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2025年3月9日日曜日

忘れちゃいけない「奇跡」

 

ははあ、池内恵くんのこの発話自体はひどく「正しい」ことを言ってるな。



で、圧倒的な多数派が形成されたんだよな、誰の「おかげか」知らないがさ(?)


伝統的にロシア(ソ連)に対して悪いイメージが支配する日本の政治・社会がロシアのウクライナに対する武力侵攻に対してロシア非難・批判一色に染まったのは、予想範囲内のことでした。しかし、一定の肯定的評価を得ている学者、研究者、ジャーナリストまでが一方的な非難・批判の側に組みする姿を見て、私は日本の政治・社会の根深い病理を改めて思い知らされました。〔・・・〕日本の政治・社会の際立った病理の一つは、「赤信号一緒に渡れば怖くない」という集団心理の働きが極めて強いということです。ロシア非難・批判一色に染まったのはその典型的現れです。(東アジアの平和に対するロシア・ウクライナ紛争の啓示 浅井基文 3/21/2022



で、先の恵チャンの言っている意味とはいくらか異なるアスペクトにおいて、「どさくさ紛れに誰かをぶん殴りたい」意志をもった人物が国際政治学者たちのあいだでも出現した。これは忘れちゃいけないんじゃないかね。


特に篠田英朗くんの佐藤優いじめは凄かった、彼の過食症まで持ち出してさ、




私は佐藤優を全面的に信頼している者ではまったくないが、でもプーチンの言葉をよく分析している、柄谷行人の思考を真摯に読み込もうとしている「佐藤優は終わってる」ってのはいくらなんでもな



こういった発話群からは篠田英朗という人物の本性がよく現れている、と見做さざるを得ないね


ーーそうそう、これら罵詈雑言には「さすがに舌を巻く」ね、このいま読み返しても。

検索したらいくらでも出てくるよ



篠田英朗くんも佐藤優のたぐいに「浅はかな若造御用学者だ!」と難詰された、少なくとも本人はそう受け止めたウラミツラミがあるんだろうがね、おそらく。



まあそれにしても篠田英朗くんの公開のこの執念深さは「奇跡」的だよ、池内恵くんの言っているのとは逆の意味で。



いやあなんたってスゴい、純粋にスゴい。アレは人間の本性リアリズム系じゃないかね、




単なる利己主義は譲歩によって鎮められるが、ある要求の満足は、力への意志を刺激し、その要求はますます拡大する。

力への渇き[lust for power]の無制限な性質は、人間の心の一般的な性質を明らかにしている。ウィリアム・ブレイクはこのことを次のように書いている、《「もっと!もっと!」それは誤った魂の叫びである、人間を満足させることはできない》。この無限の、常に満たされることのない渇望は、可能な対象が尽きたときに初めて安らぎを得るものであり、アニムス・ドミナンディ[animus dominandi](支配リビドー)は、宇宙との一体化を求める神秘的な渇望、ドン・ファンの愛、ファウストの知識欲と同じ種類のものである。これらの試みは、超越的な目標に向かって個人の自然的限界を押し広げようとするものであるが、この超越的な目標、休息地点に到達するのは想像の中だけで、現実には決して到達しないという点でも共通している。アレクサンダーからヒトラーに至るすべての世界征服者の運命が証明しているように、またイカロス、ドン・ファン、ファウストの伝説が象徴的に示しているように、実際の経験においてそれを実現しようとする試みは、常にそれを試みる個人の破滅によって終わる

…mere selfishness can be appeased by concessions while satisfaction of one demand will stimulate the will to power to ever expanding claims. 

This limitless character of the lust for power reveals a general quality of the human mind. William Blake refers to it when he writes: '" More! More!' is the cry of a mistaken soul: less than all cannot satisfy man."  In this limitless and ever unstilled desire which comes to rest only with the exhaution of its possible objects, the animus dominandi is of the same kind as the mystical desire for union with the universe, the love of Don Juan, Faust's thirst for knowledge. These four attempts at pushing the individual beyond his natural limits towards a transcendent goal have also in common that this transcendent goal, this resting-point, is reached only in the imagination but never in reality. The attempt at realizing it in actual experience ends always with the destruction of the individual attempting it, as tIle fate of all world-conquerors from Alexander to Hitler proves and as the legends of Icarus, Don Juan, and Faust symbolically illustrate.

