2024年11月15日金曜日

戦争による「原始時代のドラゴンへの退行」

 

中井久夫は幼児期への退行について、ラルヴァ、考古学、個人的先史時代等、巧な表現を使いながら次のように記している。


精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

幼児型記憶と成人型記憶との間には、幼児型言語と成人型言語との差と並行した深い溝がある。それは、幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)との差に比することができる。エディプス期はサナギの時期に比することができる。

 私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



ここで中井久夫が言っている、前エディプス期への退行、あるいは個人的先史時代への退行とは、フロイト用語なら固着への退行である。


固着と退行は互いに独立していないと考えるのが妥当である[Es liegt uns nahe anzunehmen, daß Fixierung und Regression nicht unabhängig voneinander sind.](フロイト『精神分析入門」第22講、1917年)

前エディプス期の固着への退行はとても頻繁に起こる[Regressionen zu den Fixierungen jener präödipalen Phasen ereignen sich sehr häufig; ](フロイト『続精神分析入門』第33講、1933年)



フロイトは比喩を使ってこの固着を次のように語っている。


人類の歴史の初期にはしばしば起こったことだが、全住民が居住地を立ち去って新しい場所を探し求めるとき、我々が確かめうるのは、彼らのすべてが新しい土地に到着しなかったことである。他の喪失はさておき、小さな集団あるいは移住民の一群は、途中で立ち止まり、その場所に定住する。一方で本体の集団は新しい土地に向かってさらに前に進んで行く。

Wenn ein ganzes Volk seine Wohnsitze verläßt, um neue aufzusuchen, wie es in früheren Perioden der Menschengeschichte oftmals geschah, so ist es gewiß nicht in seiner Vollzahl an dem neuen Orte angekommen. Von anderen Verlusten abgesehen, muß es sich regelmäßig zugetragen haben, daß kleine Haufen oder Verbände der Wanderer unterwegs haltmachten und sich an diesen Stationen niederließen, während die Hauptmenge weiterzog. 

〔・・・〕

どの固有の性的志向においても、その或る部分は、より初期の発達段階に置き残される[zurückgeblieben]。他の部分が目的地に到達することがあっても。〔・・・〕より初期の段階のある部分傾向の置き残しが、固着ーー欲動の固着ーーと呼ばれるものである。

daß wir es für jede einzelne Sexualstrebung für möglich halten, daß einzelne Anteile von ihr auf früheren Stufen der Entwicklung zurückgeblieben sind, wenngleich andere Anteile das Endziel erreicht haben mögen.(…) daß ein solches Verbleiben einer Partialstrebung auf einer früheren Stufe eine Fixierung (des Triebes nämlich) heißen soll. (フロイト『精神分析入門』第22講、1917年)



置き残される[zurückgeblieben]とあるが、フロイトはこの語を頻繁に使っている、ここでは3例だけ掲げよう。


原初に置き残された欲動[primär zurückgebliebenen Triebe](フロイト『症例シュレーバー 』第3章、1911年)

自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残される[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)

常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残し[Zurückbleiben]がある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓 [Reste der früheren Libidofixierungen]が存続しうる。〔・・・〕一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴンは本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。

Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. (…) daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (…) Was einmal zu Leben gekommen ist, weiß sich zäh zu behaupten. Manchmal könnte man zweifeln, ob die Drachen der Urzeit wirklich ausgestorben sind. 

(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


ーーここでの《原始時代のドラゴン[Drachen der Urzeit]》が先の中井久夫の「個人的先史時代」であるだろう。


さらに、《以前のリビドー固着の残滓 [Reste der früheren Libidofixierungen]》とあるが、欲動の固着がエスに置き残されることであり、これが本来の無意識である。ーー《リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]》(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)


フロイトは欲動の普遍的性質について次のように記している。

以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要)


この以前の状態こそ、《以前のリビドー固着の残滓(置き残し)》にほかならない。

欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に、対象への欲動の拘束[Bindung des Triebes ]がある場合、それを固着[Fixierung]と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。

Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. (…)  Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト『欲動とその運命』1915年)



この固着の置き残し、つまり固着の残滓がラカンのリアルな対象aであり、享楽にほかならない。


残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, S10, 21 Novembre  1962)

享楽は、残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)

対象aは現実界の審級にある[(a) est de l'ordre du réel.]   (Lacan, S13, 05 Janvier 1966)


したがってーー、

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert…une répétition de la fixation infantile de jouissance]. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…)  on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る[Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation]( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)




