フロイトの視点に立てば、人間は言語に囚われ、折檻を受ける主体である [Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage](Lacan, S3, 16 mai 1956) |
フロイト・ラカン派では、すべての教育は洗脳の機会となる危険をもっていると言われる。 |
教育は常に、シニフィアン(言表象)を送り届ける過程、つまり教師から生徒へと、知を受け渡す過程である。この受け渡しは、陽性転移があるという条件の下でのみ効果的である。人は愛する場所で学ぶ。 これは完全にフロイト派のタームで理解できる。主体は〈他者〉のシニフィアンに自らを同一化する。すなわち、この〈他者〉に陽性転移した条件の下に、この〈他者〉によって与えられた知に同一化する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility. 2011年) |
コミュニケーションとしての言語の機能…。この機能で重要なのは、メッセージというよりも、むしろ送り手と受け手の関係である。この関係によって、メッセージがどのように受け取られるか、あるいは受け取られないかが決まり、より具体的には、メッセージが「取り込まれ」、保持されるか、あるいは送り手の外に戻されるかが決まる。 教育はこの典型的な例である。人は「学ぶ」、つまり、肯定的な伝達関係においてシニフィアンを取り込むのである。これは、実際に教えられることの正確さや不正確さよりも、はるかに決定的な重要性を持っている。その結果、すべての教育は、洗脳の機会となる危険性をはらんでいる[all education runs the risk of turning into an opportunity for indoctrination.](Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004) |
この教育なる洗脳装置のメカニズムについて、政治の領野においてケイトリン・ジョンストンがより具体的に記述している。
ケイトリン・ジョンストン Caitlin Johnstone@caitoz Jan 31, 2025 |
彼らは私たちに何を考えるべきかを教えるだけでなく、どのように考えるかを訓練している。 小学校から私たちは前提が完全に詐欺的な世界についての思考の枠組みを教え込まれる。その枠組みの中で行われない分析は、よくても無知、悪ければ危険な過激主義として扱われる。 政治について自分自身の考えを持つ前に、私たちは選挙が現実のものであり、民主的に選出された政府が唯一の権力構造であると考えるように訓練される。私たちは、互いに反対する2つの政党間の選挙で人々がどのように投票するかによって、政府の決定が左右されると教えられ、重要な問題について最も有機的に人々の支持を集める立場を推進し、票を獲得する。これはまったくのデタラメだが、政治に関するあらゆる考えや意見の前提として教え込まれる基礎である。 |
政府について自分なりの考えを持つ前に、私たちは、自国の政治を動かしている人々は私たちにも知られており、首都で公職に就いていると想定することを教え込まれる。そして、現状に問題がある場合、有力者たちに責任を取らせ、真の変化をもたらす公式な手段があると教え込まれる。しかし、実際には選挙で選ばれていない富裕層や帝国の経営者たちによって支配されており、彼らは政府の役職に就いていないことも多いという事実は、決して真剣に考えられることはない。 私たちがメディアについて独自の考えを持つ前に、私たちは、ニュースメディアが支配者のプロパガンダ機関として機能するディストピア文明ではなく、自由な報道機関のある自由な国に住んでいるという前提を、出発点として当然視するように訓練されている。メディアの一部には明らかに特定の主流派政治派閥を支持する偏向報道があるかもしれないが、それでも、そのイデオロギーの分裂の両方の意見に耳を傾けることで、世界で起こっていることについて、ある程度正確な見解を得ることができると考えるように訓練されている。しかし、これらはすべて真実ではない。しかし、これが西洋のメディアにおける主流派の分析の枠組みとなっている。 |
外交政策について自分なりの考えを持つ前に、私たちは、米国とその同盟国は概ねこの世界にとって善なる力であり、米国が破壊しようと努める政府やグループに関する情報は概ね真実であると仮定することを教え込まれている。また、西洋の権力構造は不完全で、あちこちで間違いを犯すかもしれないが、外国人を殺したり、抑圧したりすることを決してやめてはならない、という前提で教育されている。なぜなら、そうしなければ悪者が勝ってしまうからだ。米国を中心とした帝国が地球上で圧倒的に最も暴政を敷き、人権を侵害しているという、簡単に数値化できる事実は、議論の俎上に載せられることはない。 これは、人々が学校で最初に教えられ、その後も生涯を通じてマスメディアによって信奉するように仕向けられる、世界を考えるための概念的枠組みである。もし彼らが大学に進学するなら、すなわち、社会で最も影響力を持つ人々が通う大学に進学するなら、この枠組みはさらに強引に叩き込まれることになる。特に、いわゆる「エリート」が通う名門大学ではその傾向が強い。 |
この枠組みの外から生じる考えは、主流の政治、メディア、学術界では真剣に受け止められることはない。 たまには、マリファナパイプを囲んで友人たちと語り合ったり、ポッドキャストの笑い話の合間に耳を傾けられることはあるかもしれないが、あくまでも傍流に置かれる。 影響力や成功を手に入れるためには、物事に対する特定の考え方に固執する必要があることを人々が学ぶことで、この傾向はさらに強まる。これにより、最も影響力のある声はすべて、公式の枠組みに準拠していることが保証される。 激しい意見の相違は許されるが、議論が始まる前に、関係者は全員、公式の枠組みの基礎となる仮定に固執する必要がある。その後は、この作られた分裂の反対側にいる相手と、思う存分熱く議論すればよい。なぜなら、あなたの考えは支配者たちにとって深刻な脅威となることはないからだ。 |
そして、これが最終的に世界を現在の姿にしている理由である。なぜなら、権力者たちは一般市民が物事をどう考えるかを巧みに操ることに成功しているからだ。私たちの心は、何を考えるべきかを伝えるプロパガンダであふれているが、それ以上に重要なのは、私たちが今後遭遇するかもしれない新しい情報について、どう考えるかを形作り、プログラムされていることである。 ほとんどの人は、現状に異議を唱えることを考える立場に立つ前に、すでに権力者の意図に心理的に屈している。私たちは家畜のように革命や変化の考えから遠ざけられ、鼻輪で牛を誘導するように、厳重に管理されたマインドによって導かれている。 この条件付けがどれほど広範に浸透しているかを知れば、真の革命運動がなかなか進まない理由が理解できるだろう。私たちは、心を解放する方法を見つけなければ、自分自身を解放することはできない。 |
Caitlin Johnstone@caitoz Jan 31, 2025 |
