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2025年2月11日火曜日

資本のマゾヒストたち


さてこのところ散発的ではあれ、欲動のマゾヒズムについて何度か記してきたが、最も簡潔に言えば、フロイトのリアルな欲動は自己破壊性・マゾヒズム性・依存性だ。


欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

マゾヒストは、小さな、寄る辺ない、依存した子供として取り扱われることを欲している[der Masochist wie ein kleines, hilfloses und abhängiges Kind behandelt werden will.](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)



ところで一般にはおそらく一見奇妙と思われるだろうことがある。資本あるいは富についての話が、この欲動の依存と自己破壊という語を使って語られているのだ。例えばマルキストであるマイケル・ハドソンは次のように言っている。



◾️富は中毒性(依存性)がある[wealth is addictive]

プラトン、アリストテレス、そしてほとんどの古典ギリシャの哲学者、詩人、劇作家は、富には中毒性(依存性)があり、債権者の要求は社会のバランスを崩す恐れがあることを認識していた。 彼らの考えでは、お金を持てば持つほど、その所有者はより多くの金銭欲に陥りやすくなる。 金と権力は、バナナを食べればすぐに満腹になるようなものではない。 一度中毒になると、人は決して満足することはない。 そして富の中毒は、経済力を傲慢に利用して政府を支配し、顧客、債務者、賃借人に対する貪欲と後援権力を促進するために利用するようになる。 これが、古典ギリシャ、ローマ、そして現代の寡頭政治の歴史である。

Plato, Aristotle and indeed most classical Greek philosophers, poets and dramatists recognized that wealth is addictive, and that creditor demands threaten to disrupt social balance. In their view, the more money one has, the more its possessor falls prone to a money-lust for more. Money and power are not like a diet of bananas making one quickly satiated. Once addicted, one never has enough. And wealth addiction leads to a hubristic use of economic power to gain control of government and use it to facilitate greed and patronage power over clients, debtors and renters. That is the history of classical Greek, Roman and modern oligarchies in a nutshell.

(マイケル・ハドソン『文明の運命』「序章」Michael Hudson, The Destiny of Civilization, 2022)



addictiveは「中毒的」であると同時に「依存的」とも訳せる。さらに自己破壊的[self-destructive]という語を使って次のようにも語られている。


◾️金融資本の自己破壊性

社会を二極化し不均衡に陥れる主な要因は、債務の急激な増加である。前述のように、この増加は複利の力学(倍増時間を意味する)と、一般的に未払いの請求書の発生、および内生的な新規銀行信用によって生じる。この力学は長期的には自己破壊的である。なぜなら、債務の経費の増加は債務デフレにつながり、経済成長を鈍化させ、経済は元本自体の返済は言うまでもなく、維持費を支払うことができなくなるから。

The major dynamic polarizing and unbalancing society is the exponential growth of debt. As noted earlier, this growth results from the dynamics of compound interest—implying a doubling time—and from accruals of unpaid bills in general, and endogenous new bank credit. This dynamic is self-destructive in the long run, because the rising debt overhead leads to debt deflation that slows economic growth, leaving the economy unable to pay its carrying charges, not to mention paying off the principal itself.

(マイケル・ハドソン『文明の運命』第3部, 2022)

金融資本主義は本質的に自己破壊的である〔・・・〕。金融資本主義とは、上位1%に属する人がいかにしてタダ飯を手に入れるかということだ。〔・・・〕基本的に金融資本主義とは、詐欺師が 99 パーセントの人々からお金を奪い、自分の手に収めることで金持ちになる機会を与えることである。

finance capitalism is intrinsically self-destructive(…) . finance capitalism is all about how to get a free lunch if you're a member of the one percent.(…) that’s basically what finance capitalism is: opportunity for rip-off artists to get rich uh by taking money away from the 99 percent, into their own hands.

