このブログを検索

2025年1月2日木曜日

みてしのびざるの情の条件


 実況生中継でジェノサイドが延々と続いているわけだが、大半の方々は孟子の「惻隠の情」(みてしのびざるの情)なんてのは毛ほどもないように見えるね。少なくともツイッター社交界を覗く限りでは、ほとんどの人はーー孟子の言葉を仮に文字通り受けとめて言えばーー、人非人やってるよ、《惻隠の心無きは、人に非ざるなり》って具合にさ。


人皆人に忍びざるの心有り。

先王人に忍びざるの心有りて、斯に人に忍びざるの政(まつりごと)有り。

人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること之を掌上に運らすべし。


人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、今人乍(たちま)ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隠の心有り。

交はりを孺子の父母に内るる所以に非ざるなり。

誉れを郷党朋友に要むる所以に非ざるなり。

其の声を悪みて然するに非ざるなり。

是に由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。


羞悪の心無きは、人に非ざるなり。

辞譲の心無きは、人に非ざるなり。

是非の心無きは、人に非ざるなり。

惻隠の心は、仁の端なり。

羞悪の心は、義の端なり。

辞譲の心は、礼の端なり。

是非の心は、智の端なり。

人の是の四端有る、猶ほ其の四体有るがごときなり。


(孟子「公孫丑編」)


まずはやっぱりルソーが正しかったんだろうよ。


ルソーの三つの格率[Trois maximes]のうちの特に第二の格率だろうな。


【第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

PREMIÈRE MAXIME 

Il n'est pas dans le cœur humain de se mettre à la place des gens qui sont plus heureux que nous, mais seulement de ceux qui sont plus à plaindre.


【第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

DEUXIÈME MAXIME 

On ne plaint jamais dans autrui que les maux dont on ne se croit pas exempt soi-même.


【第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。

TROISIÈME MAXIME 

La pitié qu'on a du mal d'autrui ne se mesure pas sur la quantité de ce mal, mais sur le sentiment qu'on prête à ceux qui le souffrent.

(ジャン=ジャック・ルソー『エミール』1762年)



自分はあのジェノサイドを免れていると考えていたら、同一化は起こりにくいからな、

私たちはどのようにして憐れみに心を動かされるのであろうか。私たちを自分の外に連れ出して、苦しんでいる存在に同一化することによってである。

Comment nous laissons-nous émouvoir à la pitié ? En nous transportant hors de nous-mêmes ; en nous identifiant avec l'être souffrant.( ジャン=ジャック・ルソー『言語起源論』1781年)



フロイトにとって同情はこの同一化から生まれる。逆に同一化しなかったら同情しないということだ。


同情は同一化によって生まれる[das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]〔・・・〕

一人の自我が、他人の自我にある点で重要な類似をみつけたとき、われわれの例でいえば、同様な感情を用意している点で意味ふかい類似をみとめたとき、それにつづいてこの点で同一化が形成される。〔・・・〕

第一に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式である。

第二に、退行の道をたどって、同一化は、いわば対象を自我に取り入れることによって、リビドー的対象結合の代理物になる。


第三に、同一化は性欲動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに生じる。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化は、ますます効果のあるものになり、それは新たな結合の端緒を表すようになる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」1921年)


ま、もちろん想像力の問題もあるだろうがねーー、《同情をもたない人間は、同情する人間と何で区別されるか? 何よりもまずー ーここでもやはり荒っぽくのべるだけであるがーー同情をもたない人間は、恐怖という刺激されやすい想像力や、危険をかぎつける鋭い能力をもっていない[Was unterscheidet schliesslich die Menschen ohne Mitleid von den mitleidigen? Vor Allem ― um auch hier nur im Groben zu zeichnen ― haben sie nicht die reizbare Phantasie der Furcht, das feine Vermögen der Witterung für Gefahr;]》(ニーチェ『曙光』第133番、1881年)



さらに言えば、先の孟子曰くの《羞悪の心無きは、人に非ざるなり》は、次のラカンとともに読むことができるだろうよ、


もはやどんな恥もない[ Il n'y a plus de honte] …下品であればあるほど巧くいくよ[ plus vous serez ignoble mieux ça ira] (Lacan, S17, 17 Juin 1970)

文化は恥の設置に結びついている[la civilisation a partie liée avec l'instauration de la honte.]〔・・・〕ラカンが『精神分析の裏面』(1970年)の最後の講義で述べた「もはや恥はない」という診断。これは次のように翻案できる。私たちは、恥を運ぶものとしての大他者の眼差しの消失の時代にあると[au diagnostic de Lacan qui figure dans cette dernière leçon du Séminaire de L'envers : «Il n'y a plus de honte». Cela se traduit par ceci : nous sommes à l'époque d'une éclipse du regard de l'Autre comme porteur de la honte.](J.-A. MILLER, Note sur la honte, 2003年)


