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2024年11月27日水曜日

共同体の伝染力への闘争


私は好んで蓮實重彦の次の発言を引用してきたがね


蓮實)僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。〔・・・〕ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。〔・・・〕僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。〔・・・〕


流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦-柄谷行人対談集『闘争のエチカ』1988年)


この蓮實を次の柄谷とともに読んでみよう。

誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)

デカルトは、自分の考えていることが、夢をみているだけではないかと疑う。…夢をみているのではないかという疑いは、『方法序説』においては、自分が共同体の”慣習”または”先入見”にしたがっているだけではないかという疑いと同義である。〔・・・〕疑う主体は、共同体の外部へ出ようとする意志としてのみある。デカルトは、それを精神とよんでいる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)

ドストエフスキーは人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、“精神”であることを人は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人は幻想に支配されていると説くあの連中のように、夢をみていることを望むのである。(『探求Ⅱ』1989年)


で、ふたたび蓮實ーー、

蓮實)プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。〔・・・〕プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)


要するに学者ってのはチョロいんだよ、

学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年)

われわれの最高の洞察は、その洞察を受けとる資質もなく、資格もない者たちの耳に間違って入ったときには、まるでばかげたことのように、ことによると犯罪のように聞こえなければならないし――そうあるべきである!

Unsre hoechsten Einsichten muessen - und sollen! - wie Thorheiten, unter Umstaenden wie Verbrechen klingen, wenn sie unerlaubter Weise Denen zu Ohren kommen, welche nicht dafuer geartet und vorbestimmt sind. (ニーチェ『善悪の彼岸』第30番、1886年)


で、冒頭に戻れば、だいたい学者の解説書ってのは、共同体が容認する物語への翻訳だよ、つまり凡庸化だ。で、こういう具合になるんだなーー、


浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)


この共同体の伝染力に闘争しないとな、それが批評だよ。超越論的批評だ。



カントの哲学は超越論的――超越的と区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


柄谷)僕は昔、批評と批判というふうに区別したことがあります。批判において、自分が含まれているものが批評、含まれていないものが批判というふうに呼んでいたことがある。


その意味で、カントの「批判」は、ふつうの批判とちがって批評と言いいんですけど、それは、彼の言葉でいえば、「超越論的」なのですね。自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということです。だから、彼のいう「批判」は、「超越的」、つまりメタレベルに立って見下ろすものではなく、自己自身に関係していくものだと思う。〔・・・〕


蓮實)自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない…

(柄谷行人/蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)



私がツイッターを好まないのはこれらの理由だね、あれは紛いようもなく共同体の伝染装置だからな。