フロイトのナルシシズムってのは難しいんだよ、二種類あるからな[参照]。
一般には、ナルシシズムは自己愛、つまり自我のナルシシズム[Narzißmus des Ichs]と捉えている筈だが、原ナルシシズム(一次ナルシシズム)は自体性愛ーー自己身体愛ーーなんだ。
ま、フロイト概念は少し前示したようにだいたいは二種類あるんだがね。
これと同じ並びにあるんだ、自己愛/自体性愛は(つまり自我/エス)。
で、自体性愛とは《自己身体へのリビドーの固着[Fixierung der Libido an den eigenen Leib] 》(フロイト『精神分析入門』第26講「リビドー理論とナルシシズム」、1917年)を意味する。ナルシシズム理解にとってさらに厄介なのは、原乳幼児期には、子供は母の身体と自分の身体を区別していない、とフロイトは何度も指摘している。つまり究極の自己身体への固着とは「母の身体への固着」なんだな。これが究極の「原ナルシシズム=自体性愛」だ。
で、ラカンの享楽はこの自体性愛にほかならない。
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である[Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance, et plus précisément, comme je l'ai accentué cette année, par sa jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. […] Lacan a étendu ce caractère auto-érotique en tout rigueur à la pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique.](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011) |
欲動、つまりリビドーであり、自体性愛的リビドーがラカンの享楽だ。 |
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である[Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
自体性愛的欲動は原初的なものである[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich](フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年) |
リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年) |
ラカンの「性関係はない」とは自体性愛ゆえにだよ
「性関係はない」が真理なら、それはたんに享楽、身体として捉えられた大他者の享楽ゆえにである[S'il est vrai qu'il n'y a pas de rapport sexuel parce que simplement la jouissance, la jouissance de l'Autre prise comme corps](Lacan, S20, 26 Juin 1973) |
大他者の享楽は、自己身体の享楽以外の何ものでもない[La jouissance de l'Autre, … il n'y a que la jouissance du corps propre.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 8 avril 2009) |
この自己身体の享楽が自体性愛的享楽[jouissance auto-érotique]、つまり自体性愛的欲動のこと。 |
身体の実体は、《自ら享楽する身体》として定義される[Substance du corps, …qu'elle se définisse seulement de « ce qui se jouit ». ](Lacan, S20, 19 Décembre 1972) |
「自ら享楽する身体」とは、フロイトが自体性愛と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない[il s'agit du corps en tant qu'il se jouit. C'est la traduction lacanienne de ce que Freud appelle l'autoérotisme. Et le dit de Lacan Il n'y a pas de rapport sexuel ne fait que répercuter ce primat de l'autoérotisme.] (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, - 30/03/2011) |
そして繰り返せば、自体性愛とは原ナルシシズム(一次ナルシシズム)と等価であり、これが人間の原条件だ、少なくともフロイトラカン派においては。 |
享楽は関係性を構築しない。これは現実界的条件である[la jouissance ne se prête pas à faire rapport. C'est la condition réelle](Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011) |
つまり原人間はみな原ナルシシストだ。これが前回記したことの底意だよ。
人はみなこの原人間の穴埋めをしているにすぎない。 |
我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが、トラウマの穴をなす[tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974) |
穴、それは非関係によって構成されている[un trou, celui constitué par le non-rapport](Lacan, S22, 17 Décembre 1974) |
何による穴埋め? 妄想によって。 |
フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。 Freud…Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978) |
「人はみな狂っている(人はみな妄想する)」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。…この意味はすべての人にとって穴があるということである[au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. MILLER, Vie de Lacan, 17/03/2010 ) |
