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2024年8月26日月曜日

西側のプロパガンダ能力は実に見事だ(ミアシャイマー)

 

◾️John J. Mearsheimer: How the West and Zelensky Prepare to Risk Everything 2024/08/25

YouTube 22:00~

ミアシャイマー:そう、プロパガンダがすべてだ。 西側のプロパガンダが優れているのは間違いない。 戦場で起きていることを、ウクライナが成功しているように見せかけ、自国に有利に状況を変えるチャンスがあるかのように見せる西側の能力は、実に見事だ。 問題は、こうしたプロパガンダのせいで、ウクライナの戦場で実際に起きていることについて、西側諸国が完全に歪んだ見方をしてしまっていることだ。

Well, this is really all about propaganda and Western propaganda is superb. There’s no question about it. The ability of the West to spin what's happening on the battlefield in a way that makes it look like Ukraine is doing well and stands a good chance of turning the tide  is really quite remarkable. And the problem is that  all of this propaganda has created a completely distorted picture in the west of what is actually happening on the battlefields in Ukraine.


実際、ウクライナ側は絶望的な状況にある。 この戦争に勝つ見込みはない。 この基本的なメッセージが数カ月前に前面に出ていれば、この紛争はウクライナ側に有利に解決していた可能性があり得た。 だがそうではなく、偽の物語を作り出してしまったのだ、ウクライナはよく戦っており、もっと武器を与えさえすれば、さらに大きな成功を収められるという偽の物語を。このような議論は現実とはほとんど関係がなく、ウクライナ側を有利な立場よりも不利な立場に追いやることになる。

And the fact is that the Ukrainians are in Desperate Straits and there's no way they can win this war and if that basic message had been put forward months ago, there's a good chance that this war could have been settled then to the advantage of the Ukrainians. But instead, we have created this false narrative that the Ukrainians are doing well, and if we just give them some more weapons, they'll do even better. This line of argument bears little resemblance to reality and is basically going to end up making the Ukrainians worse off rather than better off…



しかし2年半も続くんだが、西側のプロパガンダはいまだ見事のままなんだよな。騙される人は少しは減ったにしろ、当初は95%だったのが、現在はよくて70%前後になっただけじゃないかね。




とはいえ最近は⑩の「裏切り者」系が多くなってきたから、連中のプロパガンダ能力もそろそろどん詰まりかも知れないよ。



あとは教育ある一般大衆のみなさんに期待するしかないね、プロパガンダーーラテン語のpropagare(繁殖させる、種をまく)が語源ーーに対する抵抗力の育成を。


ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかったところに現れたと言った方がよかろう。〔・・・〕


大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。

大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」1960年)


もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味での教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日まで生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変わっていない、と彼は言うだろう。〔・・・〕

社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何が新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。

ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼らの意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。(小林秀雄「プラトンの「国家」」1959年)



プロパガンダ種蒔きに対する抵抗力をつけるためには、まずは善人をやめることじゃないかね。


善人どもの生存条件は嘘である、言いかえれば、現実というものが根本においてどういうふうにできているかを絶対に見ようとしないこと。すなわち、現実というものは、いつでも善意的本能をそそのかし、招きよせるようなものではないこと、まして、近視眼的な、 お人好しの人間が出しゃばって手を出すことにいつも甘い顔を見せるようなものではなに見ようとしないことである。

Die Existenz-Bedingung der Guten ist die Lüge—: anders ausgedrückt, das Nicht-sehn-wollen um jeden Preis, wie im Grunde die Realität beschaffen ist, nämlich nicht der Art, um jeder Zeit wohlwollende Instinkte herauszufordern, noch weniger der Art, um sich ein Eingreifen von kurzsichtigen gutmüthigen Händen jeder Zeit gefallen zu lassen.〔・・・〕

人類を去勢して、あわれむべき宦官の状態に引き下げること……この意味で、ツァラトゥストラは、善人たちを、あるいは「末人」と呼び、あるいは「終末の開始」と呼ぶのである。

…hiesse die Menschheit castriren und auf eine armselige Chineserei herunterbringen. ... In diesem Sinne nennt Zarathustra die Guten bald »die letzten Menschen«, bald den »Anfang vom Ende«; 

(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私は一個の運命であるのか」第4節、1888年)



で、善人の生存条件である嘘を見破るには党派人をやめることだよ。


私が嘘と名づけるのは、見ているものを見ようとしないこと、見えるとおりにものを見ようとしないことである。はたして目撃者の面前で嘘するのか、目撃者がいないとき嘘するのかは、考慮しなくともよいことなのである。最もよく見られる嘘は、自分自身を欺く嘘であり、他人を欺くのは比較的に例外の場合である[Die gewöhnlichste Lüge ist die, mit der man sich selbst belügt; das Belügen andrer ist relativ der Ausnahmefall.]


――ところで、この見ているものを見ようとしないこと、この見えるとおりに見ようとしないことは、なんらかの意味で党派的であるすべての人にとっては、ほとんど第一条件である。[― Nun ist dies Nicht-sehn-wollen, was man sieht, dies Nicht-so-sehn-wollen, wie man es sieht, beinahe die erste Bedingung für alle, die Partei sind, in irgendwelchem Sinne:]


すなわち、党派人は必然的に嘘つきとなる[der Parteimensch wird mit Notwendigkeit Lügner].。…党派的な人は誰でも、本能的に、道徳的な大きな言葉を口にするものである。そうであってみれば、道徳が存続するのはあらゆる種類の党派人がそれをたえまなく必要とするからだ、という事実に、もはや驚くこともあるまい。(ニーチェ『反キリスト者』第55章 、1888年)


たとえばツイッタークラスタ内で、互いに湿った瞳を交わし合い頷き合っているのみの連中は最悪の党派人だろうよ。


つまり去勢された宦官であり、末人、すなわち「善人」だ。

私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』1946年)

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』1946年)