日本における解離研究の第一人者とされる岡野憲一郎氏のブログ記事をたまたま読んだ。
われわれに解離すなわち意識内容の制限と統御がなければ、われわれはただちに潰滅する。われわれは解離に支えられてようやく存在しているということができる。サリヴァンの解離の意味は現行と少し違うが、「意識にのぼせると他の意識内容と相いれないものを排除するのが解離である」という定義は今も通用すると私は思う。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年) |
この中井久夫=サリヴァンを簡潔に言い換えれば、「人はみな解離している」とすることができる。 次の文はどうか。 |
外傷神経症〔・・・〕その主な防衛機制は何かというと、解離です。置換・象徴化・取り込み・体内化・内面化などのいろいろな防衛機制がありますが、私はそういう防衛機制と解離とを別にしたいと思います。非常に治療が違ってくるという臨床的理由からですが、もう少し理論化して解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。〔・・・〕 サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
これは事実上、「解離はトラウマの排除」であると言い換えうる。 |
あるいはーー、 |
プルーストの…「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。…解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年『日時計の影』所収) |
フラッシュバックは解離していたものの意識への一挙奔入とある。中井久夫の思考の下では、解離の病理とは、解離自体にあるのではなく、この解離の解除にあるということになる。なぜなら人はみな解離しているのだから。そして解離=排除であり、このフラッシュバックは「排除されたトラウマの回帰」と言い換えうる。 さらにーー、 |
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
「異物」とはフロイトにおいてトラウマを意味する。したがって先の「排除されたトラウマの回帰」とは、フロイト的に言えば「排除された異物のレミニサンス」である。 |
トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用し、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子としての効果を持つ[das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss]。〔・・・〕 これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛みを呼び起こし、殆どの場合、レミニサンスを引き起こす[..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz … leide größtenteils an Reminiszenzen.](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要) |
なお、この邦訳では「異物」と訳されてきた"Fremdkörper"を、私は身体的要素を強調するために「異者としての身体」と訳すのを好んできたが、フロイトの定義においてエスの欲動蠢動でもある。 |
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
つまり異者としての身体=トラウマ=欲動であり、「排除されたトラウマ」とは、フロイトにおいて《排除された欲動 [verworfenen Trieb]》(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)を意味する。 |
なおフロイトはロマン・ロラン宛の書簡で次のような言い方もしている。 |
疎外は注目すべき現象である。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察される。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかである。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, … Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs. 後者の事例において、われわれは離人症を語る。疎外と離人症は密接に関係している。In letzterem Fall spricht man von »Depersonalisation«; Entfremdungen und Depersonalisationen gehören innig zusammen. 〔・・・〕 離人症は「二重意識」、より正確には「スプリットパーソナリティ」と呼ぶべき驚くべき状態につながる。しかしこれに関するすべてはあまりに不明瞭でほとんど科学的に解明されていないため、私はあなたの前では議論しないよう自粛しなければならない。[Von der Depersonalisation führt der Weg zu der höchst merkwürdigen » double conscience«, die man richtiger »Persönlichkeitsspaltung« benennt. Das ist alles noch so dunkel, so wenig wissenschaftlich bezwungen, daß ich mir verbieten muß, es vor Ihnen weiter zu erörtern.] 私の目的にとっては、疎外の二つの一般的特性に戻れば十分である。何よりもまず、この二つの特性は、何ものかを自我から遠ざける・否認することを目指している[Es genügt meiner Absicht, wenn ich auf zwei allgemeine Charaktere der Entfremdungsphänomene zurückkomme. Der erste ist, sie dienen alle der Abwehr, wollen etwas vom Ich fernhalten, verleugnen. ](フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年) |
