私は比較的熱心に中井久夫を読んできたが、いまは何よりも次の三文が貴重だ。
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収) |
一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
最初の文で喜ばしいトラウマの記憶を指摘したこと。次の二文でフロイト概念「異物」を取り上げてその重要性を語ったこと。フロイトの定義においてこの異物[Fremdkörper] ーー私は身体的要素を強調するために「異者としての身体」と訳すのを好むがーーはレミニサンスするものであり、かつ固着、エスの欲動である。
トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用し、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子としての効果を持つ[das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss]。〔・・・〕 これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛みを呼び起こし、殆どの場合、レミニサンスを引き起こす[..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz … leide größtenteils an Reminiszenzen.](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要) |
トラウマの記憶を伴った潜在意識と結びついた概念の固着[la fixation de cette conception dans une association subconsciente avec le souvenir du trauma] (Freud S. Etude comparative des paralysies motrices organiques et hystériques. 仏語論文、1893) |
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
見ての通り、「トラウマ=異物(異者身体)=固着=エスの欲動」であり、フロイトにとってトラウマは常にトラウマ的固着なのである。 |
トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]〔・・・〕ここで外傷神経症は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを[Die traumatische Neurose zeigt uns da einen extremen Fall, aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen](フロイト『続精神分析入門』第29講, 1933 年) |
そしてラカンとは何の関係もないように見えた中井久夫は、このフロイトの異物=異者としての身体 [Fremdkörper]概念を通して結びつく。 |
私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage. …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence. …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要) |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
我々にとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976) |
このレミニサンスする「現実界のトラウマ=異者身体」が固着である。 |
現実界は、同化不能な形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964) |
固着は、言説の法に同化不能なものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1 07 Juillet 1954) |
同化不能とはモノかつ異者身体の定義であり、固着である。 |
同化不能な部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895) |
同化不能な異物=異者としての身体[unassimilierte Fremdkörper ](フロイト『精神分析運動の歴史』1914年) |
固着されたモノ[die Dinge fixieren](フロイト「フリース宛書簡」 16. 3. 1896) |
この「同化不能な異物」の別の言い方は、まさに先の中井久夫が云う《自己史に統合されない「異物」》であり、これがトラウマ的固着である。 繰り返せば、ラカンにおいて「現実界=トラウマ=モノ=異者身体(異物)=固着」である。 |
現代主流ラカン派(フロイト大義派)のドン、ジャック=アラン・ミレールは固着が分析の核心だと2011年に言っている。 |
分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
つまり先の中井久夫が云う異物が分析経験の基盤ということになる。現代主流ラカン派が固着を強調し始めたのは2010年前後からであり、この意味で、中井久夫は固着概念にこそ言及していないが、異物概念に触れつつ、事実上、フロイトの核概念把握を現代ラカン派よりも先行していたことになる。 |
しかももうひとつある。解離=排除である。 |
解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
フロイトにとって固着は解離されるものである。 |
(発達段階の)展開の長い道のりにおけるどの段階も固着点となりうるし、これに関与するどの分岐点も性欲動の解離の機縁になりうる[Jeder Schritt auf diesem langen Entwicklungswege kann zur Fixierungsstelle, jede Fuge dieser verwickelten Zusammensetzung zum Anlaß der Dissoziation des Geschlechtstriebes werden(フロイト『性理論三篇』第3論文、1905年) |
先に示したように異物=トラウマ=固着=欲動であり、上でフロイトが言っている解離は《排除された欲動 [verworfenen Trieb]》(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)である。 |
こうして「固着=異物」と「解離=排除」が結びつく。つまり中井久夫は異物と解離を語ることによって、現代ラカン派の分析の核心「固着」に事実上触れているのである。 |
なお冒頭の中井久夫の「喜ばしきトラウマ」の指摘は、おそらくプルーストを読むことによって導き出されたのではないかと私は推測している。 |
「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。〔・・・〕 解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年) |
次のプルーストの記述ににおける異者のレミニサンスはまさに《解離していたものの意識への一挙奔入》であるだろう。 |
私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。 je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」) |
………………
ところで神田橋條治は中井久夫について次のように言っているそうだ[参照]。 |
「中井先生はウルトラマンである」と思う。超人とかスーパーマンとかの意ではない。光の国からぼくらのために、ぼくらの世界に来てくれた、超常的現象ではないかと空想してしまう。目前にしてさえ信じられないほどの知性と感性の冴えは、どのような文化領域にも光をもたらしうるほどのものである。 |
今のリンク先には出典が示されていないので、いつ、どこでの発言かは分からないが、《光の国からぼくらのために、ぼくらの世界に来てくれた、超常的現象ではないか》とは、私にとっても「いかにも」と同調したい。《信じられないほどの知性と感性の冴えは、どのような文化領域にも光をもたらしうるほどのもの》も同じく。 |
ここでもうひとつ松浦寿輝による中井久夫絶賛文を掲げておこう。
わたしは今の高校生と大学生に、中井久夫の文章を読むことを勧めたい。〔・・・〕日本語の「風味絶佳」とは何かということを若いうちに自分の身体で体験することは重要だ。〔・・・〕ぜひ中井久夫を読んでほしい。現代日本語の書き言葉がそれでもなお辛うじて保っている品格は、カヴァフィスやヴァレリーの翻訳を含む中井久夫の文業に多くを負っているからである。(松浦寿輝『クロニクル』2007年) |