比較的よく知られているだろうフーコーをめぐるドゥルーズの「欲望と快楽 Désir et plaisir」がある。
最後に会った時、ミシェル(フーコー)は優しさと愛情を込めて、私におおよそ次のようなことを言った。僕は欲望 désir という言葉に耐えられない、と。もし君たちが異なった意味でその語を使っているにせよ、僕はこう考えたり経験せざるをえない、つまり欲望=欠如、あるいは欲望は抑圧されたものだと。ミシェルは付け加えた、僕が「快楽 plaisir」と呼んでいるのは、君たちが「欲望 désir」と呼んでいるものであるのかもしれないが、いずれにせよ、僕には欲望以外の言葉が必要だ、と。 |
La dernière fois que nous nous sommes vus, Michel me dit, avec beaucoup de gentillesse et affection, à peu près : je ne peux pas supporter le mot désir ; même si vous l’employez autrement, je ne peux pas m’empêcher de penser ou de vivre que désir = manque, ou que désir se dit réprimé. Michel ajoute : alors moi, ce que j’appelle « plaisir », c’est peut-être ce que vous appelez « désir » ; mais de toute façon j’ai besoin d’un autre mot que désir. |
言うまでもなく、これも言葉の問題ではない。というのは、私の方は「快楽」という言葉に耐えられないからだ。では、それはなぜか? 私にとって欲望には何も欠けるところがない。更に欲望は自然と与えられるものでもない。欲望は機能している異質なもののアレンジメントと一体となるだけだ。 |
Évidemment, encore une fois, c’est autre chose qu’une question de mot. Puisque moi, à mon tour, je ne supporte guère le mot « plaisir ». Mais pourquoi ? Pour moi, désir ne comporte aucun manque ; ce n’est pas non plus une donnée naturelle ; il ne fait qu’un avec un agencement d’hétérogènes qui fonctionne ;〔・・・〕 |
言ってしまえば、私はこれらのことすべてに当惑する。というのは、ミシェルとの関係においてはいくつかの問題が湧き起こるからだ。私は快楽に少しも肯定的な価値を与えられない。なぜなら快楽は欲望の内在的過程を中断させるように見えるから。 |
Si je dis tout cela tellement confus, c'est parce que plusieurs problèmes se posent pour moi par rapport à Michel : Je ne peux donner au plaisir aucune valeur positive, parce que le plaisir me paraît interrompre le procès immanent du désir ;〔・・・〕 |
私は自らに言う、ミシェルがサドに確かな重要性を結びつけ、逆に私はマゾッホにそうしたことは偶然ではないと。次のように言うことは十分ではない、私はマゾヒストでミシェルはサディストだと。とそれは当を得たように見えるが、本当ではない。マゾッホの中で私の興味を引くのは苦痛ではない。 快楽が欲望の肯定性、 そして欲望の内在野の構成を中断しにくるという考えだ。〔・・・〕快楽とは、人の中に収まりきらない過程の中で、人や主体が「元を取る」ための唯一の手段のように思える。それは一つの再領土化だ。 |
Je me dis que ce n’est pas par hasard si Michel attache une certaine importance à Sade, et moi au contraire à Masoch. Il ne suffirait pas de dire que je suis masochiste, et Michel, sadique. Ce serait bien, mais ce n’est pas vrai. Ce qui m’intéresse chez Masoch, ce ne sont pas les douleurs, mais l’idée que le plaisir vient interrompre la positivité du désir et la constitution de son champ d’immanence […] Le plaisir me paraît le seul moyen pour une personne ou un sujet de « s’y retrouver » dans un processus qui la déborde. C’est une re-territorialisation. |
(ドゥルーズ「欲望と快楽 Désir et plaisir」1994年『狂人の二つの体制 Deux régimes de fous』所収) |
ここではドゥルーズの「不幸な」欲望の定義は無視して記すが、上のフーコー曰くの《僕が「快楽 plaisir」と呼んでいるのは、君たちが「欲望 désir」と呼んでいるものであるのかもしれないが、いずれにせよ、僕には欲望以外の言葉が必要だ》というのはいつ言ったんだろうね。ほんとうに死の直前ではないだろうか。
例えばフーコーは『性の歴史』では「欲望」という語を連発している、しかも快楽と並置しつつの文もある。
エンクラテイア(克己)は、欲望や快楽の分野で抵抗したり戦ったりすることを可能にする、能動的な自己統御によって特徴づけられる。l'enkrateia se caractérise plutôt par une forme active de maîtrise de soi, qui permet de résister ou de lutter dans le domaine des désirs et des plaisirs. (フーコー『性の歴史第二巻 快楽の活用』 L'usage des plaisirs (Histoire de la sexualité, Volume 2 1984) | |||||
ーーこの書は1984年の上梓であり、フーコーの死の年である。 | |||||
