このブログを検索

2025年3月19日水曜日

私はひたすらここで暮らしたいと思う

 


で、どうなんだろう、みなさんは。私は左側の重慶にけっして暮らしたくないと思うが。暮らしたいのは、右側のイゲラ・デ・バルガス(Higuera de Vargas)だ。



スカルラッティが聞こえてきそうな街だよ、

🎵

Scarlatti:  K208 · Nina Milkina







それは、ロラン・バルトが1854年のアルハンブラに「私はひたすらここで暮らしたいと思う」と言った気持ちと似ている。



一軒の古い家屋、影になっているポーチ、屋根瓦、昔のアラブ風の装飾、壁に寄りかかって坐っている男、人気のない街路、地中海沿岸に見られ樹木(チャールズ・クリフォード撮影の「アルハンブラ」)。この古い写真(1854年)は私の心を打つ。私はひたすらここで暮らしたいと思う。この願望は、私の心の奥深いところに、私の知らない根を下ろしている。私を引きつけるのは、気候の暑さか? 地中海の神話か? アポロン的静謐さか? 相続人のいない状態か? 隠棲か? 匿名性か? 気高さか? いずれにせよ(私自身、私の動機、私の幻想がどのようなものであるにせよ)、私はそこで繊細に暮らしたいと思うーーその繊細さは、観光写真によっては決して満足させられない。私にとって風景写真は(都市のものであれ田舎のものであれ)、訪れることのできるものではなく、住むことのできるものでなければならない。この居住の欲望は、自分自身の心に照らしてよく観察すると、夢幻的なものではない(私は非日常的な場所を夢みているわけではない)し、また、経験的なものでもない(私は不動産屋の案内広告の写真を見て、家を買おうとしてるわけではない)。この欲望は幻想的なものであり、一種の透視力に根ざしている。透視力によって私は未来の、あるユートピア的な時代のほうへ運ばれるか、または過去の、どこか知らぬが私自身のいた場所に連れもどされるように思われる。ボードレールが「旅への誘い」と「前の世」でうたっているのは、この二重の運動である。そうした大好きな風景を前にすると、いわば私は、かつてそこにいたことがあり、いつかそこにもどっていくことになる、ということを確信する。ところでフロイトは、母胎について、《かつてそこにいたことがあると、これほどの確信をもって言える場所はほかにない》(『不気味なもの』)と言っている。してみると、(欲望によって選ばれた)風景の本質もまた、このようなものであろう。私の心に(少しも不安を与えない)「母」をよみがえらせる、故郷のようなもの(heimlich)であろう。(ロラン・バルト『明るい部屋』第16章)




日本だったら、次のような海辺の小さな町だね、暮らしたいと思うのは。





またある朝はみゃくらくもなく,前夜むかれた多肉果の紅いらせん状の皮が匂いさざめいたが,それはそのおだやかな目ざめへとまさぐりとどいた者が遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえの,淡い夕ばえのえんさきからの帰着だった.そこで片親とひとり子とが静かに並んでいた.いなくなるはずの者がいなくなって,親と子は当然もどるはずのじょうたいにもどり,さてそれぞれの机でそれぞれの読み書きをつづけるまえのつかのま,だまって充ちたりて夕ばえに染みいられていた.そういう二十ねん三十ねんがあってふしぎはなかったのだが,いなくなるはずの者がいなくなることのとうとうないまま,親は死に,子はさらにかなりの日月をへだててようやく,らせん状の紅い果皮が匂いさざめくおだやかな目ざめへとまさぐりとどくようになれた.(黒田夏子『abさんご』)




こう記していたら粕谷栄市を思い起こしたね、別に海辺の町じゃなくてもいいよ、女のしんとした匂がしたら。



「もぐら座」

 たぶん、できないだろうが、もし、できることなら、

私は、遠いその田舎町で、一日だけ、うどん屋になって

過ごしたい。とは言っても、私は怠け者だ。本当は、何

もしないで、ぼんやりしていたい。



「一生」

 若し、おれが、南国の港の町で、何にでもなれる男だ
としたら、おれは、すぐ、若い水夫になる。太い腕をし
て、昼間から、酒場で酒を呑むのだ。                  


 水夫といっても、名ばかりで、べつに、働くことはな
い。なにしろ、おれは、滅多にいない二枚目のいい男で、
どこにいても、女たちが、放っておかない。 


      


「西片町」

  夏の日、涼しい縁側で、片肘をついて、寝転んでいた

 い。久しぶりに、おふくろのいる家に戻って、何もしな

 いで、ゆっくりしていたい。


  一人前の左官職人になって、間もない私は、その日は、

 仕事の休みの日だ。何もすることがないし、したいこと

 もない。ただ、ぼんやり、横になって、片肘をつき、垣

 根に咲いている、青い朝顔の花を眺めていたいのだ。


  考えていることといえば、まだ、よく知らない娘のこ

 とだ。娘は、たしか、自分と同い年で、片西町の蕎麦屋

 につとめている。色が白くて、小さい尻をしている。


  思えば、この私には、一生、そんな日はないのだけれ

 ど。夢のなかの西片町の蕎麦屋に行くこともないのだけ

 れど。もう、とっくに死んでいて、どこかの寺の墓石の

 下で、若い左官屋の幻をみているのだけだけれど。