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2024年9月24日火曜日

失われつつある人間性(農業ロボットと殺人ロボット)

 


動画


すごいなあ、科学の進歩は。日本も中国ほどではないだろうが、デンソーやクボタなどが頑張っているらしいね、➡︎「農業へのAI導入事例15選!スマート農業・自動化ロボットで変わる?」【2024年最新版】

この農業ロボットなどによる生産性の向上の方向だけに科学は進んだらいいのだが、そうでないのが厄介だな。


◾️ロボット兵器の自律性に関する一考察 ―LAWS(自律型致死兵器システム)を中心として―

上野博嗣  海幹校戦略研究 2019 年 7 月(9-1) 防衛省 PDF

はじめに


近年の戦場における無人兵器の使用は、火薬、核弾頭に次ぐ第 3 の軍事革命と言われており、無人兵器、すなわち「ロボット兵器(robotic weapons)」は、人工知能(Artificial Intelligence: AI)との融合により、自動化から「自律化」へと進化している。また、ロボット兵器のうち特に自律型兵器システム(Autonomous Weapon Systems: AWS)の導入は、将来の戦争の本質に大きな影響を与えることが予想されている。このように、ロボット兵器と AI の結合が、戦場の様相を変えつつあるのである。

中国は 2030 年までに「最高のグローバル AI イノベーションセンターになる」という目標を掲げ、その過程で AI 技術が米国を上回る可能性が指摘されている。また、現ロシア軍参謀総長ゲラシモフ(Valery Gerasimov) 将軍は、2013 年に「戦争の未来」(future of warfare)という記事の中で、 AI 研究の重要性を挙げ、「近い将来、完全にロボット化された部隊が作られ、独立して軍事作戦を遂行することが可能になるであろう」と予測している。

これらに対し、2016 年 6 月に米国国防科学委員会(Defense Science Board: DSB)がまとめた『自律性に関する夏季研究報告書』(Summer Study on Autonomy)では、ロボット兵器に自律性を持たせることが「接近阻止/ 領域拒否(Anti-Access and Area-Denial: A2/AD)」を強化する主要な例として挙げられており 、 ジャミング 等の敵対的環境下 (adversarial environment)でも任務が遂行できる自律性を持ったロボット兵器の重要性を指摘している。

このようななか、自律型兵器による危険な軍拡競争が進行中であると指摘されている。特に、ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)とハーバード ロースクール国際人権クリニックは、2012 年 11 月に『失われつつある人間性: 殺人ロボットに反対する論拠』(以下、「HRW 報告書」という。)に おいて、今後 AI を含む科学技術の発展により、20 年から 30 年以内に人間の意思が介入することなく、標的を自ら選択し攻撃できる完全自律型兵器(fully autonomous weapons)、いわゆる「殺人ロボット(killer robots)」 が開発されると予想している。


「失われつつある人間性」という観点からは、殺人ロボットだけでなく農業ロボットも同じ穴の狢だろうよ


六月   茨木のり子


どこかに美しい村はないか

一日の仕事の終わりには一杯の黒ビール

鍬を立てかけ 籠をおき

男も女も大きなジョッキをかたむける


どこかに美しい街はないか

食べられる実をつけた街路樹が

どこまでも続き すみれいろした夕暮れは

若者のやさしいさざめきで満ち満ちる


どこかに美しい人と人の力はないか

同じ時代をともに生きる

したしさとおかしさとそうして怒りが

鋭い力となって たちあらわれる


………………


※附記


このところ何度も繰り返しているが、「失われつつある人間性」とは、フロイト観点からは裸の人間性が現れるということである。

戦争は、より後期に形成された文化的層をはぎ取り、われわれのなかにある原人間を再び出現させる[Krieg …Er streift uns die späteren Kulturauflagerungen ab und läßt den Urmenschen in uns wieder zum Vorschein kommen.](フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年)

人間のもっとも深い本質はもろもろの欲動活動にあり、この欲動活動は原始的性格をそなえていて、すべてのひとびとにおいて同質である[daß das tiefste Wesen des Menschen in Triebregungen besteht, die elementarer Natur, bei allen Menschen gleichartig sind](フロイト『戦争と死に関する時評』, 1915年)


欲動、つまり《エスの欲動蠢動[Triebregung des Es]》(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)であり無道徳である、《エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein]》(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)。ラカンが「法なき現実界」と言うとき、このエスを指している、《私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi.  Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre].》  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)   


要するに「失われつつある人間性」とはフロイト的には「失われつつある自我」であり、底部のエスなる原人間が露顕することを意味する。

自我は自分の家の主人ではない[Ich …, daß es nicht einmal Herr ist im eigenen Hause](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年)

