何度も引用してきたが、プーチンやラブロフなどは西側諸国の植民地主義を繰り返し指摘している。
◾️プーチンーードミトリー・キセリョフによるインタビュー Vladimir Putin answered questions from Dmitry Kiselev.March 13, 2024 The Kremlin, Moscow |
肝心なのは、このいわゆる「黄金の10億人」が、何世紀にもわたって、500年もの間、他の民族に寄生してきたということだ。〔・・・〕彼らは何世紀にもわたって、腹を人肉で満たし、ポケットを金で満たしてきた。しかし、彼らは、吸血鬼の舞踏会が終わりに近づいていることに気付かなければならない。 |
The point is that this so-called "golden billion" has been practically parasitising on other peoples for centuries, 500 years.(…) They've spent centuries filling their bellies with human flesh and their pockets with money. But they must realise that the vampire ball is ending. |
◾️ラブロフ:於国際フォーラム「プリマコフ読書会」 Foreign Minister Sergey Lavrov’s remarks and answers to media questions at the Primakov Readings International Forum, Moscow, November 27 2023 |
私たちは西側諸国の新植民地主義的本能を目の当たりにしている。 500年以上にわたってそうしてきたように、他者を犠牲にして生き続けたいという願望である。 この時代が終わろうとしていることは誰の目にも明らかだ。 彼らはそれを自覚している。 |
We are witnessing neo-colonial instincts in the West. There is a desire to continue living at the expense of others, as they have been doing for over 500 years. It is clear to everyone that this epoch is coming to an end. They are aware of that. |
歴史に無知な者として言うが、次の論に依拠すると、ヨーロッパの植民地主義マインドは根が深い、起源として言えば、500年どころじゃない。
◾️古代の言説とヨーロッパ・アイデンティティ―古代ギリシアにおける「他者」の言説―庄子大亮 2004年 |
前 750 ~前 550 年頃は、ギリシア人が地中海一帯に進出して数多くの植民市を創建した植民時代であり、スペイン東岸、フランス南岸、南イタリアとシチリア、そしてエーゲ海北部や黒海沿岸、南方ではアフリカのリビアにまで進出して植民市を建設したギリシア人は、それまでにまして諸民族と密接な交渉をもつようになる。〔・・・〕 またアリストテレスは『政治学』 において「バルバロイはギリシア人に比べ、アジア人はヨーロッパ人に比べ、その性格が生来いっそう奴隷的である」(1285a20)ーー« the barbarians are more servile in their nature than the Greeks, and the Asiatics than the Europeans »:引用者ーーと述べ、人間の魂が自分の肉体を支配するのが当然であるように、自由な市民がより劣った奴隷の主人となるのは、自然の道理であると説いたのであった。〔・・・〕 |
以下に挙げるのは、 その葬送演説を題材にプラトンが著した、『メネクセノス』におけるアテナイ人の主張である。 「アテナイの高貴で自由な性格は、それほどまでにゆるぎなく、健全であり、生来のバルバロイ嫌いなのだが、それは我々が純粋なギリシア人であって、バルバロイの血が混じっていないからである。というのも、我々とともに暮らす人々のうちには、ペロプスやカドモス、アイギュプトスやダナオスの子孫たちはいないし、またその他多くの、生まれはバルバロイだが法によってギリシア人である人々もいないからである。我々はまぎれもないギリシア人で、バルバロイの血がまじっていないことから、他の民族に対する純粋な嫌悪が、生来我々の国に溶け込んでいるのである。」(『メネクセノス』245C-D) このように、アテナイ人が優れていることの根拠として、アテナイが バルバロイとのつながりを全くもっていないということが強調されている。〔・・・〕 |