病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である[Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion.] (フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』「症例シュレーバー」第3章、1911年) |
再構成とあるが、別の言い方なら組織化だ。 |
自我は自分の家の主人ではない[Ich …, daß es nicht einmal Herr ist im eigenen Hause](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年) |
自我はエスの組織化された部分である[ das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年) |
つまり自我は妄想だよ。
これはカントが既に似たようなことをいっている。 |
しかし、この学(自我心理学)の根底にはわれわれは、単純な、それ自身だけでは内容の全く空虚な表象「自我」以外の何ものをもおくことはできない。自我という表象は、それが概念である、と言うことすらできず、あらゆる概念に伴う単なる意識である、と言うことができるだけである。 Zum Grunde derselben koennen wir aber nichts anderes legen, als die einfache und fuer sich selbst an Inhalt gaenzlich leere Vorstellung: Ich; von der man nicht einmal sagen kann, dass sie ein Begriff sei, sondern ein blosses Bewusstsein, das alle Begriffe begleitet. (カント『純粋理性批判』1781年) |
ヘーゲルだったら世界の夜だね、 |
||||||
人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 [Nacht der Welt]であり、空無[leere Nichts] である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 [reines Selbst]。こちらに血まみれの頭[blutiger Kopf]が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊[weiße Gestalt]が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜[Nacht der Welt]がこのとき、われわれの現前に現れている。(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie ) |
||||||
だから人はみな穴埋めしなくちゃならない。 |
||||||
世界も生もあまりにバラバラ! ドイツのあの教授を訪ねてみるさ きっと生をつなぎ合わせて 完全無穴の体系を構築してくれる ナイトキャップと寝巻の襤褸を 世界の穴に詰め込むってわけさ Zu fragmentarisch ist Welt und Leben! Ich will mich zum deutschen Professor begeben. Der weiß das Leben zusammenzusetzen, Und er macht ein verständlich System daraus; mit seinen Nachtmützen und Schlafrockfetzen Stopft er die Lücken des Weltenbaus. ーーハインリヒ・ハイネ「帰郷 Die Heimkehr」LVIII『歌の本』
|
ま、冗談っぽく聞こえるかもしれないが、これが原ナルシシスムの究極の意味だよ。
後期フロイト(おおよそ1920年代半ば以降)において、「自体性愛/ナルシシズム」は、「原ナルシシズム/二次ナルシシズム」におおむね代替されている。原ナルシシズムは、自我の形成以前の発達段階の状態を示し、母胎内生活という原像、子宮のなかで全的保護の状態を示す。 Im späteren Werk Freuds (etwa ab Mitte der 20er Jahre) wird die Unter-scheidung »Autoerotismus – Narzissmus« weitgehend durch die Unterscheidung »primärer – sekundärer Narzissmus« ersetzt. Mit »primärem Narzissmus« wird nun ein vor der Bildung des Ichs gelegener Zustand sder Entwicklung bezeichnet, dessen Urbild das intrauterine Leben, die totale Geborgenheit im Mutterleib, ist. (Leseprobe aus: Kriz, Grundkonzepte der Psychotherapie, 2014) |
子宮内生活は、まったき享楽の原像である。原ナルシシズムはその始まりにおいて、自我がエスから分化されていない原状態として特徴付けられる。 La vie intra-utérine est l'archétype de la jouissance parfaite. Le narcissisme primaire est, dans ses débuts, caractérisé par un état anobjectal au cours duquel le moi ne s'est pas encore différencié du ça. (Pierre Dessuant, Le narcissisme primaire, 2007) |
で、ヘーゲルの世界の夜 [Nacht der Welt]はラカンにとってブラックホールだ、《ジイドを不安で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir ]》(Lacan, JEUNESSE DE GIDE, E750, 1958)
というわけで、先のハイネの《世界も生もあまりにバラバラ!/ドイツのあの教授を訪ねてみるさ /きっと生をつなぎ合わせて /完全無穴の体系を構築してくれる /ナイトキャップと寝巻の襤褸を/ 世界の穴に詰め込むってわけさ》をじっくり味読することだね
で、もう少し遡って次のダ・ヴインチも読んどかないとな。 |
我々の往時の状態回帰(原カオスへの回帰 ritornare nel primo chaos)への希望と憧憬は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。 la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume[…] desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』) |
