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2024年8月28日水曜日

あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。ーー柄谷行人の超自我と欲動


私の柄谷行人への立場は、基本的には安吾の小林秀雄に対する立場だよ。


編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。(坂口安吾「花田清輝論」初出:「新小説 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日発行)

あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。おまけにケッタイで、類のないやうな味だけれども、然し料理の根本は保守的であり、型、公式、常識そのものなのだ。(坂口安吾「教祖の文学――小林秀雄論――」初出:「新潮 第四四巻第六号」1947(昭和22)年6月1日発行)


自らを安吾になぞらえるつもりは毛頭ないにしろ、特に柄谷の超自我と欲動解釈については《あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。》としか言いようがない。だから柄谷を尊敬しているがゆえに時にヤッツケる。いままで折に触れてそうしてきた。



柄谷行人の「超自我」把握理解は、フロイトの『文化の中の居心地の悪さ』(旧訳『文化への不満』)第7章、第8章の記述にに基盤がある。それが最も鮮明に現れているのは『フロイト全集』( 第4巻 月報2007.03.08)に掲載された「超自我と文化=文明化の問題」という小論である。


超自我は「死の欲動」という概念の結果として考えられたのではない。逆に、欲動を自己規制するような自律的な超自我を説明するためにこそ、フロイトは「死の欲動」を想定したのだ。それによって、攻撃性は「死の欲動」の一部であると考えられる。そして、攻撃性を抑えるのは(内に向けられた)攻撃性である。そうだとすれば、攻撃性を抑制することは不可能ではない。そして、それが文化=文明化にほかならない。一言でいえば、文化=文明化とは、攻撃性を自己抑制するような社会的装置である。(柄谷行人「超自我と文化=文明化の問題」ーー『フロイト全集』 第4巻 月報2007.03.08)


ここにあるのは「文化的超自我」である、ーー《文化的超自我は理想を発展させてきた[Das Kultur-Über-Ich hat seine Ideale ausgebildet]》(『文化の中の居心地の悪さ』第8章)ーーつまり外界の代理としての超自我だ。

超自我は外界の代理であると同時にエスの代理である。超自我は、エスのリビドー蠢動の最初の対象、つまり育ての親の自我への取り入れである[Dies Über-Ich ist nämlich ebensosehr der Vertreter des Es wie der Außenwelt. Es ist dadurch entstanden, daß die ersten Objekte der libidinösen Regungen des Es, das Elternpaar, ins Ich introjiziert wurden](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


「外界の代理」とは《エディプスコンプレクスの代理となる超自我[das Über-Ich, der Ersatz des Ödipuskomplexes]》(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)であり、『文化の中の居心地の悪さ』第7、8章の超自我はほぼこのエディプス的超自我をめぐって記述されている。


だがフロイトには「エスの代理」としての超自我、前エディプス的超自我がある。


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


ーーここにある高等動物にもある幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]はもちろん《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)である。


この前エディプス的母なる超自我がフロイト、そしてラカンにとっての原超自我である。

母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)


本来の死の欲動はこの母なる超自我への固着に関わる。

少女のエディプスコンプレクスは、前エディプス的母への拘束[präödipale Mutterbindung] の洞察を覆い隠してきた。しかし、この母への拘束はこよなく重要であり永続的な固着[Fixierungen]を置き残す。(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」 1933年)


母への拘束[Mutterbindung]とあるが、母への固着[Mutterfixierung]ーー母への欲動の固着ーーである。

最初に母への固着がある[Zunächst die Mutterfixierung ](フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)

対象への欲動の拘束を固着と呼ぶ[Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung ](フロイト「欲動とその運命』1915年)


この文脈のなかで最後のフロイトの超自我の定義を読まなければならない。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