ここでジャック=アラン・ミレールが言っている大他者の眼差しは「エディプス的父の眼差し」を示している。

父の蒸発 [évaporation du père] (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)

エディプスの失墜[ déclin de l'Œdipe](Lacan, S18, 16 Juin 1971)


つまり家父長制の終焉の時代は人非人の時代だってことになるな。

今日、私たちは家父長制の終焉を体験している。ラカンは、それが良い方向には向かわないと予言した[Aujourd'hui, nous vivons véritablement la sor tie de cet ordre patriarcal. Lacan prédisait que ce ne serait pas pour le meilleur. ]。〔・・・〕

私たちは最悪の時代に突入したように見える。もちろん、父の時代(家父長制の時代)は輝かしいものではなかった〔・・・〕。しかしこの秩序がなければ、私たちはまったき方向感覚喪失の時代に入らないという保証はない[Il me semble que (…)  nous sommes entrés dans l'époque du pire - pire que le père. Cer tes, l'époque du père (patriarcat) n'est pas glorieuse, (…) Mais rien ne garantit que sans cet ordre, nous n'entrions pas dans une période de désorientation totale](J.-A. Miller, “Conversation d'actualité avec l'École espagnole du Champ freudien, 2 mai 2021)



ま、諦めるよりしょうがないよ、特に最後の父マルクスの死(冷戦終焉)以降の世代が人非人でも。フェミニズムも大いに貢献しての帰結さ、《わたしは目を瞠った。「家父長制と闘う」「ジェンダーの再生産」「自分を定義する」……。かつて女性学・ジェンダー研究の学術用語だった概念が、日常のことばのなかで使われている。》(上野千鶴子「セクハラ「ガマンしない娘たち」育てた誇り」 朝日新聞 2018年5月23日)



なんたって現在はーーもはや誰もが気付いているようにーー、女性原理の時代だからな。


原理の女性化がある。両性にとって女なるものがいる。過去は両性にとってファルスがあった[il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.](エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …

Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes, et depuis toujours elles le savent et elles ne le savent pas, elles ne peuvent pas le savoir vraiment, elles le sentent, elles le pressentent, ça s'organise comme ça. Les hommes? Écume, faux dirigeants, faux prêtres, penseurs approximatifs, insectes... Gestionnaires abusés... Muscles trompeurs, énergie substituée, déléguée...(ソレルス『女たち』1983年)


欧米の政治家たちの顔触れ見たらジェノサイドもやむなしさ。

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」C'est une chance énorme que les guerres aient été faites par les hommes. Si les femmes avaient fait la guerre, elles auraient été si conséquentes dans leur cruauté qu'il ne resterait aucun être humain sur la planète.(クンデラ『不滅』Milan Kundera, L'Immortalité,1990)


次のフロイト文はいささか古いと言う人が多いだろうが、これは現在、男も女性原理の支配下にあるとして読むなら、古くはない。

私は、明言を躊躇うのではあるが、女にとっての正常な道徳観のレベルは、男のものとは異なっていると思わざるをえない。

Man zögert es auszusprechen, kann sich aber doch der Idee nicht erwehren, daß das Niveau des sittlich Normalen für das Weib ein anderes wird. 〔・・・〕


女たちの性格特徴に対して、どの時代の批評も、女たちは男に比べ脆弱な正義意識をもつとか、生が持つ大いなる必然に従う心構えが弱い、と非難をしてきた。女たちは愛憎感情にはるかに影響されるのである。Charakterzüge, die die Kritik seit jeher dem Weibe vorgehalten hat, daß es weniger Rechtsgefühl zeigt als der Mann, weniger Neigung zur Unterwerfung unter die großen Notwendigkeiten des Lebens, sich öfter in seinen Entscheidungen von zärtlichen und feindseligen Gefühlen leiten läßt, 〔・・・〕


われわれに完全なジェンダー平等と敬意をおしつけようとしているフェミニストたちの反対にあったからといって、このような判断に迷う者はいないだろう。Durch den Widerspruch der Feministen, die uns eine völlige Gleichstellung und Gleichschätzung der Geschlechter aufdrängen wollen, wird man sich in solchen Urteilen nicht beirren lassen(フロイト『解剖学的な性の差別の心的帰結の二、三について』1925年)



女性原理の時代とは、男も女も母なるオルギアの時代だってことだ、《母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)》(中井久夫「母子の時間、父子の時間」摘要、2003年『時のしずく』所収)