It’s not just that they tell us what to think, it’s that they train us HOW to think. From grade school on we are fed a framework for thinking about the world whose premises are completely fraudulent. Any analysis which does not take place within that framework is framed as ignorant at best and dangerous extremism at worst. Before we come up with a single thought of our own about politics, we are trained to assume as our starting point that elections are real and that the official democratically elected government is the only power structure calling the shots in our country. We are trained to assume that decisions get made in our government based on how people vote in elections between two parties who oppose each other and promote the most organically popular positions on important issues in order to win votes. This is all complete bullshit, but it’s the foundation we’re taught to premise all our ideas and opinions about political matters upon. |
Before we come up with a single thought of our own about government, we are trained to assume as our starting point that the people running things in our country are known to us and occupy official positions in our capitol. We are trained to assume that if we have a problem with the way things are going, there are official channels through which the powerful can be held to account and real changes can be advanced. The fact that we are actually ruled by unelected plutocrats and empire managers who often have no position in the official government is never seriously entertained. Before we come up with a single thought of our own about the media, we are trained to assume as our starting point that we live in a free country with a free press instead of a dystopian civilization where the news media function as the propaganda services of our rulers. We are trained to assume that while some parts of the media may have obvious biases about which mainstream political faction they favor, it’s still possible to get a more or less accurate read on what’s happening in the world by listening to both sides of that ideological divide. None of this is true, but it’s the framework in which all mainstream analysis of the western media occurs. Before we come up with a single thought of our own about foreign policy, we are trained to assume as our starting point that the US and its allies are more or less a force for good in this world, and that all the stories we hear about the governments and groups it works to destroy are more or less true. We are trained to assume that while the western power structure is imperfect and might make mistakes here and there, it must never stop killing and tyrannizing foreigners, because if it does, the bad guys might win. The easily quantifiable fact that the US-centralized empire is by far the most tyrannical and abusive power structure on earth never enters into the discussion. |
This is the conceptual framework for thinking about the world that people are trained to espouse, first in school, and then throughout the rest of their lives by the mass media. If they go to university, as the most powerful people in our society typically do, then this framework is hammered home far more aggressively — especially in the most esteemed universities that the so-called “elite” tend to come from. No thoughts which arise from outside this framework are taken seriously in mainstream politics, media, or academia. They might occasionally be entertained by friends over a bong or between chuckles on a podcast, but they are kept in the margins. This is reinforced by the way people learn that in order to