少し前にも「悪名高いディープステートがイーロン・マスクを丸ごと呑み込まないことを祈ろう・・・」でメドヴェージェフ発話を掲げたが、彼は実にユーモアがある男だな、
◼️ドミトリー・メドヴェージェフのメッセージ 2025年2月15日 |
Message posted by Dmitry Medvedev, Deputy Chairman of the Security Council of the Russian Federation, on his Telegram channel, February 15, 2025. |
ミュンヘンでのアンチロシア魔女集会は今回、ヴァンス副大統領のあからさまに挑発的なスピーチによって特に不穏な空気に包まれた。 私は認めなければならないが、意外にも彼は集中攻撃した。 誰もが、ウクライナ紛争の終結に関するドナルド・トランプの発言に対するコメントとともに、パートナーであるヨーロッパに対する通常の外交儀礼を期待していた。 しかし、その代わりに彼は議場に立ち、ここ数年完全に自己を見失っているヨーロッパを厳しく叱責したのだ:「お前たちの民主主義は弱く、選挙はゴミ同然で、人間の基本的道徳に反する規則はクソだ。 言論の自由もないじゃないか!」と。 |
彼がアメリカのボスでなければ、彼らは間違いなく彼を非難しただろう。 しかし、彼がボスである以上、彼らはそれを見逃し、上級パートナーからの残酷な叱責に憤慨しながらも受け入れるだろう。 副大統領としてはまだ経験が浅いとはいえ、実際、彼は大胆な男だ。 さらに、彼は真実を語った。 彼は現代のヨーロッパが何であるかをまさに語った。 そして、さらに付け加えることができる。 今日のヨーロッパは、EUの枠内では、若く印象的な美女に見せかけようとする、意地悪で弱々しいババアだ。 そのようなヨーロッパの時代は、不可逆的に終わった。 弱く、魅力がなく、自分自身以外には誰にとってもほとんど役立たずだ。 |
追伸:キエフの道化師は、ありとあらゆることでトランプを責めまくった。つまり、落ちぶれた乞食と泥棒は、与える側の手に唾を吐いたのだ。問題は、トランプがどう反応するかだ。 |
The anti-Russian coven in Munich was particularly unsettled this time by the blatantly provocative speech of Vice President Vance. I must admit—surprisingly, he turned on the heat. Everyone expected the usual diplomatic courtesies toward Europe from its partner, along with comments on Donald Trump’s remarks about ending the Ukrainian conflict. But instead, he took the floor and harshly reprimanded the Europeans, who have completely lost themselves in recent years: 'Your democracy is weak, your elections are garbage, and your rules, which violate basic human morality, are crap. And you don’t even have freedom of speech!' |
They certainly would have held this against him—if he weren’t the American boss. But since he is, they’ll let it slide and resentfully swallow that brutal dressing-down from their senior partner. He’s actually a bold guy, even if still an inexperienced vice president. Moreover, he told the truth. He said exactly what modern Europe amounts to. And we can add even more. Today’s Europe, within the EU’s borders, is a bitter, feeble hag trying to disguise herself as a young and striking beauty. The era of such a Europe is irreversibly gone. It is weak, unattractive, and of little use to anyone—except itself. |
P.S. The Kiev clown chastised Trump for everything possible. That is, the washed-up beggar & thief spat into the giver's hand. The question is, how will Trump react? |
