笑われるかもしれないが、大戦中、飢餓と教師や上級生の私刑の苦痛のあまり、さきのほうの生命が縮んでもいいから今日一日、あるいはこの場を生かし通したまえと、“神”に祈ったことが一度や二度ではなかった……(中井久夫「知命の年に」初出1984年『記憶の肖像』所収) |
たまたま、私は阪神・淡路大震災後、心的外傷後ストレス障害を勉強する過程で、私の小学生時代のいじめられ体験がふつふつと蘇るのを覚えた。それは六十二歳の私の中でほとんど風化していなかった。(中井久夫「いじめの政治学」初出1997年『アリアドネからの糸』所収) |
ーーここで中井久夫が語っているのは、簡単に言えば、フロイトの云う次の事態である。 |
体験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ 。〔・・・〕そして自我が寄る辺なき状況が起こるだろうと予期する時、あるいは現在に寄る辺なき状況が起こったとき、かつてのトラウマ的出来事を呼び起こす。 eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; (…) ich erwarte, daß sich eine Situation von Hilflosigkeit ergeben wird, oder die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年) |
ふたたび中井久夫から。 |
一般に、語られる外傷性事態は、二次的な体験、再燃、再演であることが多い。学校でのいじめが滑らかに語られる時など、奥にもう一つあると一度は考えてみる必要がある。〔・・・〕 しかし、再燃、再演かと推定されても、当面はそれをもっぱら問題にしてよい。急いで核心に迫るべきではない。それは治療関係の解消あるいは解離その他の厄介な症状を起こす確率が高い。「流れがつまれば水下より迫れ(下流の障害から除去せよ)」とは下水掃除の常道である。(中井久夫「トラウマと治療体験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収) |
………………
ここまでは序段であって、ここでの目的はーーある意図があってーー中井久夫の名エッセイ「いじめの政治学」をやや長く掲げることである(ある意図とはエアリプとしてもよい)。 |
長らくいじめは日本特有の現象であるかと思われていた。私はある時、アメリカのその方の専門家に聞いてみたら、いじめbullyingはむろんありすぎるほどあるので、こちらでは学校の中の本物のギャングが問題だという返事であった。学校に銃を持ってくるなということを注意し、実際に校門で検査しているのが一部高校の実情である。こうなっては大変であるが、銃はともかく、日本でもいじめ側の一部がギャング化しているのは高額の金員を搾取していることから察せられる。 外国では、英国のエリート学校であるいくつかのパブリック・スクールのいじめがよく知られている。英国の数学者・哲学者バートランド・ラッセルの自伝にもケンブリッジ大学への準備に通っていた学校で、これは高級軍人コースのための予備校であったからなおさらであったが、毎日いじめられては夕陽に向かって歩いていって自殺を考え「もう少し数学を知ってから死のう」と思い返す段がある。〔・・・〕 いじめは、その時その場での効果だけでなく、生涯にわたってその人の行動に影響を与えるものである。殺人は犯罪であって、軍人が戦場に臨んだ時にだけ犯罪でなくなることはよく知られている。いじめのかなりの部分は、学校という場でなければ立派に犯罪を構成する。そして、かつて兵営における下級兵いじめが治外法権のもとにおかれたような意味で学校が法の外にあるように思われるのは多くの人が共有している錯覚である。〔・・・〕 |
いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。 鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなくなるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてよかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。 子どもの社会は権力社会であるという側面を持つ。子どもは家族や社会の中で権力を持てないだけ、いっそう権力に飢えている。子どもが家族の中で権利を制限され、権力を振るわれていることが大きければ大きいほど、子どもの飢えは増大する。 |
