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2024年7月30日火曜日

簡潔版:二種類の超自我

 

つい先日、超自我をめぐって二度投稿した。「けやきの木の小路をよこぎる女のひとのまたのはこび」と「超自我と天皇制」である。前者は記述していくうちにいささかエロ話?に陥り、後者は柄谷行人の『憲法の無意識』における憲法九条超自我論を批判的に吟味したため話が多岐にわたり、どちらもいくらかわかりにくいところがあったかもしれない。ここではフロイトあるいはラカンにおける基本的な超自我の捉え方を可能な限り簡潔に記すことにする。

ここで最も強調したいのは、フロイトにはエディプス的超自我[Ödipales Über-Ich]と前エディプス的超自我[Präödipales Über-Ich]の二種類の超自我があることである。そして日本言論界ではこの区分ができている人が殆どいないように私には見える、この現在に至るまで、である。これはフロイト学者やラカン学者がいまだ鮮明化していないことに大いに問題があるのではないか。

さて二種類の超自我の内実は次のようになっている。

以下、このエディプス的超自我と前エディプス的超自我のそれぞれの項を主に引用にて示していく。


フロイトにエディプス的超自我があるのは、一般にも比較的よく知られているだろう。

エディプスコンプレクスの代理となる超自我[das Über-Ich, der Ersatz des Ödipuskomplexes](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


エディプスコンプレクス期とはファルス期(成人文法性成立期)であり、フロイトの発達段階区分では3歳から5歳までである。

ファルス期はエディプスコンプレクス期と同時期である[Diese phallische Phase, gleichzeitig die des Ödipuskomplexes ](フロイト『エディプスコンプレクスの崩壊』1924年)


だがこのエディプス的超自我以前に口唇期の超自我、つまり前エディプス的超自我がある。これは一般にはほとんど知られていない。

超自我は外界の代理であると同時にエスの代理である。超自我は、エスのリビドー蠢動の最初の対象、つまり育ての親の自我への取り入れである[Dies Über-Ich ist nämlich ebensosehr der Vertreter des Es wie der Außenwelt. Es ist dadurch entstanden, daß die ersten Objekte der libidinösen Regungen des Es, das Elternpaar, ins Ich introjiziert wurden](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


このエスのリビドー蠢動の最初の対象の自我への取り入れとしての超自我は母、あるいは母の乳房である。


非常に幼い時期に、母への対象備給[Mutter eine Objektbesetzung ]がはじまり、対象備給は母の乳房[Mutterbrust]を出発点とし、アタッチメント型[Anlehnungstypus]の対象選択の原型を示す。[Ganz frühzeitig entwickelt es für die Mutter eine Objektbesetzung, die von der Mutterbrust ihren Ausgang nimmt und das vorbildliche Beispiel einer Objektwahl nach dem Anlehnungstypus zeigt; ](フロイト『自我とエス』第3章、1923年)


ーー対象備給[Objektbesetzung]とあるが、対象リビドーである、《備給はリビドーに代替しうる [»Besetzung« durch »Libido« ersetzen]》(フロイト『無意識』1915年)


したがって、メラニー・クラインとラカンは次のように言っている。

私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である[In my view…the introjection of the breast is the beginning of superego formation…The core of the superego is thus the mother's breast] (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)

母なる超自我・太古の超自我、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我の効果に結びついている[Dans ce surmoi maternel, ce surmoi archaïque, ce surmoi auquel sont attachés les effets du surmoi primordial dont parle Mélanie KLEIN,](Lacan, S5, 02 Juillet 1958)


もっともラカンは母の乳房に限定せず、母あるいは母の身体とした。

メラニー・クラインの分節化は次のようになっている、すなわちモノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[L'articulation kleinienne consiste en ceci :  à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère, ](Lacan, S7, 20  Janvier  1960)


モノとは母なるモノである、《母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノの場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ]》(Lacan, S7, 16  Décembre  1959)


このモノがラカンの現実界であり、享楽の対象である。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


この前エディプス的母が原超自我であるのは、最晩年フロイトの記述においても確認できる。

心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


ーー高等動物にもある幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]はもちろん《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)である。


母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)


この依存の対象としての母なる超自我が幼児に享楽(欲動)を与えるのである。

(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


なお前エディプス的母なる超自我が与える享楽は身体に関わり、ラカンの享楽はフロイトの欲動である。

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


フロイトにおいてもエスの欲動(エスのリビドー)はもちろん身体的要求に関わる。

エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章1939年)


他方、エディプス的父なる超自我は事実上、ラカンの父の名であり、言語かつ欲望(フロイトの願望)である、ーー《フロイト用語の願望をわれわれは欲望と翻訳する[Wunsch, qui est le terme freudien que nous traduisons par désir.]》(J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016)


ラカンが、フロイトのエディプスの形式化から抽出した「父の名」[Le Nom-du-Père que Lacan avait extrait de sa formalisation de l'Œdipe freudien](Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)

言語は父の名である[C'est le langage qui est le Nom-du-Père]( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)

欲望は言語に結びついている[le désir: il tient au langage](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)



以上、極めて簡潔に二種類の超自我の内実を示したつもりである。なお中期以降のラカンにとって超自我とは前エディプス的母なる超自我であり、エディプス的父なる超自我には触れなくなる。父なる超自我概念自体、私の知る限りで、セミネールⅣで一度だけ口に出したのみである。


「エディプスなき神経症概念」……私はそれを母なる超自我と呼ぶ。…問いがある。父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。

Cette notion de la névrose sans Œdipe,[…] ce qu'on a appellé le surmoi maternel :   […]- on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ?    (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)



繰り返せば、後年のラカンが超自我用語を使う時は、前エディプス的超母なる自我でありーー《エディプスの失墜において…超自我は言う、「享楽せよ!」と。[au déclin de l'Œdipe …ce que dit le surmoi, c'est : « Jouis ! » ](Lacan, S18, 16 Juin 1971)ーー、他方、エディプス的父なる超自我の代わりに使用したのは父の名、あるいはフロイトの自我理想概念である。



自我理想は父の代理である[Ichideals …ist ihnen ein Vaterersatz.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、摘要、1921年)


要するに自我理想は象徴界で終わる[l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique](Lacan, S24, 08 Février 1977)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

父の名は象徴界にあり、現実界にはない[le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel]( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)



※附記


なお二種類の超自我区分が日本ではいまだ鮮明化されていないのは、フロイト自身の記述の問題もある。フロイトは超自我概念を初めて提出した『自我とエス』の第3章で次のように書いたのである。

自我内部の分化は、自我理想あるいは超自我と呼びうる[eine Differenzierung innerhalb des Ichs, die Ich-Ideal oder Über-Ich zu nennen ist](フロイト『自我とエス』第3章、1923年)


これで多くのフロイト読者は父の代理としての自我理想と超自我を等置し、超自我はエディプス的父だと看做してしまった。この一世紀のあいだそう思い込み続けた。だがいくらか読み込んでいくとそれだけではないことが分かる。これがここで示したことである。


例えばドゥルーズ&ガタリの『アンチオイディプス』はエディプス的父の彼岸には自由があると誤読した。だが父の言語に関わる欲望の審級のエディプス、その彼岸には母の身体に関わる欲動があるのである。


自由などは決してない、あるのは不快である。

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


※続き➡︎二種類の超自我」から「二種類の抑圧