だれだれはナルシシズムだ、という言い方がしばしばなされるのだが、ではそういうキミはナルシシストじゃないのかい、と言いたくなるときがある。
自分自身のイメージにたいする気づかい、こいつはどうも、人間の矯正しようのない未熟さなんですねえ。自分のイメージに無関心でいるのはなんとも難しい! そういう無関心は人間の力を超えている。(クンデラ『不滅』第4部「ホモ・センチメンタリス」1990年) |
あなたは《自分自身のイメージにたいする気づかい》をしてないのかい? もししていたらナルシシストだよ、と。 |
「…人間とはイメージ以外の何ものでもないよ。哲学者たちは、世の中の意見などどうでもいい、あるがままのぼくらだけが大事なんだと巧みに説明するかもしれない。しかし、哲学者たちには何も分かっていないのさ。ぼくたちが人類諸氏のなかで生きている限り、ぼくたちは人類諸氏によってこうだと見られる人間にされるだろうね。他のひとたちがぼくたちのことをどう見ているだろうかと考えこんだり、ひとの眼にできるだけ感じよく見られようと努力したりすると、腹黒い奴とか策士だとみなされるものなんだな。だけど、ぼくの自我と他人の自我のあいだに、直接の接触が存在するものなのかね、視線をおたがいに交わしあわなくても? 愛している相手の心のなかで自分がどう思われているか、その自分自身のイメージを不安な気持で追跡しないで、愛が考えられるものなのかね? 他人がぼくたちをどう見ているか、その見方が気にならなくなったら、ぼくらはその他人をもう愛していないことなんだよ」〔・・・〕 |
「ぼくたちのイメージは単なる外見で、そのうしろに、世の中のひとびとの視線とかかわりのない、自我のまぎれもない本体が隠されているなどと思うのは、まあ無邪気な幻想だよ。徹底的な臆面のなさで、イマゴローグたちは、その逆こそ本当だと証明しているんだね。 つまり、ぼくたちの自我というのは単なるうわべの外見、とらえようのない、言いあらわしようのない、混乱した外見であり、これにたいして容易すぎるくらい容易にとらえられ言いあらわされるたったひとつの実在は、他人の眼に映るぼくたちのイメージなんだよ。 そしていちばん困るのはこういうことだね。きみにはそのイメージに責任がもてないんだ。 まず最初はきみ自身でそのイメージを描きだそうとやってみるし、つぎには、せめてそのイメージにたいして影響をもちつづけ、それを制御しようとやってみるんだけれど、でも無駄なんだね。なにか悪意のある言いかたひとつあれば十分、それだけでもうきみは永遠に嘆かわしい劇画へと変わってしまうのさ」(クンデラ『不滅』第3部「闘い」1990年) |
《ぼくたちの自我というのは単なるうわべの外見、とらえようのない、言いあらわしようのない、混乱した外見であり、これにたいして容易すぎるくらい容易にとらえられ言いあらわされるたったひとつの実在は、他人の眼に映るぼくたちのイメージなんだよ。》とあるが、これがフロイトラカンにおける自我なるナルシシズムである。 |
理想自我は自己愛に適用される。ナルシシズムはこの新しい理想的自我に変位した外観を示す。[Idealich gilt nun die Selbstliebe, …Der Narzißmus erscheint auf dieses neue ideale Ich verschoben](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年) |
理想自我[ i'(a) ]は、自我[i(a) ]を一連の同一化によって構成する機能である。Le moi-Idéal [ i'(a) ] est cette fonction par où le moi [i(a) ]est constitué par la série des identifications (Lacan, S10, 23 Janvier l963) |
自我 [i(a) ]は主体の鏡像イマージュを表す [i(a) représente l'image spéculaire du sujet]J.-A. MILLER, Supplément: Les graphes de Jacques Lacan, Avril, 1966 ) |
想像界から来る対象、自己イマージュ[image de soi]によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが 自我i(a) と呼ばれるものである。 c'est un objet qui vient tout de même de l'imaginaire, c'est un objet qu'on met en valeur à partir de l'image de soi, c'est-à-dire de la théorie du narcissisme, l'image de soi chez Lacan, s'appelle i de petit a. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 09/03/2011) |
要するに自我自体がナルシシズムにほかならない。極論を言わせてもらえば、自分の意見を言えば、既に常にナルシシストではないだろうか。
もうひとつ先のクンデラから再掲しよう、ーー「他のひとたちがぼくたちのことをどう見ているだろうかと考えこんだり、ひとの眼にできるだけ感じよく見られようと努力したりすると、腹黒い奴とか策士だとみなされるものなんだな。だけど、ぼくの自我と他人の自我のあいだに、直接の接触が存在するものなのかね、視線をおたがいに交わしあわなくても? 愛している相手の心のなかで自分がどう思われているか、その自分自身のイメージを不安な気持で追跡しないで、愛が考えられるものなのかね? 他人がぼくたちをどう見ているか、その見方が気にならなくなったら、ぼくらはその他人をもう愛していないことなんだよ」とあった。 ここにある愛がラカンのナルシシズムである。 |
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愛はイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる、そしてあなたを装う自己イマージュであり、またそれがはぎ取られるときあなたを見捨てる自己イマージュである[l'amour ; soit de cette image, image de soi dont l'autre vous revêt et qui vous habille, et qui vous laisse quand vous en êtes dérobée],(ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965) |
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ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,… l'amour c'est le narcissisme ](Lacan, S15, 10 Janvier 1968) |
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さてどうだろう、あなたはナルシシストではないのだろうか? こういう言い方をしてもいい、ロラン・バルト的に、あなたは自分のイメージの変質をおそれていないだろうか、と。 |
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「イメージ」の変質とは、相手のことでわたしが恥ずかしい思いをするときに起ると言えるかもしれない(パイドロスによれば、まさしくそうした恥へのおそれこそ、ギリシャの恋人たちを「善」の道につなぎとめるものであったという。恋人たちはみな、相手の眼に映る自分のイメージに気をつけなければならないのであった)。ところで、恥は服従から生じるものである。わたしの洞察力、あるいは錯乱をもってしてようやく把えられるささいなできごとを通じて、突如あの人の姿は、本来が奴隷のものであるような願望に縛られたものと見えてくるーー隠された姿があらわれ、引き裂かれ、写真でいう意味で焼き付けられてくる。突如としてあの人が、社交的な典礼に迎合し、これを尊び、これに身を屈してまで自分を認めてもらおうと奔走し、狂乱し、あるいはただ単に夢中になっているのが見えてくる(ことはあくまで視覚的な問題である)。「悪しきイメージ」とは悪意のイメージではない。卑俗なイメージなのだ。陳腐な社交界のとりこになったあの人を示すイメージなのだ。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「変質」1975年) |
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特にツイッター社交界など自己イメージ作りに汲々としたナルシシズムの饗宴の場以外のなんだというのか。
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いけね、今度はバルトがきたよ、 |
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私はきのう書いたことをきょう読み直す、印象は悪い。それは持ちが悪い。腐りやすい食物のように、一日経つごとに、変質し、傷み、まずくなる。わざとらしい《誠実さ》、芸術的に凡庸な《率直さ》に気づき、意気阻喪する。さらに悪いことに、私は、自分では全然望んでいなかった《ポーズ》を認めて、嫌気がさし、いらいらする。(ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収) |
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ワカルカイ、このバルトは日記について書いてるんだが、ブログだって同じだよ、「自分では全然望んでいなかった《ポーズ》を認める」のは。 とはいえ私の口にこびりついている嘔気だけは真実だぜ。 ああ、またきた、今度は俊だ。
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