中世以降、ギリシア文化はビザンツ帝国とイスラムに受け継がれたの であったが、その後ヨーロッパが古代ギリシアを「再発見」し、ルネサンスを迎えるという経緯は周知のことであろう。〔・・・〕 少し時代を遡るが、先にふれたアリストテレスの「先天的奴隷説」は、 1510 年、パリ滞在のスコットランドの神学者ジョン・メイジャーによ ってアメリカ原住民に適用された。その論拠はスペインでも取り上げら れることとなり、アリストテレスの訳者としても有名であった法学者セ プルベダのような人々が、この説を主張したのである。このように、 ギリシアにおける「他者」の言説は、ルネサンスとともにヨーロッパの 自己理解の底流に流れ始めていた。例えばモンテスキューが『法の精神』 (1748 年)において、「弱いアジア」と「強いヨーロッパ」、「アジアの 隷従」と「ヨーロッパの自由」を対比させ、その原因は風土の違いによるとしているのは、ヘロドトスやアリストテレスのバルバロイについて の記述を連想させる 。 ギリシア古典の研究や教育が最高潮に達する 19 世紀に目を向けるなら、まず想起されるのは、ヘーゲルの『歴史哲学講義』(1822 ~ 31 年) であろう。よく知られる通り、ヘーゲルは、自由の意識の発展に基づいて、世界史は東から西へ、オリエントからギリシア・ローマ、ヨーロッパへ、という歴史像を生み出し、近代的歴史像の形成に最も大きな役割を果たした。すなわち、東洋は専制君主一者だけが自由だが、ギリシア及びローマは特定の人々(すなわち市民)が自由であり、ゲルマンの世界では全ての人間が自由であるという説明である(序論 B)。 |
自由論の擁護者であったイギリスの哲学者 J.S.ミルにも、ペルシア帝国とギリシアとの対比が見られるが、彼はまた、ギリシアとイギリスの アナロジーを述べている点が興味深い。すなわちミルは「ギリシア人たちの増援をえたマケドニア人たちがアジアを征服し、またイギリス人がインドを征服したように、もしも、より進歩の点で進んでいると考えられている数の少ない民族が、数の多い民族を征服できるならば、文明にとっては、しばしば利益となる」と主張していた。ギリシアの言説が、 いかにこの時代のイギリス、ヨーロッパに影響を及ぼしていたかは、評 論誌 Blackwood's Edinburgh Magazine に掲載された論考の一節からもうかがい知ることができよう。それは、「我々は、ヨーロッパ文明の優越をあまりに意識しているので、ギリシア人と同じように、全ての非ヨーロッパ諸国をまとめて軽蔑し、野蛮人と見なしがちだ」というものである。…… |
要するにヨーロッパ人、少なくともそのエリートは古代ギリシア人と同一化してきたのだ。で、今でもその同一化からほとんど免れていない。それがウクライナ紛争を機縁にあまりにも明らかになった、例えばーー忘れもしないーー、EU外務安全保障政策上級代表ジョゼップ・ボレルの「欧州は庭園、それ以外はジャングル」発言の典型的に現れている。
非ヨーロッパ人は軽蔑すべき、征服すべき敵、アリストテレスの言い方なら奴隷ということになる。
なお、もともとはΒαρβάρων という語は「野蛮」という意味合いはなく「異民族」だったそうだ。
◾️古代ギリシアにおける「他者」の発見と 「他者」との境界をめぐる言説の展開 ―ヨーロッパという境界の策定の歴史的展開と 近代における受容をめぐって 師尾晶子 2016年 |
ギリシア人が,自分たちのことを集団的に「ギリシア人」すなわちヘレネス(Hellênes )と称し,ギリシア人以外の民族をひとくくりに「異民族」すなわちバルバロイ(barbaroi )と称するようになったのは,ギリシア人が地中海一帯に移住し,そこに居住地を建設するようになってからであった。周知のように,ギリシア人自身は統一国家を形成したわけはなく,一つ一つのポリスは独立国家であったが,ポリス的な環境と文化を共有した者たちの間に少しずつ 共通の「ギリシア人」としての意識が形成され,それが共有されたのである。それでも長い間,その区別に優劣の価値観が含まれることはほとんどなかった。〔・・・〕 文献史料から見る限り,barbaros あるいは barbarikos という言葉に「野蛮な」という 意味が時に含まれるようになったのは,ペルシア戦争後のことであった。前480年のサラミスの海戦を前にしてアッティカが蹂躙されるという経験を経て,アテナイの著作家たち は,ペルシア軍によるこの行為を異民族すなわちバルバロイゆえの蛮行と位置づけるよう になった。これにより,barbaros およびその類似語に「野蛮な」という意味合いが加わ るようになったのである。〔・・・〕 |
リュシアスは『コリントス戦争に斃れた戦士のための葬送演説』において,アテナイ人 のペルシア戦争での体験について次のように述べる。 彼ら(アテナイ人)のみが全ギリシアのために(ὑπὲρ ἁπάσης τῆς Ἑλλάδος)とてつもなく多勢のバルバロイに対して危険に身をさらしたのであった(2. 20)。 彼ら(アテナイ人)は富を得るために自分たちの土地の境界を越えて他人の地へと侵攻してきたバルバロイに 対す る戦勝記念碑を, ギリシアのために(ὑπὲρ τῆς Ἑλλάδος)自分たちの土地に建てた(2. 25)。 あるいはバルバロイに与してギリシアを隷属させるのか(ἢ μετα τῶν βαρβάρων γενομένους καταδουλώσασθαι τοὺς Ἔλληνας)(2. 33) また,葬送演説を扱ったプラトンの『メネクセノス』においては,実際の場で演説されたものではないが,「(アテナイ人は)ギリシアをバルバロイに渡して恥ずべき不埒な行為をおこなうことをよしとしなかった」(245e)と記している。リュシアスの第2弁論においても,『メネクセノス』においても,バルバロイ,すなわちペルシア人は敵として位置づけられ,ギリシア人とペルシア人とが対比されている。…… |