つまり母なる超自我への欲動の固着に伴い自己破壊欲動=マゾヒズム=死の欲動が生まれるのである。

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


柄谷行人にはこの前エディプス的超自我の相がない。もっぱら文化的超自我を語っており、「二種類の超自我」のうちの外界の代理としてのエディプス的超自我の把握しかない。だが後者は二次的なものであり、原超自我の青白い反影にすぎない。




超自我の把握に片手落ちがあれば、欲動についても同様の誤読が生まれる。先の「超自我と文化=文明化の問題」には《「欲動」という概念 は、意識的でない次元の能動的主体性を保証するものとして提起されたのである。》とあるが、これはまったき誤謬である。


欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)


欲動の本質は柄谷の言うような能動性ではまったくなく、マゾヒズム的、つまり受動性である。

マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)


ーー女性的受動的[weiblich passiv]とあるが、ここでの女性性自体、生物学的女性ではなく受動性を意味している。


男性的と女性的とは、あるときは能動性と受動性の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。これら三つのつの意味のうち最初の意味が、本質的なものであり、精神分析において最も有用なものである。Man gebraucht männlich und weiblich bald im Sinne von Aktivität und Passivität, bald im biologischen und dann auch im soziologischen Sinne. Die erste dieser drei Bedeutungen ist die wesentliche und die in der Psychoanalyse zumeist verwertbare.(フロイト『性理論三篇』第三篇、1905年、1915年註)




たとえば柄谷はこう書いている。

……こうした自律的能動性は、『快感原則の彼岸』では、外出した母親に置き去りにされた幼児が母親の不在という苦痛を反復的に再現して遊びに変えてしま う例においても示されている。この例はすでに自律的な超自我の働きを暗示するものだ。〔・・・〕


フロイトは、子供は意識的主体(自己)ではないが欲動の主体として能動的であるということを強調するためにこそ、リビドーという考えをもちこんだのである。(柄谷行人「超自我と文化=文明化の問題」ーー『フロイト全集』 第4巻 月報2007.03.08)


ーーこれは糸巻き遊び、いわゆる「いないいないばあ遊び(fort-da)」をめぐっている。だがこの遊びは欲動断念に伴う快の獲得から生まれる能動性であり、けっして本来の欲動の性質ではない。

子供は、ひもを巻きつけた木製の糸巻きをもっていた。子供には、糸巻きを床にころがして引っぱって歩くこと、つまり、車ごっこをすることなどは思いつかず、ひもの端をもちながら蔽いをかけた自分の小さな寝台のへりごしに、その糸巻きをたくみに投げこんだ。こうして糸巻きが姿を消すと、子供は例の意味ありげな、オーオーオーオをいい、それからひもを引っぱって糸巻きをふたたび度台から出し、それが出てくると、こんどは嬉しげな「いた」Daという言葉でむかえた。これは消滅と再来[Verschwinden und Wiederkommen]を現わす完全な遊戯だったわけである。〔・・・〕


遊戯の意味は、ほぼ解かれたもおなじである。それは子供のみごとな躾の効果と関係があった。つまり母が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動断念(欲動満足に関する断念)を子供がなしとげたことと関係があった。子どもは自分の手のとどくもので、同じ消失と再来を上演してみて、それでいわば欲動断念を埋め合わせたのである。

Die Deutung des Spieles lag dann nahe. Es war im Zusammenhang mit der großen kulturellen Leistung des Kindes, mit dem von ihm zustande gebrachten Triebverzicht (Verzicht auf Triebbefriedigung), das Fortgehen der Mutter ohne Sträuben zu gestatten. Es entschädigte sich gleichsam dafür, indem es dasselbe Verschwinden und Wiederkommen mit den ihm erreichbaren Gegenständen selbst in Szene setzte.〔・・・〕