(マイケル・ハドソン「金融資本主義の自己破壊的性質」Finance Capitalism's Self-Destructive Nature By Michael Hudson  July 18, 2022)



この自己破壊性のラカンの言い方は、自らを消費する・自らを貪り喰うである。


◾️自らを貪り喰う資本の言説

危機は、主人の言説ではなく、資本の言説である。それは、主人の言説の代替であり、今、開かれている [la crise, non pas du discours du maître, mais du discours capitaliste, qui en est le substitut, est ouverte.  ]〔・・・〕

資本の言説…それはルーレットのように作用する。こんなにスムースに動くものはない。だが実際はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、自らを貪り喰う [le discours capitaliste… ça marche comme sur des roulettes, ça ne peut pas marcher mieux, mais justement ça marche trop vite, ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume.]

さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…[vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…](Lacan, Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)




ここでマルクスに戻ってひとつだけ引用しよう。資本論冒頭近くにある守銭奴をめぐる記述である。



◾️守銭奴と資本の致富欲動

使用価値は、けっして資本家の直接目的として取り扱われるべきではない。個々の利得もまたそうであって、資本家の直接目的として取り扱われるべきものは、利得の休みなき運動[rastlose Bewegung des Gewinnens]でしかないのだ。こういう絶対的な致富欲動[absolute Bereicherungstrieb]ーーこういう情熱的な価値追求は、資本家にも守銭奴(貨幣蓄蔵者)にも共通のものではあるが、しかし守銭奴が狂気の資本家でしかないのに対して、資本家のほうは合理的な守銭奴である。 守銭奴は、価値の休みなき増殖[rastlose Vermehrung des Werts]を、貨幣を流通から救いだそうとすることによって追求するが、より賢明な資本家は、貨幣をつねに新たに流通にゆだねることによって達成するわけである。

Der Gebrauchswert ist also nie als unmittelbarer Zweck des Kapitalisten zu behandeln . Auch nicht der einzelne Gewinn, sondern nur die rastlose Bewegung des Gewinnens. Dieser absolute Bereicherungstrieb, diese leidenschaftliche Jagd auf den Wert ist dem Kapitalisten mit dem Schatzbildner gemein, aber während der Schatzbildner nur der verrückte Kapitalist, ist der Kapitalist der rationelle Schatzbildner. Die rastlose Vermehrung des Werts, die der Schatzbildner anstrebt, indem er das Geld vor der Zirkulation zu retten sucht, erreicht der klügere Kapitalist, indem er es stets von neuem der Zirkulation preisgibt.

(マルクス『資本論』第一巻第二篇第四章第一節)


よりわかりやすいように柄谷行人の注釈を掲げておく。


◾️資本の蓄積欲動(資本の欲動)

マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」、2001年)



私はこの資本の致富欲動(資本の蓄積欲動)が、フロイトの欲動の定義とまったく同じものだと主張するつもりは毛頭ない。だがどちらも中毒性=依存性があり、自己破壊性があるのは間違いない。これがフロイトのマゾヒズムの定義だ。



マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 

(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



自らを破壊しないように他者破壊へと反転する、とある。これが現在のむきだしの市場原理に囚われた新自由主義社会で起こっているのではないか。つまり富にマゾヒズム的に依存した、自己破壊性から他者破壊性への天秤の左右の皿の動きが。《私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。》(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


私は、例えば最近のトランプやイーロン・マスクやらの様子を眺めていると資本のマゾヒストではないかとふと思ってしまうことがある、いやこういったほうがいいかもしれない、ーー《ドストエフスキーの途轍もない破壊欲動…彼は小さな事柄においては、外に対するサディストであったが、大きな事柄においては、内に対するサディスト、すなわちマゾヒストであった[daß der sehr starke Destruktionstrieb Dostojewskis, …also in kleinen Dingen Sadist nach außen, in größeren Sadist nach innen, also Masochist, das heißt der weichste, gutmütigste, hilfsbereiteste Mensch. ]》 (フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)


この内に対するマゾヒストが翻転してサディスト、つまり他者破壊欲動に向かう。この他者破壊のマルクスの呼び方は搾取である。《私は他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ということである。daß ich mir dadurch nütze, daß ich einem Andern Abbruch tue (exploitation de l'homme par l'homme <Ausbeutung des Menschen durch den Menschen>)》(マルクス『ドイツイデオロギー』)



