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2024年12月22日日曜日

西側文明は世界の寄生体

 

イスラエル出身の Alon Mizrahが実に的確なことを言っている。


Alon Mizrahi@alon_mizrahi Dec 21, 2024

ガザの後、集団暴力は以前と同じ様相を呈することは決してないだろう。西側諸国は最も生々しい恐怖を常態化し、矮小化した。この深い心の傷を癒すことができるのは、異なる文明か革命だけである。システムのツールを使ってこれを修復することはできない。壊れているのだ。



と彼の言葉を拾ったところで、
国連特別報告者 Francesca Albaneseが西側メディアの恥辱を語っているのに出会った。


ガザで起きていることは、今世紀の恥辱です


このジェノサイドは、メディアによる衝撃的な、本当に衝撃的な隠蔽工作なしには不可能だったでしょう


国際メディア、西側メディアが、ジェノサイドを行う国家の行為を擁護する役割を果たしているのです


─国連特別報告者 フランチェスカ・アルバネーゼ


sarah@sahouraxo Dec 19, 2024


“What’s happening in Gaza is the shame of the century.”


“This genocide would not have been possible without the shocking cover-up by the media.”


“The role of Western media in defending the acts of a genocidal state is unprecedented.”


―Francesca Albanese






ここでの Francesca Albanese は西側メディアに焦点を絞って語っているが、真の問題は先の Alon Mizrahi が言っているように、現在の西側文明自体がもはや恥辱以外の何ものでもないことだ。


プーチンの言い方なら西側諸国民は世界の寄生体である。



◾️プーチンーードミトリー・キセリョフによるインタビュー

Vladimir Putin answered questions from Dmitry Kiselev.March 13, 2024 The Kremlin, Moscow

肝心なのは、このいわゆる「黄金の10億人」が、何世紀にもわたって、500年もの間、他の民族に寄生してきたということだ。〔・・・〕彼らは何世紀にもわたって、腹を人肉で満たし、ポケットを金で満たしてきた。しかし、彼らは、吸血鬼の舞踏会が終わりに近づいていることに気付かなければならない。

The point is that this so-called "golden billion" has been practically parasitising on other peoples for centuries, 500 years.(…) They've spent centuries filling their bellies with human flesh and their pockets with money. But they must realise that the vampire ball is ending.



ラブロフはこれを「他者を犠牲にして生き続けたいという願望」と言っている。


◾️ラブロフ:於国際フォーラム「プリマコフ読書会」

Foreign Minister Sergey Lavrov’s remarks and answers to media questions at the Primakov Readings International Forum, Moscow, November 27 2023

私たちは西側諸国の新植民地主義的本能を目の当たりにしている。 500年以上にわたってそうしてきたように、他者を犠牲にして生き続けたいという願望である。 この時代が終わろうとしていることは誰の目にも明らかだ。 彼らはそれを自覚している。

We are witnessing neo-colonial instincts in the West. There is a desire to continue living at the expense of others, as they have been doing for over 500 years. It is clear to everyone that this epoch is coming to an end. They are aware of that.



もちろん日本も脱亜入欧により世界の寄生虫の一匹となったのである。


日本の植民地政策はアメリカと同様、ひどくクセが悪いことで知られている。



日本の植民地政策の特徴の一つは、被支配者を支配者である日本人と同一的なものとして見ることである。それは、「日朝同祖論」のように実体的な血の同一性に向かう場合もあれば、「八紘一宇」というような精神的な同一性に向かう場合もある。このことは、イギリスやフランスの植民地政策が、それぞれ違いながらも、あくまで支配者と被支配者の区別を保存したのとは対照的である。日本の帝国主義者は、そうした解釈によって、彼らの支配を、西洋の植民地主義支配と対立しアジアを解放するものであると合理化していた。むろん、やっていることは基本的に同じである。だが、支配を愛とみなすような「同一性」のイデオロギーは、かえって、被支配者に不分明な憎悪を生み出すこと、そして、支配した者に過去を忘却させてしまうことに注意すべきである。


こうした「同一性」イデオロギーの起源を見るには、北海道を見なければならない。日本の植民地政策の原型は北海道にある。いうまでもなく、北海道開拓は、たんに原野の開拓ではなく、抵抗する原住民(アイヌ)を殺戮・同化することによってなされたのである。その場合、アイヌとに日本人の「同祖論」が一方で登場している。〔・・・〕


この点にかんして参照すべきものは、日本と並行して帝国主義に転じたアメリカの植民地政策である。それは、いわば、被統治者を「潜在的なアメリカ人」とみなすもので、英仏のような植民地政策とは異質である。前者においては、それが帝国主義的支配であることが意識されない。彼らは現に支配しながら、「自由」を教えているかのように思っている。それは今日にいたるまで同じである。そして、その起源は、インディアンの抹殺と同化を「愛」と見なしたピューリタニズムにあるといってよい。その意味で、日本の植民地統治に見られる「愛」の思想は、国学的なナショナリズムとは別のものであり、実はアメリカから来ていると、私は思う。岡倉天心の「アジアは一つ」という「愛」の理念でさえ、実は、アメリカを媒介しているのであって、「東洋の理想」ではない。