彼らの遊戯のすべてが、この彼らの年代を支配している願望、つまり大きくなりたい、大人のようにふるまいたいという願望の影響下にあることも充分に明白である。また、体験が不快だからといって、その不快という性格のせいで、体験を遊戯に利用できなくなるとはかぎらないことも観察されている。たとえば医者が子供の喉の中をのぞきこんだり、ちょっとした手術を加えたりすると、この恐ろしい体験は確実にすぐあとの遊戯の内容になるであろうが、そのさい他の理由からの快の獲得[Lustgewinnも見落とすわけにはいかない。子供は体験の受動性から遊戯の能動性に移行することによって、遊び仲間に自分の体験した不快を加え、そして、この代理のものに復讐するのである[Indem das Kind aus der Passivität des Erlebens in die Aktivität des Spielens übergeht, fügt es einem Spielgefährten das Unangenehme zu, das ihm selbst widerfahren war, und rächt sich so an der Person dieses Stellvertreters. ](フロイト『快原理の彼岸』第2章、1920年)


つまりこの欲動断念に伴う快の獲得は代理満足であり、欲動に対する埋め合わせの防衛症状である。

欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4  Triebverzicht、1939年)

症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している[die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年)


この欲動断念=快の獲得=代理満足の別名は「欲動の昇華」である。

われわれの心的装置が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、これによってわれわれの心的装置の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする。この目的のためには、欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]が役立つ。

Eine andere Technik der Leidabwehr bedient sich der Libidoverschiebungen, welche unser seelischer Apparat gestattet, durch die seine Funktion so viel an Geschmeidigkeit gewinnt. Die zu lösende Aufgabe ist, die Triebziele solcherart zu verlegen, daß sie von der Versagung der Außenwelt nicht getroffen werden können. Die Sublimierung der Triebe leiht dazu ihre Hilfe.


一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快の獲得を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。Am meisten erreicht man, wenn man den Lustgewinn aus den Quellen psychischer und intellektueller Arbeit genügend zu erhöhen versteht. 

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年)


だがフロイトは既に『快原理の彼岸』の段階で、欲動の昇華は不可能と記しているのである。

抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。

Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer)(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)


上に「抑圧された欲動」とあるが、抑圧されたものの回帰の原点にあるのはこの抑圧された欲動の回帰ーー厳密には原抑圧された欲動の回帰ーーであり、別名《排除された欲動 [verworfenen Trieb]》(『快原理の彼岸』第4章、1920年)の回帰である。


以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要)


以前の状態とは固着点への退行であり、これ「抑圧されたものの回帰」の原点にほかならない。

抑圧の失敗、侵入、抑圧されたものの回帰。この侵入は固着点から始まる。そしてリビドー的展開の固着点への退行を意味する[des Mißlingens der Verdrängung, des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen. Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle zum Inhalte. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )第3章、1911年)


ーー《前エディプス期の固着への退行はとても頻繁に起こる[Regressionen zu den Fixierungen jener präödipalen Phasen ereignen sich sehr häufig; ]》(フロイト『続精神分析入門』第33講、1933年)


この意味で、柄谷行人が少なくとも『世界史の構造』以降、交換様式Dの回帰の理論的支柱のひとつにした「抑圧されたものの回帰」の捉え方自体、いささか反フロイト的なアスペクトがある。


・・・というわけだが、柄谷がこうであることはわかっていながら、「私は柄谷を尊敬している」。柄谷は『トランスクリティーク』以来、国家ネーション資本の三幅対に囚われた世界に対する真のオルタナティブを常に示そうと奮闘している。とはいえーーフロイト概念に関してはーー、やはり再度こう言っておかなくてはならない、《あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。おまけにケッタイで、類のないやうな味だけれども、然し料理の根本は保守的であり、型、公式、常識そのものなのだ》と。



※附記:なお1920年の『快原理の彼岸』段階で最も特徴的なフロイトの思考の移行のひとつは、1919年までのフロイトはサディズム(他者破壊欲動)がマゾヒズム(自己破壊欲動)に先行すると考えていたが、1920年以降それが逆転してマゾヒズム(自己破壊欲動)がまず先にあるとしたことである[参照]。