「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』1963年) |
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いやあ偉大だね、野坂昭如は。ラカンに先行して「女なるものは存在しない」と言っているんだから。 |
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女なるものは存在しない。女たちはいる。だが女なるものは、人間にとっての夢である。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975) |
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女なるものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女なるものを夢見るのです。女なるものはシニフィアンの水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。[La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont,](J.-A. MILLER「エル・ピロポ El Piropo 」1979年) |
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ところで、先のラカンの《女なるものは存在しない。女たちはいる[La femme n'existe pas. Il y des femmes]》ってのは何だかわかるかい? これは定冠詞 (la) と不定冠詞 (une)の話なんだ。 |
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「ひとつの生」une vie のほうが、「生というもの 」 la vie よりも重要であり、「ひとつの死」une mort のほうが「死というもの」 la mortよりも重要だというところなど、ドゥルーズはゴダールといちばん感性が響き合っているなと思いますね。ゴダールが不定冠詞についてほとんど同じことを言っている。《Une femme mariée》という映画があって、そこを《La femme mariée》にするかしないかをめぐって検閲でもめたときに、彼は《Une femme mariée》にしちゃった。そのほうが広いのだ、と。(蓮實重彦、共同討議「ドゥルーズと哲学」批評空間1996 Ⅱ―9) |
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いやあ偉大だね、ゴダールは。《La femme mariée》ではなく《Une femme mariée》に固執したなんて。この映画は1964年だからこれまたラカンに先行してるや。 |
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ところでラカンにおいて、不定冠詞の「ひとりの女」は現実界の症状サントームであり、身体の出来事だ。 |
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ひとりの女はサントームである[une femme est un sinthome] (Lacan, S23, 17 Février 1976) |
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サントームは身体の出来事として定義される [Le sinthome est défini comme un événement de corps](J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011) |
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ゴダールは《Une femme mariée》で身体の出来事を撮ったんだよ。 野坂昭如だってもちろん「身体の出来事」書いてるよ、
チョロいこときいてくんなよ、まずは文学や芸術に浸りきることだよ。 |