自我はエスの組織化された部分にすぎない[ das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)


エスなる原人間こそ、フロイトにとっての「人間は人間にとって狼」にほかならない。



人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛性向が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃性向も含まれている。したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在であるばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃性を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ。人間は人間にとって狼である[Homo homini lupus]といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はいるだろうか。

通例この残忍な攻撃性は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃性は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人―― の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦の身の毛もよだつ事件まで を想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。

自分自身の心の中にも感ぜられ、他人も自分と同じく持っていると前提してさしつかえないこの攻撃性向の存在[Die Existenz dieser Aggressionsneigung, die wir bei uns selbst verspüren können, beim anderen mit Recht voraussetzen]こそは、われわれと隣人の関係を阻害し、文化に大きな厄介をかける張本人だ。そもそもの初めから人間の心に巣喰っているこの人間相互の敵意のために、文化社会は不断に崩壊の危険に曝されている。欲動的情動は理性的打算より強力だから、労働共同体の利害などを持ち出しても、文化社会を繋ぎとめておくことはできないだろう。人間の攻撃欲動を規制し、その発現を心理的反動形成によって抑止するためには、文化はその総力を結集する必要がある。さればこそ文化は、人間を同一化や本来の目的を制止された愛の結びつきへと駆り立てるためのさまざまな方法を動員し、性生活に制限を加え、「隣人を自分自身のように愛せ」などという、本来をいえば人間の本性にこれほど背くものはないということを唯一の存在理由にしているあの理想的命令を持ち出すのだ。


しかし、必死の努力にもかかわらず、これまでのところ文化は、この点で大した成果はあげていない。犯罪人を力で抑える権利を自分にあたえることによって文化は、血なまぐさい暴力が極端に横行することは防ぐことができると考えている。けれども、人間の攻撃性がもっと巧妙隠徹な形であらわれると、もはや法律の網にはひっかからない。われわれはすべて、若いころの自分が他人に託した期待を錯覚だったとして捨て去る日を一度は経験し、他人の悪意のおかげでいかに自分の人生が厄介で苦しいものになるかを痛感するはずである。そのさいわれわれは、争いと競争を人間の活動分野から締め出そうとするからといって文化を責めることはできないだろう。争いと競争はもとより不可欠である。けれども、対立はかならずしも敵対関係を意味する必要はなく、ただ敵対関係を作りだすためのきっかけに悪用されているにすぎない。……

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)


私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃欲動ならびに自己破壊欲動による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。この点、現代という時代こそは特別興味のある時代であろう。

いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩をとげ、自然力の助けを借りればたがいに最後の一人まで殺し合うことが容易である。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っていることから生じている。

Die Schicksalsfrage der Menschenart scheint mir zu sein, ob und in welchem Maße es ihrer Kulturentwicklung gelingen wird, der Störung des Zusammenlebens durch den menschlichen Aggressions- und Selbstvernichtungstrieb Herr zu werden. In diesem Bezug verdient vielleicht gerade die gegenwärtige Zeit ein besonderes Interesse. 

Die Menschen haben es jetzt in der Beherrschung der Naturkräfte so weit gebracht, daß sie es mit deren Hilfe leicht haben, einander bis auf den letzten Mann auszurotten. Sie wissen das, daher ein gut Stück ihrer gegenwärtigen Unruhe, ihres Unglücks, ihrer Angststimmung.

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年)

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben1933年)



フロイトの『文化の中の居心地の悪さ』とは「科学文明の中の居心地の悪さ」と言い換えうる。


ラブレーはこう書いている、《良心なき科学は魂の墓場にほかならない》と。まさにその通り。坊主の説教なら、昨今の科学は魂の荒廃をもたらしているとの警告になるが、周知の通り、この時世では魂は存在しない。事実、昨今の科学は魂を地に堕としてしまった 。〔・・・〕魂以外に人間は存在しないのにもかかわらず。

ce qu'a écrit RABELAIS…  « Science sans conscience - a-t-il dit - n'est que ruine de l'âme ».   

Eh ben, c'est vrai.  C'est à prendre seulement, non pas comme les curés le prennent, à savoir que ça fait des ravages, dans cette âme qui comme chacun sait n'existe pas, mais ça fout l'âme par terre !   …il n'y a pas plus de monde que d'âme(Lacan, S21, 19 Février 1974)

科学はとりわけ死の欲動と結びついている[La science est liée à ce qu'on appelle spécialement pulsion de mort](ラカン、S 25, 20 Décembre 1977)