いじめる側の子どもにかんする研究は少ない。彼らが研究に登場するのは、家族の中で暴力を振るわれている場合である。あるいは発言したくても発言権がなくて、無力感にさいなまれている場合である。たとえば、どれだけ多くの子どもが家庭にあって、父母あるいは嫁姑の確執に対して一言いいたくて、しかしいえなくて身悶えする思いでいることか。 そういう子どもが皆いじめ側になるわけではない。いじめられる側にまわることが多く、その結果、神経症になるほうが多いだろう。最近、入院患者の病歴をとっていると、うんざりするほどいじめられ体験が多い。また、何らかの形でいじめを克服して、それが職業選択を左右しているかもしれない。もう二十年前になるが、私が精神科医仲間にそれとなく聞いてまわったところでは(私も含めてーー私は堂々たるいじめられっ子である)圧倒的にいじめられっ子出身が多かったが、一人の精神科医はいじめ側であったといい、何人も登校拒否児を作ったから罪のつぐないに子どもを診ているのだと語った。 |
しかし、いじめ方を教える塾があるわけではない。いじめ側の手口を観察していると、家庭でのいじめ、たとえば配偶者同士、嫁姑、親と年長のきょうだいのいじめ、いじめあいから学んだものが実に多い。方法だけでなく、脅かす表情や殺し文句もである。そして言うを憚ることだが、一部教師の態度からも学んでいる。一部の家庭と学校とは懇切丁寧にいじめを教える学校である。〔・・・〕 |
権力欲とはどういうものであろうか。人間にはさまざまな欲望がある。仏教をはじめ、多くの宗教は欲望をどうするかという問題と取り組んできた。しかし欲望の中には睡眠欲もあって、これは一人で満足でき、他に迷惑をかけない。食欲も基本的には同じであるが、他人の食を意識的に奪う場合もあり、知らず知らずの間に奪う場合もあり、他の生命を犠牲にすることは避けられなくて、睡眠欲ほど無邪気ではない。 情欲となると、これは基本的には二人の間の問題であり、必ずしも自分の思いどおりにならず、睡眠や食事よりも自分の中に葛藤を起こすことも少なくない。しかし、権力欲ばこれらとは比較にならないほど多くの人間、実際上無際限に多数の人を巻き込んで上限がない。その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。自己の中の葛藤は、これに直面する代わりに、より大きい権力を獲得してからにすればきっと解決しやすくなるだろう、いやその必要さえなくなるかもしれないと思いがちであり、さらなる権力の追求という形で先延べできる。このように無際限に追求してしまうということは、「これでよい」という満足点がないということであり、権力欲には真の満足がないことを示している。権力欲には他の欲望と異なって真の快はない。そして『淮南子』にいう「それ物みな足らざるところあればすなわち鳴る」である。〔・・・〕 |
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。多くの宗教がこれまで権力欲を最大の煩悩としてこなかったとすれば、これは不思議である。むろん権力欲自体を消滅させることはできない。その制御が問題であるが、個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。〔・・・〕 いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。子どもにおけるいじめの政治学はなかなか精巧であって、子どもが政治的存在であるという面を持つことを教えてくれる。子ども社会は実に政治化された社会である。すべての大人が政治的社会をまず子どもとして子ども時代に経験することからみれば、少年少女の政治社会のほうが政治社会の原型なのかもしれない。 |
(中井久夫「いじめの政治学」初出1997年『アリアドネからの糸』所収) |
なおノーベル文学賞作家ドリス・レッシングは自伝で次のように言っている。 |
子供たちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子供が悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。 |
Children have always been bullies and will always continue to be bullies. The question is not so much what is wrong with our children; the question is why adults and teachers nowadays cannot handle it anymore. (Doris Lessing, Under My Skin: Volume I of my Autobiography, 1994) |
さて実は以下こそがこのエッセイの核心だろうが、あまりにも長くなり過ぎるので多くの記述を割愛しつつ掲げる(割愛しすぎていささか意味が取りにくい箇所があるかもしれないが、それは中井久夫にエッセイ自体に当たりたし)。 |