なおフロイトにとって戦争もこの退行を引き起こす契機となる。


……心的発達は、他の発達過程にはけっして見られないようなある特質をもっている。村が町へと成長し、子供が大人へと成長する場合、村や子供は、町や大人の陰に失われる。記憶のみが、新たな像のなかに古い特徴を読みとることができるのであって、実際には、古い素材も形もとり除かれ、新たなものにとってかえられてしまっているのだ。ところが、心的発達の場合には事情は異なる。この場合、事態は他と比較しえないものであり、つぎのような主張の形で記述するしかないのである。すなわち、すべての早期の発達段階は、そこから生じた後期の段階とならんで保たれているのであり、継起は共存を制約するが、にもかかわらず、変化の全系列は同一の素材を通して経過するのである。早期の心的状態は、長年にわたって出現しないでいても、あくまで存在しつづけ、いつかはふたたび心的諸力の表出形態となりうるのであり、しかも、唯一の表出形態として、あたかもすべての後期の発達は廃棄され、後退させられたかにすら見えることもあるほどである。心的発達のもつこのような特別の可塑性は、方向的には制限されているのであり、この可塑性は、特殊な退行作用[besondere Fähigkeit zur Rückbildung – Regression –]として説明しうる。このように呼ぶのは、後期の、より高い発達段階は、一度放棄されると二度と獲得されえない、ということもよくあるからである。しかし原初の段階へはいつでも戻りうる。原初の心的状態は、言葉の十全な意味で、不滅である。

Seelische Entwicklungen besitzen nämlich eine Eigentümlichkeit, welche sich bei keinem anderen Entwicklungsvorgang mehr vorfindet. Wenn ein Dorf zur Stadt, ein Kind zum Mann heranwächst, so gehen dabei Dorf und Kind in Stadt und Mann unter. Nur die Erinnerung kann die alten Züge in das neue Bild einzeichnen; in Wirklichkeit sind die alten Materialien oder Formen beseitigt und durch neue ersetzt worden. Anders geht es bei einer seelischen Entwicklung zu. Man kann den nicht zu vergleichenden Sachverhalt nicht anders beschreiben als durch die Behauptung, daß jede frühere Entwicklungsstufe neben der späteren, die aus ihr geworden ist, erhalten bleibt; die Sukzession bedingt eine Koexistenz mit, obwohl es doch dieselben Materialien sind, an denen die ganze Reihenfolge von Veränderungen abgelaufen ist. Der frühere seelische Zustand mag sich jahrelang nicht geäußert haben, er bleibt doch soweit bestehen, daß er eines Tages wiederum die Äußerungsform der seelischen Kräfte werden kann, und zwar die einzige, als ob alle späteren Entwicklungen annulliert, rückgängig gemacht worden wären. Diese außerordentliche Plastizität der seelischen Entwicklungen ist in ihrer Richtung nicht unbeschränkt; man kann sie als eine besondere Fähigkeit zur Rückbildung – Regression – bezeichnen, denn es kommt wohl vor, daß eine spätere und höhere Entwicklungsstufe, die verlassen wurde, nicht wieder erreicht werden kann. Aber die primitiven Zustände können immer wieder hergestellt werden; das primitive Seelische ist im vollsten Sinne unvergänglich.


精神疾患と呼ばれるものは、一般の人には知的生や心的生が破壊されているという印象を必然的に与える。だが実際には、破壊は後に獲得されたものや発達にのみ適用される。精神疾患の本質は、情動的生と機能が以前の状態に回帰することにある。

Die sogenannten Geisteskrankheiten müssen beim Laien den Eindruck hervorrufen, daß das Geistes- und Seelenleben der Zerstörung anheimgefallen sei. In Wirklichkeit betrifft die Zerstörung nur spätere Erwerbungen und Entwicklungen. Das Wesen der Geisteskrankheit besteht in der Rückkehr zu früheren Zuständen des Affektlebens und der Funktion. 〔・・・〕

われわれの文明適合性が依拠しているところの欲動改造も、生の作用によって持続的または一時的に取り消される可能性がある。戦争の影響は、このような退行を生み出す力のうちのひとつであることは疑いない。

Es kann also auch die Triebumbildung, auf welcher unsere Kultureignung beruht, durch Einwirkungen des Lebens – dauernd oder zeitweilig – rückgängig gemacht werden. Ohne Zweifel gehören die Einflüsse des Krieges zu den Mächten, welche solche Rückbildung erzeugen können 

(フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年)



つまり戦争は原始時代のドラゴンへの退行を促す力があるということになる。



なお、退行は悪い面ばかりではない。

何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。〔・・・〕


思い返せば、著述とは、宇宙船の外に出て作業する宇宙飛行士のように日常から離脱し、頭蓋内の虚無と暗黒とに直面し、その中をさしあたりあてどなく探ることである。その間は、ある意味では自分は非常に生きてもいるが、ある意味ではそもそも生きていない。日常の生と重なりあってはいるが、まったく別個の空間において、私がかつて「メタ私」「メタ世界」と呼んだもの、すなわち「可能態」としての「私」であり「世界」であり、より正確には「私 -世界」であるが、その総体を同時的に現前させれば「私」が圧倒され破壊されるようなもの、たとえば私の記憶の総体、思考の総体の、ごく一部であるが確かにその一部であるものを、ある程度秩序立てて呼び出さねばならなかった。(中井久夫「執筆過程の生理学」初出1994年『家族の深淵』所収)


おそらく退行なき芸術家はない。