ではフーコーの死後30年以上たってようやく2018年に上梓された『肉の告白(Les aveux de la chair)』ーー出版が遅れたのは種々の経緯があるようだがーーはどうか。たまたまPDFが落ちていたので覗いてみると、やはり欲望という語を連発している。 | |||||
でもフーコーは最終的にはdésirという語を別の語に変えたかったのではないか。 『肉の告白』の最終章最終節「性のリビドー化(LA LIBIDINISATION DU SEXE)」ではリビドーと欲望を等置したアウグスティヌスの仏訳文が掲げられている。
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フーコーは、欲望[Désir]なんて言葉をやめてリビドー[Libido]にしてくれたらよかったんだがな。
なおアウグスティヌスの原文がなんとWikipediaに落ちていたので英訳とともに掲げておこう。
…libido sit additur, non fere adsolet animo occurrere nisi illa, qua obscenae partes corporis excitantur. Haec autem sibi non solum totum corpus nec solum extrinsecus, verum etiam intrinsecus vindicat totumque commovet hominem animi simul affectu cum carnis appetitu coniuncto atque permixto, ut ea voluptas sequatur, qua maior in corporis voluptatibus nulla est; ita ut momento ipso temporis, quo ad eius pervenitur extremum, paene omnis acies et quasi vigilia cogitationis obruatur. Aurelius Augustinus, De Civitate Dei contra Paganos, CAPUT X V I . |
the word lust usually suggests to the mind the lustful excitement of the organs of generation. And this lust not only takes possession of the whole body and outward members, but also makes itself felt within, and moves the whole man with a passion in which mental emotion is mingled with bodily appetite, so that the pleasure which results is the greatest of all bodily pleasures. So possessing indeed is this pleasure, that at the moment of time in which it is consummated, all mental activity is suspended. Augustine, ON THE CITY OF GOD, BOOK XIV, Translated by Marcus Dods. |
リビドーの英訳はlustだね。こっちのほうが欲望よりずっとマシさ。
人間や動物にみられる性的要求の事実は、生物学では「性欲動」Geschlechtstriebesという仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢え」Hungerという言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドーという言葉を用いている。 |
Die Tatsache geschlechtlicher Bedürfnisse bei Mensch und Tier drückt man in der Biologie durch die Annahme eines »Geschlechtstriebes« aus. Man folgt dabei der Analogie mit dem Trieb nach Nahrungsaufnahme, dem Hunger. Eine dem Worte »Hunger« entsprechende Bezeichnung fehlt der Volkssprache; die Wissenschaft gebraucht als solche » Libido« |
※注1910年: リビドーはドイツ語の「Lust」という語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことに多義的であって、要求の感覚と同時に満足の感覚を呼ぶのにもこれが用いられる。 |
» Libido« :Das einzig angemessene Wort der deutschen Sprache »Lust« ist leider vieldeutig und benennt ebensowohl die Empfindung des Bedürfnisses als die der Befriedigung. |
(フロイト『性理論三篇』1905年) |
哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛との関係の点で精神分析でいう愛の駆り立てる力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕 この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。 Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse(…) Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年) |
フロイト・ラカンにおいては、リビドーつまり欲動は身体の審級、欲望は言語の審級にある[参照]。これはアウグスティヌスのリビドーだってそうだよ。先のアウグスティヌスはlibidoをcarnis appetitu(身体的欲)と等置してるんだから。
現代スピノザ研究者はappetitusを欲動としてるね。
《Appetitus ist Trieb 》(Willehad Lanwer & Wolfgang Jantzen, Jahrbuch der Luria-Gesellschaft 2014)と。 |