なお、他者破壊欲動はほとんどの場合、自己破壊欲動にふたたび退行する。




抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。「どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。また、四十年間、営々と努力して市でいちばんおいしいという評価を得るようになったヤキトリ屋さんがあった。主人はいつも白衣を着て暑い調理場に出て緊張した表情で陣頭指揮をしてあちこちに気配りをしていた。ある時、にわかに閉店した。野球賭博に店を賭けて、すべてを失ったとのことであった。私は、積木を高々と積んでから一気にガラガラと壊すのを快とする子ども時代の経験を思い合わせた。主人が店を賭けた瞬間はどうであったろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


この「どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」は、マルクス的に言えば、「後は野となれ山となれ!」である、《“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ]》(マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」)



……………


なお冒頭近くに引用したマイケル・ハドソンに《プラトン、アリストテレス、そしてほとんどの古典ギリシャの哲学者、詩人、劇作家は、富には中毒性(依存性)があり、債権者の要求は社会のバランスを崩す恐れがあることを認識していた》とあった。ここではソクラテスとアリストテレスの言葉を掲げておこう。


ソクラテス: わたしは、これ以上お金は必要ないと思うし、十分豊かだ。だが、クリトブロス、あなたはわたしから見るととても貧乏に思える。そして、ときどき、わたしはあなたをとてもかわいそうに思う。


クリトブロス (笑いながら): では、ソクラテス、あなたの財産はいくらで売れると思うか。わたしの財産はいくらになると思うか。


ソクラテス: まあ、よい買い手が見つかれば、家も含めたわたしの財産と動産はすべて、5 ミナ で売れると思う。あなたのものは、その 100 倍以上の値段がつくだろう。


クリトブロス: そういう見積もりにもかかわらず、あなたは本当にお金は必要ないと思って、わたしの貧しさをかわいそうに思っているのか?


ソクラテス:そう、私の財産は私の欲求を満たすのに十分だ。しかし、あなたの財産が現在の3倍になったとしても、あなたが今のような生活スタイルを維持し、評判を維持するには十分ではないと思う。

Socrates:  I certainly think I have no need of more money and am rich enough. But you seem to me to be quite poor, Critobulus, and at times, I assure you, I feel quite sorry for you.


Critobulus (laughing): And how much, pray, would your property fetch at a sale, do you suppose, Socrates, and how much would mine?


Socrates: Well, if I found a good buyer, I think the whole of my goods and chattels, including the house, might readily sell for five minae. Yours, I feel sure, would fetch more than a hundred times that sum.


Critobulus: And in spite of that estimate, you really think you have no need of money and pity me for my poverty?


Socrates: Yes, because my property is sufficient to satisfy my wants, but I don’t think you would have enough to keep up the style you are living in and to support your reputation, even if your fortune were three times what it is.

(クセノポン『家政論(オイコノミコスΟἰκονομικός)2.2-4


富とはなんと馬鹿げていることだろう、豊かであっても餓えから逃れられないとは。What a ridiculous kind of wealth is that which, even in abundance, will not save you from dying with hunger,”

(アリストテレス『政治学』1257b)



こう引用して思い出したが、この二人の話は、ラカンの「資本の言説」の注釈として書かれているピエール・ブリュノの《飲めば飲むほど渇く》に相当するだろう。

新古典主義経済の理論家の一人、パレートは絶妙な表現を作り出した、議論の余地のない観察の下に、グラスの水の「オフェリミテ ophelimite) 」ーー水を飲む者は、最初のグラスの水よりも三杯目の水に、より少ない快を覚えるーーという語を。ここからパレートは、ひとつの法則を演繹する。水の価値は、その消費に比例して減少すると。しかしながら反対の法則が、資本主義経済を支配している。渇きなく飲むことの彼岸、この法則は次のように言いうる、《飲めば飲むほど渇く》と。

Pareto, one of the theorists of neoclassical economics, forged an exquisite expression: the “ophelimity” of a glass of water. On the basis of an incontestable observation—that a drinker takes less pleasure in a third glass of water than from the first—Pareto deduces a law: the value of the water decreases in proportion to its consumption. The opposite law, however, governs the capitalist economy. Beyond drinking without thirst, this law can be stated as follows: “The more I drink, the thirstier I get.”

(ピエール・ブリュノ Pierre Bruno、capitalist exemption, 2010)