札幌農学校は、日本における植民地農業の課題をになって設立されたものである。それが模範にしたのは、創設においてクラーク博士が招かれたように、アメリカの農業、というよりも植民地農政学であった。われわれは、これを内村鑑三に代表されるキリスト教の流れの中でのみ見がちである。しかし、そうした宗教改革と農業政策を分離することはできない。事実クラーク博士は宣教師ではなく農学者であったし、また内村鑑三自身もアメリカに水産科学を学びに行ったのであって、神学校に行ったのではない。さらに、内村と並ぶキリスト教徒の新渡戸稲造は、のちに植民地経営の専門家となっている。


北海道は、日本の「新世界」として、何よりもアメリカがモデルにされたのである。そして、ここに、「大東亜共栄圏」に帰結するような原理の端緒があるといえる。〔・・・〕日本の植民地主義は、主観的には、被統治者を「潜在的日本人」として扱うものであり、これは「新世界」に根ざす理念なのである。ついでにいえば、こうした日米の関係は、実際に「日韓併合」にいたるまでつづいている。たとえば、アメリカは、日露戦争において日本を支持し、また戦後に、日本がアメリカのフィリピン統治を承認するのと交換に、日本が朝鮮を統治することを承認した。それによって、「日韓併合」が可能だったのである。アメリカが日本の帝国主義を非難しはじめたのは、そのあと、中国大陸の市場をめぐって、日米の対立が顕在化したからにすぎない。(柄谷行人「日本植民地主義の起源」初出1993年『ヒュ―モアとしての唯物論』所収)



より具体的な記述のある安岡章太郎の『僕の昭和史』からも掲げておこう。


僕の昭和史は、大正天皇崩御と御大葬の記憶からはじまる。・・・その頃、僕らは朝鮮京城の憲兵隊宿舎に住んでいた。父は職業軍人で陸軍獣医大尉であり、僕は南山幼稚園にかよっていた。〔・・・〕


いまの京城、つまりソウルは、人口五百万とかの超過密都市で、東京と同様、或いはそれ以上に活気はあるけれど、自然環境の破壊も甚だしく、むかしの面影はまったくない。僕らのいた頃の京城は、人口はたぶん五十万ぐらい、小さいながら良くまとまって、ハイカラな感じの街だった。 僕らが住んでいたのは、本町(いまの忠武路)という目抜き通りの直ぐ裏手で、おもての通りには三越だの銀座の亀屋の支店だのが並んでいた。本町を南に行くと南大門の広場があり、そこには朝鮮銀行、その他、大きな会社の建物が集まっており、また町をちょっと出はずれたところに南山という丘があって、そこに僕のかよった幼稚園や小学校がある。この南山は、いまはKCIAの本拠になったおり、山の斜面一帯は新興資産家の住宅地になっていて、花崗岩やレンガで囲った家がぎっしり立ち並んでいるが、僕らのいた頃は朝鮮には珍しい青々として丘陵地帯だった。学校は斜面の中腹にあって、そこから少し奥に這入ると、深山幽谷のおもむきがあった。春先きなど、岩肌に張った氷の裂け目から奇麗な清水が湧き出しており、手をつけると千切れるほど冷たかったが、すくって飲むと体の中までスーッとするような、爽快な味がした。 空は、ほとんど一年じゅう晴れており、とくに冬になると青く澄んで、カーンと音がしそうな冴えた色をしていた。〔・・・〕


本町は、前にいったように京城で目抜き通りで、横浜や神戸の元町なんかにも似てシャレた店が多かった。しかし、このなかで朝鮮人のやっている店が一軒でもあっただろうか。店員も、客も、道を歩いている人も、日本人ばかりだったような気がする。


京城でも、母は日本人の女中を置いていた。最初はハルという人がいて、これがやめるとユクという人がきた……。考えてみると、これは当時、いかに人手が安かったかということだけではなく、いかに多勢の日本人が朝鮮に出掛けていたかということでもあるだろう。当時は日韓合併後、まだ二十年とたっていなかったはずだが、日本人は朝鮮のなかに完全に日本人だけの社会をつくり上げていた。南山幼稚園にも、南山小学校にも、朝鮮人の子供はたぶん一人もいなかったはずだ。そんなだから、僕は朝鮮に何年いても、朝鮮語というものは、二、三の単語を知っている程度で、まったく憶えようともしなかった。それどころか、朝鮮人に朝鮮語をつかうことを禁じ、朝鮮人ばかりを集めた朝鮮の学校で日本語の教育を強制した。そして後には、朝鮮人の姓を取り上げて日本姓にあらためさせるようにした。(安岡章太郎『僕の昭和史』I、1984年)