自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「欲動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに欲動とは人間の本質に他ならない。Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia(スピノザ『エチカ』第三部、定理9、1677年) |
こう訳したらピッタンコだな、欲動つまりリビドーの定義と。 |
欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年) |
リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年) |
ああ惜しまれるな、フーコーは残した書では「欲望」なんていうはしたない語に拘ってしまって。
※附記 リビドーをめぐるフロイトの次の文がある。 |
性欲動が心的生に表象される力を我々はリビドー、つまり性的要求と呼んでおり、それを飢えや力への意志等と類似したものと見なしている。 |
die Kraft, mit welcher der Sexualtrieb im Seelenleben auftritt, Libido – sexuelles Verlangen – als etwas dem Hunger, dem Machtwillen u. dgl. |
(フロイト『精神分析のある難しさ』Eine Schwierigkeit der Psychoanalys、1917年) |
フロイト英訳標準版のR. ストラッティ訳では次のように訳されている。 |
The force by which the sexual instinct is represented in the mind we call ‘libido' - sexual desire - and we regard it as something analogous to hunger, the will to power, and so on, |
この英訳標準版にて欲動[trieb] が本能 [instinct]に誤訳されているというのはしばしば指摘されるが、ここではもうひとつ、リビドー[Libido]が欲望[desire]と訳されている。これでは性欲動が性欲望になってしまう。 |
英語圏のフロイト研究者の大半がいまだスカスカなのはこういうところにもある。 |
なおニーチェにおける力への意志はもちろん欲動つまりリビドーである。 |
たとえば偉大さにおける安らぎ、理想的な志操、高い単純さをギリシア人で驚嘆しつつ、「美しい魂」、「黄金中庸」、その他の完全性をギリシア人のうちから嗅ぎ出すということーーこうした「高い単純さ」から、結局のところドイツ的愚かしさから私を守ってくれたのは、私がおのれのうちにもっていた心理学者のおかげである。私は、ギリシア人の最も強い本能、力への意志を見てとり、私は彼らがこの欲動の飼い馴らされていない暴力に戦慄するのを見てとった、ーー私は、彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対してたがいに身の安全を護るための保護手段から生じたものであるのを見てとったのである。 |
In den Griechen »schöne Seelen«, »goldene Mitten« und andre Vollkommenheiten auszuwittern, etwa an ihnen die Ruhe in der Größe, die ideale Gesinnung, die hohe Einfalt bewundern - vor dieser »hohen Einfalt«, einer niaiserie allemande zu guter Letzt, war ich durch den Psychologen behütet, den ich in mir trug. Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen. |
(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』所収、1888年) |
あれだけニーチェを読み込んだフーコー、しかも後年は古代ギリシアの性研究に没頭したフーコーがこの文を読み逃している筈はないのだがね。
なおロラン・バルトの欲望と享楽(欲動つまりリビドー)の実に優れた文がある。 |
享楽、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである[la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. ](『彼自身によるロラン・バルト』1975年) |
ラカンと親しい付き合いをしたバルトだが、これは次のラカンの起源がある。 |
私は欲動を翻訳して、漂流、享楽の漂流と呼ぶ[j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. ](ラカン、S20、08 Mai 1973) |
われわれの享楽のさまよい[égarement de notre jouissance](Lacan, Télévision , AE 534, 1973) |
あるいはーー、 |
欲動は裂け目の光の中に保留されている。欲望は皮肉にも快原理によって負わされた限界においてこの裂け目に出会う[La pulsion… suspendue dans la lumière d'une béance. Cette béance est celle que le désir rencontre aux limites que lui impose le principe dit ironiquement du plaisir](Lacan, E851, 1964年) |
ラカンは、欲動は《裂け目の光の中に保留されている》(『フロイトの欲動』E851) と言う。〔・・・〕さらに《欲望は快原理によって負わされた限界において〔この裂け目に〕出会う》(E851)と。これは、欲望は快原理の諸限界の範囲内に刻まれている、ということを意味している。 Lacan peut dire qu'elle (la pulsion) est "suspendue dans la lumière d'une béance".(…) "Cette béance, dit-il, le désir la rencontre aux limites que lui impose le principe du plaisir." C'est déjà inscrire le désir dans les limites du principe du plaisir. (J.-A. Miller, DONC Cours du 18 mai 1994) |
重要なのは、フロイト・ラカンにおいて欲望は快原理内、欲動は快原理の彼岸にあるものだということである。 |