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2025年2月10日月曜日

ドゥルーズの「サディズムの超自我とマゾヒズムの自我」という大間違い

 

ドゥルーズとラカンの「マゾヒズムの回帰」」の補足として記すが、ドゥルーズの『ザッヘル=マゾッホ紹介ーー冷淡なものと残酷なもの』の最終章(第11章)は「サディズムの超自我とマゾヒズムの自我(Surmoi sadique et moi masochiste)」だが、「マゾヒズムの自我」というのが、少なくともフロイト・ラカン観点からは大間違いなんだ。


例えばラカンはこう言っている。

超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme](Lacan, S10, l6  janvier  1963)


これは次のフロイトの言い換えである。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


ーー自己破壊的とはマゾヒズム的のことだ。

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 

(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


というわけだが、ドゥルーズの超自我の捉え方の問題はフロイトには二種類の超自我があることに気づいていなかったことだ。フロイトにはエディプス的超自我と前エディプス的超自我(父なる超自我と母なる超自我)があるのだが、ドゥルーズはエディプス的超自我(制度的超自我)のみが超自我だと捉えてしまっている。ーー《制度的超自我に、マゾヒストは、自我と口唇的母との契約による連繋を対立させる[Au surmoi d'institution, il oppose l'alliance contractuelle du moi et de la mère orale. ]》(ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』第11章)。ここに後年の『アンチオイディプス』ーーオイディプスを打倒したら自由になるというとんでも誤謬ーーの悲劇もある。



(エディプス的超自我[Ödipales Über-Ich]と前エディプス的超自我[Präödipales Über-Ich])


フロイトにとって原超自我は母である。

心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


ーー高等動物にもある幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]はもちろん《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)だ。


母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)


そしてこの「依存」はフロイトにおいてマゾヒストの定義のひとつだ。


マゾヒストは、小さな、寄る辺ない、依存した子供として取り扱われることを欲している[der Masochist wie ein kleines, hilfloses und abhängiges Kind behandelt werden will.](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)




私はドゥルーズのマゾッホ論では「マゾッホと三人の女(Masoch et les trois femmes)」の記述箇所を最も好むが、ここではとてもいい線行ってたんだがな。



マゾッホによる三人の女性は、母性的なものの基本的イメージに符合している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母がある。それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的母、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。だがその中間に、口唇的な母がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母である。この第二番目の母も、また最後に姿をみせるもののように思われる。滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧するものだからである。彼女は最終的な勝利者となる。

Les trois femmes selon Masoch correspondent aux images fondamentales de mère : la mère primitive, utérine, hétaïrique, mère des cloaques et des marais – la mère œdipienne, image de l'amante, celle qui entrera en rapport avec le père sadique, soit comme victime, soit comme complice – mais entre les deux, la mère orale, mère des steppes et grande nourrice, porteuse de mort. Cette seconde mère peut aussi bien apparaître en dernier, puisque, orale et muette, elle a le dernier mot.

それ故フロイトは、『三つの小箱』の中で、このタイプの母を、多くの神話的・民族伝承的な主題に従って提示しているのである。「それはまさしく母性そのものであって、そのイメージに従って男性が選ぶ恋する女性なのであり、煎じつめれば、改めて男性を迎え入れる《母なる大地》なのである……。宿命的な娘たちのうちで、この第三番目のもののみが、すなわち沈黙の死の女神だけが、男をその胸の中に迎え入れることになるだろう」。

En dernier, c'est ainsi que Freud la présente dans Le Thème des trois coffrets, conformément à de nombreux thèmes mythologiques et folkloriques : « La mère elle-même, l'amante que l'homme choisit à l'image de celle-ci, et finalement la Terre-Mère qui le reprend à nouveau... Seule la troisième des filles du destin, la silencieuse déesse de la mort, le recueillera dans ses bras. »

だが、この母が占めるべき真の位置は、避けがたい展望図のもたらす幻想によって必然的に置換させられているとはいえ、なお両者の中間にすえられるべきものなのだ。そうした視点に立ってみると、ベルグレールの次のごとき概括的問題提起は完全に根拠のあるものだと思われる。すなわち、マゾヒスムに固有の要素は、口唇的な母――子宮的母とエディプス的母の中間に位置する冷淡で、何くれとなく気を配り、そして死をもたらしもするあの理想像なのだというのである。……

