進配置させるか、講和を行い、戦略目標のための手段と方策を変えることしかない。これ以上、待ち受け防禦を続けることは、士気、民心を腐敗させかねない時機に来たことを報らせている。特別軍事作戦で行くなら、講和だ。そうでないなら戦争へ格上げだ。私はそのどちらでもなく、事変で済ませることがロシアにとっても妥当と考え、一途事変を概念としても呼び方としてもこの電文で用いてきている。特別軍事作戦と事変は違う。事変で行くならバンデライナ占領と占領時点での降伏文書の取り決めだ。新しいウクライナ政権との否ナチ化、中立の条件での撤退。それも早ければ早いほどよい」 -0-



このロシアの《これ以上、待ち受け防禦を続けることは、士気、民心を腐敗させかねない時機に来たことを報らせている》というのは、明日予定されているプーチン演説の内実かもしれないよ。






マンピョウさんは、大江健三郎の『万延元年のフットボール』の次の一節を思い起こさせる人物だな、

……それからかれは、ニューヨークで僕の友人におなじ言葉を話したのは、この声によってだったにちがいないと思わせる声で、


本当の事をいおうか」といった。「これは若い詩人の書いた一節なんだよ、あの頃それをつねづね口癖にしたいたんだ。……その本当の事は、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なんだよ。蜜はそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?」


「本当の事をいおうか、と絶体絶命のところで決意する人間はいるだろう。しかしかれは、その本当の事をいったあと、殺されもせず、自殺もせず、発狂して怪物になることもなしに、なお生きつづける方途を見つけだすだろうさ」と僕は鷹四の不意の饒舌の意図を模索しながら反駁した。


「いや、そこが不可能犯罪的に困難なところだ」とこの命題を永く考えつづけてきたことの明瞭な断乎たる口調で鷹四は僕の思いつきの意見を一蹴した。「もし、本当の事をいってしまった筈の人間が、殺されもせず自殺もせず、なんだか正常の人間とはちがう極度に厭らしく凶々しいものに変ることなしに、なお生きつづけることができたとしたら、それは直接に、かれがいってしまった筈の本当の事が、じつはおれの考える意味での、発火しつつある爆発物みたいな本当の事とは違うものであったことを示すだけなんだ。それだけだよ、蜜」


「それでは、きみのいわゆる本当の事をいった人間は、まったく出口なしというわけかい?」とたじろいで僕は折衷案を提出した。「しかし作家はどうだろう。作家のうちには、かれらの小説をつうじて、本当の事をいった後、なおも生きのびた者たちがいるのじゃないか?」


「作家か? 確かに連中が、まさに本当の事に近いことをいって、しかも撲り殺されもせず、気狂いにもならずに、生きのびることはあるかもしれない。連中は、フィクションの枠組でもって他人を騙しおおす。しかし、フィクションの枠組をかぶせれば、どのように恐しいことも危険なことも、破廉恥なことも、自分の身柄は安全なままでいってしまえるということ自体が、作家の仕事を本質的に弱くしているんだ。すくなくとも、作家自身にはどんな切実な本当の事をいうときにも、自分はフィクションの形において、どのようなことでもいってしまえる人間だという意識があって、かれは自分のいうことすべての毒に、あらかじめ免疫になっているんだよ。それは結局、読者にもつたわって、フィクションの枠組のなかで語られることには、直接、赤裸の魂にぐさりとくることは存在しないと見くびられてしまうことになるんだ。そういう風に考えてみると、文章になって印刷されたものの中には、おれの想像している種類の本当の事は存在しない。せいぜい、本当の事をいおうか、と真暗闇に跳びこむ身ぶりをしてみせるのに出会うくらいだ」(大江健三郎『万延元年のフットボール』1967年)



逆にこういうことも言えるがね、


真理はフィクションの構造において現れる[La vérité s’avère dans une structure de fiction](Lacan, E742, 1958)

真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである[la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée].(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)

言語とは本来的にフィクションである[le langage est, par nature, fictionnel](ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)



……………


鳥羽1 谷川俊太郎


何ひとつ書く事はない

私の肉体は陽にさらされている

私の妻は美しい

私の子供たちは健康だ


本当の事を云おうか

詩人のふりはしているが

私は詩人ではない


私は造られそしてここに放置されている

岩の間にほら太陽があんなに落ちて

海はかえって昏い


この白昼の静寂のほかに

君に告げたい事はない

たとえ君がその国で血を流していようと

ああこの不変の眩しさ!




俊太郎)僕は詩を書き始めた頃から、言葉というものを信用していませんでしたね。一九五〇年代の頃は武満徹なんかと一緒に西部劇に夢中でしたから、あれこそ男の生きる道で、原稿書いたりするのは男じゃねぇやって感じでした(笑)。言葉ってものを最初から信用していない、力があるものではないっていう考えでずーっと来ていた。詩を書きながら、言葉ってものを常に疑ってきたわけです。疑ってきたからこそ、いろんなことを試みたんだと思います。だから、それにはプラスとマイナスの両面があると思うんです。(谷川俊太郎&谷川賢作インタビュー、2013年)



…………



・・・こう引用してくると忘れていた文を思い出すな、ここでの文脈とは関係なしに?備忘しとくよ


真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。

Vorausgesetzt, dass die Wahrheit ein Weib ist -, wie? ist der Verdacht nicht gegruendet, dass alle Philosophen, sofern sie Dogmatiker waren, sich schlecht auf Weiber verstanden? dass der schauerliche Ernst, die linkische Zudringlichkeit, mit der sie bisher auf die Wahrheit zuzugehen pflegten, ungeschickte und unschickliche Mittel waren, um gerade ein Frauenzimmer fuer sich einzunehmen? Gewiss ist, dass sie sich nicht hat einnehmen lassen: (ニーチェ『善悪の彼岸』序文)

女が学問への好みを示すとき、通常、彼女のセクシャリティの何かが具合が悪いのである。[Wenn ein Weib gelehrte Neigungen hat, so ist gewoehnlich Etwas an ihrer Geschlechtlichkeit nicht in Ordnung.] (ニーチェ『善悪の彼岸』144番、1886年)

おそらく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女なるものではないか?おそらくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?…[Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... ](ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年)