このメドヴェージェフの発話で惹き起こされる笑いは次の区分ならどれに相当するだろうか。
笑いが人間特有であることは、千数百年前にギリシァの哲学者アリストテレスが指摘していたと思う。以来、笑いは医学よりも哲学、心理学で論じられてきた。 笑いの「原因」あるいは「機構」についてはいろいろな説があるが、唱える人の人生観を反映して笑いの別々の面を強調している感がある。笑いに共通なことは、曲げてあった竹を解放した時のはね返りのような急激な心身緊張の低下である。横紋筋緊張の低下は顕著で自覚されることが多い。極端な場合はナルコレプシーで、笑いとともに一瞬にして姿勢崩壊となる。平滑筋の緊張も低下する。 乳幼児の微笑は、母親のはぐくみ行動を誘発する外的刺激によらない内発微笑であり、母子のほほえみ合いは子どもの成長にも、母となった女性の成熟にも、不可欠な因子である。 |
優越、勝利の際の高笑いは目的達成による心理的緊張の低下と同時に起こるが、急激な成功による心理的危機を防ぐ精神保護作用の一部かもしれない。実際、成功は失敗にも増して精神健康悪化の契機になる。 絶望の際にも激しい笑いが発生する。やけくそ笑いといわれる。この場合も筋緊張の急激な低下が特徴である(笑いを伴わない筋肉緊張低下もある。ガックリと肩を落とすという事態である)。同じく、不意打ちの事態にも笑いが起こる。これらは限度以上の筋緊張を防ぐ機構かも知れないし、次に起こすであろう反撃に備えていったん筋肉の緊張を下げておいて有効な打撃力を発生させる機構かも知れない。 人の失敗、失策を見る際の笑いは、予想に反する相手の矮小さの認知によって、それまでの緊張した構えが解ける過程の一部であろう。この場合の笑いは、余裕感を伴う。この笑いの味は人間に好まれ、お金を払って落語や漫才を聴くのは、この種の笑いを求めてである。 英国人のいうユーモアは危機に際して自分の矮小さを客観視して笑い、緊張の低下、余裕感の獲得、視点の変換による新たな対処の道を探る方法ということである。 |
その他、対人関係の道具と化した笑いが数多くある。初対面や久しぶりの面会の際の笑いは、互いに筋緊張などしていなくて攻撃の意思がないこと、「われわれは友人だ」ということを伝達する道具である。政治家が政敵と肩を組み合って笑うのには、さらに余裕の誇示も加わる。 はっきりと攻撃の道具である「あざ笑い」は.「おまえは矮小である」と決めつけることで、反撃を誘発するか、相手が無力を自覚して深く傷つくかである。ジョークをいい合ってよい関係(ジョーキング・パートナー)を制度化しているブッシュマン社会は、一人に「イジメ」が集中する社会より上等である。〔・・・〕 一般に、笑いは一過性の現象である。対人的道具と化した笑いは、絶えず再入力して維持されているのである。したがって、防衛的な笑いを長く続けているとかえってストレスが蓄積される。 (中井久夫「笑いの機構と心身への効果」『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収) |
この区分ならユーモアというより笑いなんだろうがね、メドヴェージェフのコメントから起こる笑いに、いかにもピッタリの項がある。
少なくとも柄谷が指摘するボードレールのユーモアじゃないね。
笑いは本質的に人間的なものであるから、本質的に矛盾したものだ、すなわち、笑いは無限な偉大さの徴であると同時に無限な悲惨のであって、人間が頭で知っている〈絶対的存在者〉との関連においてみれば無限の悲惨、動物たちとの関連においてみれば無限の偉大さということになる。この二つの無限の絶え間ない衝突からこそ、笑いが発する。 滑稽というものは、笑いの原動力は、笑う者の裡に存するのであり、笑いの対象の裡にあるのでは断じてない。ころんだ当人が、自分自身のころんだことを笑ったりは決してしない、もっとも、これが哲人である場合、自分をすみやかに二重化し、自らの自我の諸現象に局外の傍観者として立ち会う力を、習慣によって身につけた人間である場合は、話が別だが。 (「笑いの本質について、および一般に造型芸術における滑稽について」阿部良雄訳、「ボードレール全集」) |
その語を使わなかったとしても、ここで、ボードレールが敬意をもって、例外として挙げているのは、ヒューモアである。それは、有限的な人間の条件を超越することであると同時に、そのことの不可能性を告知するものだ。それがメタレベルに立つのは、同時にメタレベルがありえないことを告げるためである。ヒューモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。ヒューモアを受けとる者は、自分自身において、そのような「力」を見いだす。だが、それは必ずしも万人に可能なことではない。 ヒューモアとは、フロイトがいうように「精神的姿勢」であって、むしろ「笑い」とは関係がない。たぶん、われわれにとって、子規の『死後』を読んで笑うことは難しい。しかし、ある条件のもとでは、それがひとを笑わせることはあるだろう。たとえば、ソクラテスの死に立ち会ったとき、弟子たちは笑いをこらえることができなかったといわれる。また、カフカが「審判」を読み上げたとき、聴衆は笑いころげ、カフカ自身も笑いころげたという(ドゥルーズ『サドとマゾッホ」)。 子規の友人たちもあのエッセイを読んで笑いころげたかもしれない。そうだとしたら、それは、彼らがそこに「同時に自己であり他者でありうる力」を感じとったからである。(柄谷行人「ヒューモアとしての唯物論」初出1992年『ヒューモアとしての唯物論』所収) |