Mais sa vraie place est entre les deux autres, bien qu'elle soit nécessairement déplacée par une illusion de perspective inévitable. Nous croyons de ce point de vue que la thèse générale de Bergler est entièrement fondée : l'élément propre du masochisme est la mère orale – l'idéal de froideur, de sollicitude et de mort, entre la mère utérine et la mère œdipienne.……

(ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介ーー冷淡なものと残酷なもの』GILLES DELEUZE , Présentation de Sacher-Masoch  Le froid et le cruel, 1967)



この口唇的な母こそ原超自我だということに気づいていたらね、ひどく惜しまれるね。


しかし口唇的母、死のイメージーー《口唇的母は死のイメージとして機能する[la mère orale fonctionne comme image de mort]》(第11章)ーーとまで書いていてなぜ気づかなかったのかのほうが不思議でならないよ、次の文こそまさにフロイトの超自我という口唇的母の記述なのに。


去勢は、身体から分離される糞便や離乳における母の乳房の喪失という日常的経験を基礎にして描写しうる。Die Kastration wird sozusagen vorstellbar durch die tägliche Erfahrung der Trennung vom Darminhalt und durch den bei der Entwöhnung erlebten Verlust der mütterlichen Brust〔・・・〕


死の不安[Todesangst]は、去勢不安[Kastrationsangst]の類似物として理解されるべきである。自我が反応するその状況は、運命の力としての保護的超自我に見捨てられること[das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten]であり、危険に対するすべての保障が消滅してしまうことである。

die Todesangst als Analogon der Kastrationsangst aufzufassen ist und daß die Situation, auf welche das Ich reagiert, das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten – ist, womit die Sicherung gegen alle Gefahren ein Ende hat. (フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


で、次の文と一緒に読めばよい、《マゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである[Masochismus ein Zeuge und Überrest jener Bildungsphase, in der die für das Leben so wichtige Legierung von Todestrieb und Eros geschah.]》(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)



ま、でも超自我の致命的誤謬を除けば、今でもとってもためになる書だよ、《マゾヒストは専制的女性を養成せねばならない。〔・・・〕マゾヒストは本質的に訓育者なのである[Il faut que le masochiste forme la femme despote. ... Il est essentiellement éducateur. ]》なんてのもヒドク好きだなあ、谷崎潤一郎ピッタリの指摘で。


◼️潤一郎より渡辺千萬子

九日附お手紙拝見

〔・・・〕

あなたは「私には意地の悪い性質がある」と自分でも云っておられましたが病院のおじいちゃんも熱海の二人のバアバも君を尊敬し畏れている反面 君にそう云う短所のあることを認めているようです、あなたが自分でそう云う以上それは事実かもしれませんが私はまだ実際にあなたのそれを見せて貰ったことがありません あなたが私に遠慮しているのだとすれば私はむしろあなたを水臭く感じます あなたに意地悪されるくらいで私の崇拝の情は変るものではありません


橋本家高折家を通じて故関雪翁の天才の一部を伝えている人はあなた一人だと思います あなたの顔や手脚には その天才の閃きがかがやいて見えそれ故に一層美しく見えるのです しかし天才者には大概意地悪のような欠点があるものなのであなたの場合もそれなのでしょう

つまりあなたは鋭利な刃物過ぎるのです その欠点は直せるものなら直すに越したことはありませんが 少なくとも私だけには遠慮する必要はありません 私はむしろ鋭利な刃物でぴしぴし叩き鍛えてもらいたいのです そうしたらいくらか老鈍さが救われるでしょう あなたのことは正直に書き出すと際限がありませんから今日はこれだけにしておきます 


あまり無遠慮に書き過ぎて赦して下さい


二月十五日

     潤



女ってのはやっぱりこうやって訓育しないとなあ、そうしたらいつまでも美しいよ。



ドゥルーズも美人の奥さんを訓育したんじゃないかなぁァァ




…………


なおジャック=アラン・ミレール観点では、ドゥルーズのマゾッホ論最終章「サディズムの超自我とマゾヒズムの自我 (Surmoi sadique et moi masochiste)」どころか、「サディズムの自我、マゾヒズムのエス(原超自我)」であり[参照]、この指摘はフロイトの記述からも正当化される。