ascend to influence and success they need to adhere to a specific way of thinking about things, thereby ensuring that all the most influential voices adhere to the authorized framework as well. Ferocious disagreement is permitted, but before the debate even begins everyone involved needs to adhere to the founding assumptions of the official framework. After that you can argue as passionately as you like with the other side of this manufactured divide, because your ideas cannot pose any serious threat to your rulers. |
And this, ultimately, is why the world looks the way it looks: because powerful people have been so successful at manipulating the way the public thinks about things. Our minds are inundated with propaganda telling us WHAT to think, but more importantly they are shaped and programmed HOW to think about any new information they might come across. Most of us are psychologically bent to the will of the powerful before we would ever even be in a position to begin thinking about opposing the status quo. We are herded like livestock away from thoughts of revolution and change, led by tightly controlled minds the way a bull is led by the ring on its nose. Once you see how pervasive the conditioning is, you understand why getting real revolutionary movements going faces so much inertia. We won’t be able to free ourselves until we find a way to free our minds. |
たしかに《特に、いわゆる「エリート」が通う名門大学》で学んだ者たちは、洗脳化がいっそう強いという印象を受ける場合が多い。ことさらこの2020年代に入って、コロナ禍での医学者、ウクライナ紛争での国際政治学者たちの凝り固まった見解の跳梁跋扈を我々は露骨に見てきた。
ロシア外務省のマリア・ザハロワ報道官は、2024年2月27日に《ワシントンとロンドンは、ベルリン、東京、パリ、ローマの代表を、自分たちの反ロシア路線を支持する "便利な馬鹿 "として利用している(При этом Вашингтон и Лондон фактически используют представителей Берлина, Токио, Парижа и Рима в качестве «полезных идиотов»)と言ったが、この便利な馬鹿こそ「洗脳され切った脳髄」の言い換えにほかならない。
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とはいえさらに重要なことは、言語自体が洗脳装置でありうることだ。 |
サピアウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypothesis:人間は単に客観的な世界に生きているだけではなく、また、通常理解されるような社会的行動の集団としての世界に生きているだけでもない。むしろ、それぞれに固有の言語に著しく依存しながら生きている。そして、その固有の言語は、それぞれの社会の表現手段となっているのである。こうした事実は、“現実の世界”がその集団における言語的習慣の上に無意識に築かれ、広範にまで及んでいることを示している。どんな二つの言語でさえも、同じ社会的現実を表象することにおいて、充分には同じではない。. (Sapir, Mandelbaum, 1951) |
使用する言語が異なれば、世界は異なって見える。このサピアウォーフの仮説はニーチェに既にある。 |
ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。 ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある[der Bann bestimmter grammatischer Funktionen ist im letzten Grunde der Bann physiologischer Werthurtheile und Rasse-Bedingungen. ](ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1986年) |
これはウラル=アルタイ語とインドゲルマン語などとの差異には限らない。《言語は、個々人相互の同一化に大きく基づいた、集団のなかの相互理解適応にとって重要な役割を担っている。Die Sprache verdanke ihre Bedeutung ihrer Eignung zur gegenseitigen Verständigung in der Herde, auf ihr beruhe zum großen Teil die Identifizierung der Einzelnen miteinander.》(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)。つまり隣国であってもその固有の言語によって世界は異なったように見えると捉えるべきである。つまり日本人と韓国人、あるいは中国人にとってその言語の使用によって、世界は異なったように見える。ドイツ人とフランス人もしかり。 より一般化していえば、次の事態である。 |
私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている[alles, was uns bewußt wird, ist durch und durch erst zurechtgemacht, vereinfacht, schematisirt, ausgelegt](ニーチェ『力への意志』11[113] (358) ) |
我々の意識は、なによりもまず言語によって、単純化され、図式化され解釈されている。我々にとっての世界は、常に既に、貧困化されている。 |
言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年) |
