質問をもらっているけれど、人の間違いを指摘するときはある程度は厳密に書かないといけないからな、とっても時間がかかったよ、1時間以上ムダにしたね。それに馬鹿にするのはあまり気分がいいもんじゃないな。健康のために記すつもりだったが修行が足りないのかね、《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである[Der Einwand, der Seitensprung, das froehliche Misstrauen, die Spottlust sind Anzeichen der Gesundheit]》(ニーチェ『善悪の彼岸』154番、1886年)
で、あまり気分がよくないので、裏ブログのほうにひっそり投稿しといたからな、➤「〇〇くんの全き誤謬」
誤解のないように。彼に恨みがあるわけじゃまったくないから。そもそも戦うべき相手じゃ全然ないよ。でもご要望に応えて、日本ラカン業界の症例のひとつを拡大鏡で嘲弄してみたってことだな。
攻撃する者の力の強さを測定するには、彼がどんな敵を必要としているかということが一種の尺度となる。ひとの生長度を知るには、どれほど強力な敵対者をーーあるいは、どれほど手ごわい問題を、求めているかを見ればよい。つまり、戦闘的な哲学者は、問題に対しても決闘を挑むのである。その場合かれがめざすことは、抵抗するものに勝ちさえすればいいということではなく、おのれのもつ力と敏活さと武技の全量をあげて戦わねばならないような相手ーーつまり自分と対等の相手に打ち勝つことである。…敵と対等であることーーこれが誠実な決闘の第一前提である。相手を軽視している場合、戦いということはありえない。相手に命令をくだし、いくぶんでも見下している場合には、戦うにはおよばない[Wo man verachtet, kann man nicht Krieg führen; wo man befiehlt, wo man etwas unter sich sieht, hat man nicht Krieg zu führen.] |
わたしの戦争実施要項[Meine Kriegs-Praxis]は、次の四箇条に要約できる。 第一に、わたしは勝ち誇っているような事柄だけを攻撃するーー事情によっては、それが勝ち誇るようになるまで待つ。 第二に、わたしはわたしの同盟者が見つかりそうにもない事柄、わたしが孤立しーーわたしだけが危険にさらされるであろうような事柄だけを攻撃する。わたしは、わたしを危険にさらさないような攻撃は、公けの場において一度として行なったことがない。これが、行動の正しさを判定するわたしの規準である。 |
第三に、わたしは決して個人を攻撃しないーー個人をただ強力な拡大鏡のように利用するばかりである。つまり、一般に広がっているが潜行性的で把握しにくい害悪を、はっきりと目に見えるようにするために、この拡大鏡を利用するのである。わたしがダーヴィット・シュトラウスを攻撃したのは、それである。より正確にいえば、わたしは一冊の老いぼれた本がドイツ的「教養」の世界でおさめた成功を攻撃したのであるーーわたしは、いわばこの教養の現行犯を押さえたのである……。わたしが、ワーグナーを攻撃したのも、同様である。これは、より正確にいえば、抜目のない、すれっからしの人間を豊かな人間と混同し、末期的人間を偉大な人間と混同しているわれわれの「文化」の虚偽、その本能の雑種性を攻撃したのである。 第四に、わたしは、個人的不和の影などはいっさい帯びず、いやな目にあったというような背後の因縁がまったくない、そういう対象だけを攻撃する。それどころか、わたしにおいては、好意の表示であり、場合によっては、感謝の表示なのである。わたしは、わたしの名をある事柄やある人物の名にかかわらせることによって、それらに対して敬意を表し、それらを顕彰するのである。(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第7節、1888年) |