これは事実上、「異者の解離」を語っているとしてよいだろう、つまりはトラウマの解離、欲動の解離を。 |
なおフロイトは本来の抑圧をリビドー分離[Libidoablösung]としている。 |
本来の抑圧の主要特徴であるリビドー分離[Hauptcharakter der eigentlichen Verdrängung, die Libidoablösung](フロイト『症例シュレーバー』第3章、1911年) |
この分離こそ解離である、《解離 [Dissoziation]ーーつまり心的領域の分離[Auflösung]ーーの傾向 [Neigung zur Dissoziation ― zur Auflösung des Zusammenhanges im seelischen Geschehen]》(フロイト『精神分析的観点から見た心因性視覚障害』1910年) |
つまりフロイトにおいての本来の抑圧はリビドー解離であり、別名、欲動解離である。 |
リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年) |
この解離された欲動が、先に示した「排除された欲動=排除されたトラウマ」である。つまりフロイトにおいて「抑圧されたものの回帰」の原点にあるのは、このトラウマの回帰なのである。 |
抑圧されたものの回帰は、トラウマと潜伏現象の直接的効果に伴った神経症の本質的特徴としてわれわれは叙述する[die Wiederkehr des Verdrängten, die wir nebst den unmittelbaren Wirkungen des Traumas und dem Phänomen der Latenz unter den wesentlichen Zügen einer Neurose beschrieben haben. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.3, 1939年) |
結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年) |
《トラウマ的不安状況》とあるが、これは冗語法であり、フロイトにとって不安自体がトラウマである、ーー《不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]》(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
………………
なお、ラカンもフロイトのVerwerfungを forclusionと翻訳するときに「解離」の語を口に出している(それまでの仏語訳は、rejet だった)。
それは例えば、2024年9月15日日曜日のブログ「記憶の抑制に意味があるのか? 6」に端的に現れている。 |
三人の先生方により論じられたのは思考や記憶の意図的な抑制である。それらが健常人でも生じることについては様々な研究により示されている。しかし臨床で出会う健忘は解離の機制が関与していることが非常に多い。過去に起きたことが一定期間思い出せない場合、それは抑制という意図的な努力が関係していないことが普通である。 |
フロイトにおいて解離の機制とは抑圧の第一段階の原抑圧の機制でありーー《われわれには原抑圧、つまり、抑圧の第一段階を仮定する根拠がある[Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung]》(フロイト『抑圧』1915年)ーー、つまり排除の規制である、《原抑圧の名は排除と呼ばれる[le nom du refoulement primordial…s'appelle la forclusion]》(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 26 novembre 2008) |
原抑圧 Urverdrängung | 抑圧された欲動[verdrängte Trieb](フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
抑圧された固着[verdrängten Fixierungen] (フロイト『精神分析入門』第23講、1917年) | |
抑圧されたトラウマ[verdrängte Trauma](フロイト『精神分析技法に対するさらなる忠告』1913年) | |
後期抑圧 Nachverdrängung | 抑圧された願望(欲望)[verdrängte Wünsche](フロイト『夢解釈』第5章、1900年) |
抑圧された表象[verdrängten Vorstellungen](フロイト『夢解釈』第7章、1900年) | |
抑圧された思想[verdrängten Gedanken ] (フロイト『夢解釈』第7章、1900年) |
右端下段の「現勢神経症」は現実神経症とも訳される語であり、これが事実上、解離に関わる外傷性神経症である。 |
今日の講演を「外傷性神経症」という題にしたわけは、私はPTSDという言葉ですべてを括ろうとは思っていないからです。外傷性の障害はもっと広い。外傷性神経症はフロイトの言葉です。 医療人類学者のヤングによれば、DSM体系では、神経症というものを廃棄して、第4版に至ってはついに一語もなくなった。ところがヤングは、フロイトが言っている神経症の中で精神神経症というものだけをDSMは相手にしているので、現実神経症と外傷性神経症については無視していると批判しています(『PTSDの医療人類学』)。 もっともフロイトもこの二つはあんまり論じていないのですね。私はとりあえずこの言葉(外傷性神経症)を使う。時には外傷症候群とか外傷性障害とか、こういう形でとらえていきたいと思っています。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。 目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないうことがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収) |
これまたフロイトの神経症といえば、一般には「精神神経症」のことだと見做されているが実際はまったくそうではない。