そうか、これが最高か。
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女ってのは少女の頃から変わらないからな、
幼女期とか、青春期とか、中年とか、老年とか、そういう分節化は女にはない。女の一生は同じ調子のもので、女たちは男と違って、のっぺらぼうな人生を生きている。養老孟司という解剖学者はそう語って、わたしを驚かせた。その意見を伝えると、吉行淳之介という作家はほとんど襟を正すようにして、その人はじつによく女を知っていると述べた。(丸谷才一・評 『きことわ』=朝吹真理子・著) |
昭和二十年五月廿五日。 空晴れわたりて風爽かに、初て初夏五月になりし心地なり。室内連日の塵を掃はむとて裏窓を開くに隣園の新綠染めしが如く、雀の子の巣立ちして囀る聲もおのづから嬉しげなり。この日予は宿泊人中の當番なれば午後止むことを得ず昭和通五六町先なる米配給所に至り手車に米、玉蜀黍二袋を積み載せ曳いてかへる。同宿人の中江戸川區平井町にて火災に罹り其姉のアパートに在るを尋來りし可憐の一少女あり。年十四五歳なれど言語、擧動共に早熟、一見既に世話女房の如し。予を扶けて共に車を曳く。路すがら中川邊火災當夜の事を語れり。是亦戰時の一話柄ならずや。(永井荷風 断腸亭日乗) |
先の少女は日本的世話女房とは違うタイプだとはいえ、欧米的誘惑者の原型だろうよ。 |
母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快と不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者」になる。[ Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. ] この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年) |
僕はああいった少女の様子を見ると、時として不快を感じるほうなんだがな、
母の影はすべての女に落ちている 。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」 この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。 |
The shadow of the mother falls on every woman so that she shares in the power, and even in the omnipotence, of the mother. This is every young policeman's nightmare: a middle-aged woman rolls down her car window and asks, 'What is it, son?' It is this original omnipotence that evokes fear in all its aspects, from sexism to misogyny |
(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998) |
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全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957) |
(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[une dominance de la femme en tant que mère, et : - mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme. La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition.] 〔・・・〕 不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](ラカン, S17, 11 Février 1970) |
不快を感じない場合はこっち系だよ、
母として[quoad matrem]、すなわち《女なるもの》は、性関係において、母としてのみ機能する[…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère »](Lacan, S20, 09 Janvier 1973) |
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「そうだ。まず入れ入れが大事なんだ。儀式みたいなもんだ。 まずは入れ入れ。~ おっぱいむちむち、肌はつるつる、腰はくねくね、 あそこはぐしょぐしょ、ばりんばりんのセックス・マシンだ。……」(村上春樹『海辺のカフカ』) |