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2024年9月25日水曜日

憑依とエクリチュール

 

Bach, Overture in the French Style in B Minor, BWV831: IX. Bourrée II

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 Glenn Gould

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Svetlana Navasardyan





二人とも実に素晴らしい演奏だ。何年か前、スベトラーナの憑依したような顔にイカれてから脳内で反復して止まないブーレなのだが、やはりグールドの録音にもイカレる。


シュネデールはグールドの録音はエクリチュールだと言ったが、現在に至るまでの他のすべての演奏家の録音との決定的違いはここにあると言ってもよいのではないか。


またしてもパラドックスだ。 「耳で聞く」のではなくて、ほとんど読まねばならないあの声。本が書かれているという事実を読むときに忘れているとプルーストはラスキンを批判する。「本はただ会話の声をそのまま永遠に残すためのものではない。単純に同じたぐいの声ーーほかならぬ〈話し言葉〉にすぎないとしたら、そのまま永遠に残すのは、それを伝えたり増殖させたりするのと同じく浅薄なことになるといわざるをえない。」 グールドの考える録音とは、普及や保存の手段ではなく、コンサートというかたちの「会話」とは異なる性質のものをつくりだす行為であり、別の音楽的手段が必要となり、別の聴き手に語りかけるものである。グールドのレコードは書かれている。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』第6変奏)


グールドの演奏の神秘は、すぐに彼だとわかる独特の稠密なイントネーションに結び付いている(イントネーションは分析困難だ。それはいうならば、同一のピアノをもちいて同一の音を同じ音量で弾くピアニストがふたりいて、それぞれ出る音の響きが違うことだといってもよい。) グールドのイントネーションは、貧しいもの、絆を欠いた裸のもの、低いところにあるものと結び付いている。それは神を知ろうと望んでいる。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』第2変奏)



他方、スベトラーナの憑依はトーマス・マン曰くの「妖怪の世界」を想起させる。

音楽は一見いかに論理的・倫理的な厳密なものであるにせよ、妖怪たちの世界に属している、と私にはむしろ思われる。この妖怪の世界そのものが理性と人間の尊厳という面で絶対的に信頼できると、私はきっぱりと誓言したくはない。にもかかわらず私は音楽が好きでたまらない。それは、残念と思われるにせよ、喜ばしいと思われるにせよ、人間の本性から切り離すことができない諸矛盾のひとつである。(トーマス・マン『ファウスト博士』1947年)



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Johannes Brahms • Intermezzo in A major, Op. 118, No. 2 • Svetlana Navassardian

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Edvard Grieg • Lyric Pieces, Op. 43: No. 6, Til Foråret (To Spring) • Svetlana Navassardian




ロマン主義的なるものとはこの世のなかでもっとも心温まるものであり、民衆の内面の感情の深処から生まれた、もっとも好ましいもの自体ではないでしょうか?疑う余地はありません。それはこの瞬間までは新鮮ではちきれんばかりに健康な果実ですけれども、並みはずれて潰れやすく腐りやすい果実なのです。適切な時に味わうならば、正真正銘の清涼感を与えてくれますが、時を逸してしまうと、これを味わう人類に腐敗と死を蔓延させる果実となるのです。ロマン主義的なるものは魂の奇跡です―― 最高の魂の奇跡となるのは、良心なき美を目にし、この美の祝福に浴したときでありましょうが、ロマン主義的なるものは、責任をもって問題と取り組もうとする生に対する善意の立場からすれば、至当な根拠から疑惑の目で見られるようになり、良心の究極の判決に従って行う自己克服の対象となってまいります。(トーマス・マン「ニーチェ記念講演」1924年)