さてここで記してきたことをよりわかりやすく言えば、我々はみなメガネをかけて世界を見ているのである。
めがねというのは、抽象的なことばを使えば、概念装置あるいは価値尺度であります。ものを認識し評価するときの知的道具であります。われわれは直接に周囲の世界を認識することはできません。われわれが直接感覚的に見る事物というものはきわめて限られており、われわれの認識の大部分は、自分では意識しないでも、必ずなんらかの既成の価値尺度なり概念装置なりのプリズムを通してものを見るわけであります。そうして、これまでのできあいのめがねではいまの世界の新しい情勢を認識できないぞということ、これが象山がいちばん力説したところであります。〔・・・〕 |
われわれがものを見るめがね、認識や評価の道具というものは、けっしてわれわれがほしいままに選択したものではありません。それは、われわれが養われてきたところの文化、われわれが育ってきた伝統、受けてきた教育、世の中の長い間の習慣、そういうものののなかで自然にできてきたわけです。ただ長い間それを使ってものを見ていますから、ちょうど長くめがねをかけている人が、ものを見ている際に自分のめがねを必ずしも意識していないように、そういう認識用具というものを意識しなくなる。自分はじかに現実を見ているつもりですから、それ以外のめがねを使うと、ものの姿がまたちがって見えるかもしれない、ということが意識にのぼらない。…そのために新しい「事件」は見えても、そこに含まれた新しい「問題」や「意味」を見ることが困難になるわけであります。(丸山真男集⑨「幕末における視座の変革」1965.5) |
ここで丸山真男が言っている概念装置としてのメガネの起源にあるものこそ言語である。 |
なおわれわれは、概念の形成[Bildung der Begriffe]について特別に考えてみることにしよう。すべて語[Wort]というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなる。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験 [Urerlebnis]に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生する [Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen]。 一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性[Verschiedenheiten ]を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念[Vorstellung] を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形[Urform ]というものが存在するかのような観念[Abbild ]を与えるのである。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽についてÜber Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinne」1873年) |
冒頭に戻って言えば、人はみなその使用する固有の言語によって洗脳されている。この洗脳から免れることは容易ではない。できるのは自らの洗脳を相対化させるためにいくつかの言語に馴染んで視差を得るぐらいである。
以前に私は一般的人間理解を単に私の悟性[Verstand] の立場から考察した。今私は自分を自分のでない外的な理性 [äußeren Vernunft ]の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点[Gesichtspunkte anderer] から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差[starke Parallaxen] (パララックス)を生じはするが、それは光学的欺瞞 [optischen Betrug] を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢(Träume eines Geistersehers)』1766年) |
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そうは言っても日本に住みそこで人間関係を構築していれば、日本語というメガネを通して世界を眺めざるを得ない。そのとき最も注意すべきは、次の事態である。 |
「私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言している〔・・・〕。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正『経験と思想』1977年) |
いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収) |
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日本文化が定義する世界観は、基本的には常に此岸的=日常的現実的であったし、また今もそうである。(加藤周一「日本社会・文化の基本的特徴」『日本文化のかくれた形』所収、2004年) |
日本語文法が反映しているのは、世界の時間的構造、過去・現在・未来に分割された時間軸上にすべての出来事を位置づける世界秩序ではなくて、話し手の出来事に対する反応、命題の確からしさの程度ということになろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年) |
繰り返せば、例えば日本人と中国人では、世界はまったく異なって見えており、中国人は日本人よりはるかに欧米人に近い感覚をもっている。これはその言語使用の差異には限らないが、とはいえ言語の影響は測りしれない。 |
中国人は普遍的な原理から出発して具体的な場合に到り、先ず全体をとって部分を包もうとする。日本人は具体的な場合に執してその特殊性を重んじ、部分から始めて全体に到ろうとする。文学が日本文化に重きをなす事情は、中国文化重きをなす所以と同じではない。比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的となったのである。(加藤周一『日本文学史序説』「日本文学の特徴について」) |
日本の文明が、かつて中国のそれの圧倒的な影響を受けて展開したものだということは、知らぬものはない。文学、宗教、学問、政治の制度等々。その結果、両国の間には多くの共通性があり、類似点ができた。にもかかわらず、日本は中国と、ひどく、ちがう。 中国の土地を踏み、はじめて北京に足を入れての私の最大の感想は、「ここは日本と何とちがうところだろう」ということだった。私は、中国を見るより、ずっと前から、何回かヨーロッパに旅行した人間だが、その私からみれば、中国は日本よりずっとヨーロッパに近かった。「中国旅行とは、ある意味では、第二のヨーロッパに出会う旅行のようなものだった」というのが、私の偽らざる感想である。 (吉田秀和『調和の幻想』「紫禁城と天壇」) |
もっとも儒教に代表される中国の世界観は、西洋文化に比べれば「此岸的」であろう、だが日本の世界観、すなわち《日本の文化の争うべからざる傾向は、抽象的・体系的・理性的な言葉の秩序を建設することよりも、具体的・非体系的・感情的な人生の特殊な場面に即して、言葉を用いることにあった》(加藤周一『日本文学史序説』1975年)のとは中国文化はまったく異なる。