(ハンス・モーゲンソー『科学的人間対権力政治』Hans Morgenthau, Scientific Man versus Power Politics, 1946年)


で、最近の篠田英朗くんや池内恵くんの「変節」は個人の破滅に終わらないようにするための防衛策なんだろうかね、シツレイながらそう憶測する誘惑から逃れ難いよ・・・

せっかく3年頑張ったんだから、この際、最後まで突き進んでほしいもんだったがな、自己破壊への道へと。

欲動は「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[die Triebe …: "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"](ニーチェ「力への意志」遺稿第223番、1882 - Frühjahr 1887)

より深い本能としての破壊への意志、自己破壊の本能、無への意志[der Wille zur Zerstörung als Wille eines noch tieferen Instinkts, des Instinkts der Selbstzerstörung, des Willens ins Nichts](ニーチェ遺稿、den 10. Juni 1887)



いずれにせよ、ツイッターでモーゲンソーの人間の本性リアリズムやニーチェ・フロイト理論の露骨な実践を「観察」できるとは、思いのほかの「幸運」だったよ。


欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


なおフロイトにおけるマゾヒズムとは何よりもまず受動性を意味し、サディズムは能動性であるので注意されたし[参照]。ほとんどの人は受動的立場に置かれたら能動性に反転するものである、天秤の左右の皿のように。


注目すべきなのは、能動性と受動性の関係である。容易に観察されるのは、セクシャリティの領域ばかりではなく、心的経験の領域においてはすべて、受動的に受け取られた印象が小児に能動的な反応を起こす傾向を生みだすということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。

それは、小児に課された外界に対処する仕事の一部であって、苦痛な内容を持っているために小児がそれを避けるきっかけをもつことができた印象の反復の試みというところまでも導いてゆくかもしれない。

小児の遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように、自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置を反復する。受動性への反抗と能動的役割の選択は疑いない。

(フロイト『女性の性愛』第3章、1931年)


……………


そうそう、これを記していて思い出したが、河瀬直美さんの東大祝辞をめぐる国際政治学者の集団いじめも凄かったよ、どっちもどっち論は許さん!と集団ヒステリー起こしてさ。


◼️令和4年度東京大学学部入学式 祝辞 映画作家 河瀨直美

例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?





で、今はどっちもどっち論をヤムナク肯定したらしい・・・、





繰り返せば、こういったことはしっかり記憶に刻んでおかないとな、ウクライナ紛争初期のあれら言葉と眼差しによる拷問を。

人はよく頽廃の時代はより寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残酷性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。しかし、言葉と眼差しによる危害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。

nur so viel gebe ich zu, dass jetzt die Grausamkeit sich verfeinert, und dass ihre älteren Formen von nun an wider den Geschmack gehen; aber die Verwundung und Folterung durch Wort und Blick erreicht in Zeiten der Corruption ihre höchste Ausbildung](ニーチェ『悦ばしき知』23番、1882年)


僕は池内恵やら篠田英朗やらがツイッター上で何やらもっともらしいことを言っても、鼻をつまみながら読むしかない「悪い習慣」を身につけてしまっているからな

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……[so daß ich die Nähe oder – was sage ich? – das Innerlichste, die »Eingeweide« jeder Seele physiologisch wahrnehme – rieche...]


わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。

Ich habe an dieser Reizbarkeit psychologische Fühlhörner, mit denen ich jedes Geheimnis betaste und in die Hand bekomme: der viele verborgene Schmutz auf dem Grunde mancher Natur, vielleicht in schlechtem Blut bedingt, aber durch Erziehung übertüncht, wird mir fast bei der ersten Berührung schon bewußt.

そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのだろうか」第8節、1888年)


で、どうなんだい、巷間のきみたちは悪臭に不感症なのかい?


蚊居肢子晩酌シテ酔ヘリ。

寝ニ就カントスルニ猶早シ、書ヲ読マントスルニ亦懶シ。

鳥語ニ耳ヲ傾ケントついつたあノ窓ヲ覘クモ欠伸スル而已。

毫モ感ズル所無シ。


諸氏ノ美シキ魂ノ汗ノ果物ニ敬意ヲ表スレド

諸氏ノ誠実ナ重ミノナカノ堅固ナ臀ヲ敬ヘド

余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。

にいちえト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。

余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、

鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ

身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。


蚊居肢子喟然トシテ嘆ジテ曰ク、衆何ノ為メニ囀ルヤ。

其ノ無用ナル之レヲ号ケテ屎ト云フモ可ナリ、屁ト云フモ亦可ナリ。