実際のところ、原人間の憧憬はそこらじゅうにあるんだよ。
小津安二郎『東京物語』 |
クリストは一代の予言者になつた。同時に又彼自身の中の予言者は、――或は彼を生んだ聖霊はおのづから彼を飜弄し出した。我々は蝋燭の火に焼かれる蛾の中にも彼を感じるであらう。蛾は唯蛾の一匹に生まれた為に蝋燭の火に焼かれるのである。クリストも亦蛾と変ることはない。(芥川龍之介「西方の人」昭和二年七月十日、遺稿) |
|
これらを卑近に言い換えたのがニーチェに依拠したフロイトにすぎない。
エスの力[Macht des Es]は、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。〔・・・〕エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は、心的な生の上に課される身体的要求を表す。 Die Macht des Es drückt die eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesens aus. Sie besteht darin, seine mitgebrachten Bedürfnisse zu befriedigen. Eine Absicht, sich am Leben zu erhalten und sich durch die Angst vor Gefahren zu schützen, kann dem Es nicht zugeschrieben werden. Dies ist die Aufgabe des Ichs […] Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe. Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。 ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?おお、人間よ、よく聴け! - nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht! - hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年) |
|
自我なる妄想にとどまっている限り真夜中の声は聞こえてこないだろうがね。 |
|
ゴダール『決別』 |
……………………
※附記 鴎外は自我の人だった。 |
この頃自分は Philipp Mainlaender が事を聞いて、その男の書いた救抜の哲学を読んで見た。 〔・・・〕人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面を背ける。次いで死の廻りに大きい圏を画いて、震慄しながら歩いてゐる。その圏が漸く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。 さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。 自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬しようけい」も無い。 死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。 (森鴎外「妄想」明治四十四年三月―四月) |
芥川や折口とは違って。 |
マインレンデルは頗る正確に死の魅力を記述してゐる。実際我々は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるやうにぢりぢり死の前へ歩み寄るのである。(芥川龍之介「侏儒の言葉」1927(昭和2)年) |
強ひて申さば、自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる樣です。 文學上に問題になる生活の價値は、「將來欲」を表現する痛感性の強弱によつてきまるのだと思ひます。概念や主義にも望めず、哲學や標榜などからも出ては參りません。まして、唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。のみか、生活を態度とすべき文學や哲學を態度とした増上慢の樣な氣がして、いやになります。鴎外博士なども、こんな意味で、いやと言へさうな人です。あの方の作物の上の生活は、皆「將來欲」のないもので、現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引きです。もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた事でせう。〔・・・〕 |
芥川さんなどは若木の盛りと言ふ最中に、鴎外の幽靈のつき纏ひから遁れることが出來ないで、花の如く散つて行かれました。今一人、此人のお手本にしてゐたことのある漱石居士などの方が、私の言ふ樣な文學に近づきかけて居ました。整正を以てすべての目安とする、我が國の文學者には喜ばれぬ樣ですが、漱石晩年の作の方が遙かに、將來力を見せてゐます。麻の葉や、つくね芋の山水を崩した樣な文人畫や、詩賦をひねくつて居た日常生活よりも高い藝術生活が、漱石居士の作品には、見えかけてゐました。此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好悪の論」初出1927年) |
あるいは三島とも違って? |
古代の智者は、現代の科学者とちがつて、忌はしいものについての知識の専門家なのであつた。かれらは人間生活をよりよくしたり、より快適により便宜にしたりするために貢献するのではなかつた。死に関する知識、暗黒の血みどろの母胎に関する知識、さういふ知識は本来地上の白日の下における人間生活をおびやかすものであるから、一定の智者がそれを統括して、管理してゐなければならなかつた。 ( 三島由紀夫「折口信夫氏の思ひ出」ーー折口信夫全集第27巻月報、1956年) |
私は自殺をする人間がきらひである。自殺にも一種の勇気を要するし、私自身も自殺を考へた経験があり、自殺を敢行しなかつたのは単に私の怯懦からだと思つてゐるが、自殺する文学者といふものを、どうも尊敬できない。武士には武士の徳目があつて、切腹やその他の自決は、かれらの道徳律の内部にあつては、作戦や突撃や一騎打と同一線上にある行為の一種にすぎない。だから私は、武士の自殺といふものはみとめる。しかし文学者の自殺はみとめない。〔・・・〕 |
あるひは私の心は、子羊のごとく、小鳩のごとく、傷つきやすく、涙もろく、抒情的で、感傷的なのかもしれない。それで心の弱い人を見ると、自分もさうなるかもしれないといふ恐怖を感じ、自戒の心が嫌悪に変はるのかもしれない。しかし厄介なことは、私のかうした自戒が、いつしか私自身の一種の道徳的傾向にまでなつてしまつたことである。〔・・・〕 |
自殺する作家は、洋の東西を問わず、ふしぎと藝術家意識を濃厚に持つた作家に多いやうである。〔・・・〕芥川は自殺が好きだつたから、自殺したのだ。私がさういふ生き方をきらひであつても、何も人の生き方に咎め立てする権利はない。(三島由紀夫「芥川龍之介について」1954(昭和29)年) |