いじめはなぜわかりにくいか。それは、ある一定の順序を以て進行するからであり、この順序が実に政治的に巧妙なのである。ここに書けば政治屋が悪用するのではないかとちょっと心配なほどである。 私は仮にいじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けてみた。〔・・・〕これは実は政治的隷従、すなわち奴隷化の過程なのである。 |
まず孤立化である。 孤立していない人間は、時たまいじめに会うかもしれないが、持続的にいじめの標的にはならない。また、立ち直る機会がある。立ち直る機会を与えず、持続的にいくらでもいじめの対象にするためには、孤立させる必要があり、いじめの主眼は最初「孤立化作戦」に置かれる。その作戦の一つは、標的化である。誰かがマークされたということを周知させる。そうするとそうでない者はほっとする。そうして標的から距離を置く、それでも距離を置かない者には、それが損であり、まかり間違うと身の破滅だよということをちらつかせる。 ついで、いじめられる者がいかにいじめられるに値するかというPR作戦が始まる。些細な身体的特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動は一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。〔・・・〕 |
孤立化の過程においては、相手はまだ精神的には屈伏していない。ひそかに反撃の機会を狙っているかもしれない。加害者はまだ枕を高くしておれない。 次に加害者が行なうことは無力化することである。 孤立化作戦はすでに無力化を含んでいる。〔・・・〕しかし、「無力化作戦」はそれだけでは終わらない。この作戦は、要するに、被害者に「反撃は一切無効である」ことを教え、被害者を観念させることにある。そのためには、反撃には必ず懲罰的な過剰暴力を以て罰せられること、その際に誰も味方にならないことを繰り返し味わわせることが必要がある。反抗の微かな徴候も過大な懲罰の対象となる。さらには、「反抗を内心思ったであろう、そのはずだ」と言いがかりをつけて懲罰することも有効である。これは被害者に、加害者よりも自分の振る舞いの方に、さらにはおのれの内心の動きへと眼を向けるようにさせる効果もある。〔・・・〕 ここで暴力をしっかり振るっておけば、あとは暴力を振るうぞというおどしだけで十分である。暴力それ自身は、振るいたい時にいつでも振るえるとなれば、それほど頻繁に振るうものではない。暴力を以て辛うじて維持されている権力というものは危うい権力であり、権力欲の観点からみて、決して快い権力ではない、進んで、自発的に隷従されることが理想である。 |
さて、この辺りから、いじめは次第に「透明化」して周囲の眼に見えなくなってゆく。 一部は、傍観者の共謀によるものである。古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inattention」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。〔・・・〕 しかし、第三者に見えないのは、第三者が「見ない」だけではない。実際、この時期に行われる「透明化作戦」によってざっと見たぐらいでは見えなくなっているのである。 この段階になると、被害者は孤立無援であり、反撃あるいは脱出のために無力である自分がほとほと嫌になっている。被害者は、次第に自分の誇りを自分で掘り崩してゆく。〔・・・〕 |
空間的にも、加害者のいない空間が逆説的にも現実感のない空間のようになる。いや、たとえ家族が海外旅行に連れだしても、加害者は"その場にいる"。 空間は加害者の臨在感に満ちている。いつも加害者の眼を逃れられず、加害者の眼は次第に遍在するようになる。 独裁国の人民が独裁者の眼をいたるところに、そしていつも、感じるのと同じ心理的メカニズムである。……(中井久夫「いじめの政治学」1997年『アリアドネからの系』所収) |
ーー私は最近、ある政治家への少なくとも孤立化作戦を見た。
ところで、中井久夫は別のエッセイでこう書いている。 |
私は高校二年の時、「隠れた人生が最高の人生である」というデカルトの言葉にたいへん共感した。私を共鳴させたものは何であったろうか。私は権力欲や支配欲を、自分の精神を危険に導く誘惑者だとみなしていた。ある時、友人が私を「無欲な人か途方もない大欲の人だ」と評したことが記憶に残っている。私はひっそりした片隅の生活を求めながら、私の知識欲がそれを破壊するだろうという予感を持っていた。その予感には不吉なものがあった。私は自分の頭が私をひきずる力を感じながら、それに抵抗した。それにはかねての私の自己嫌悪が役立った。 (中井久夫「編集から始めた私」1998年『時のしずく』所収 ) |
小学生時代にひどいイジメにあった中井久夫が、途方もない権力欲の人になってもおかしくない、先の「いじめの政治学」の記述からすれば。すなわち《差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある》であることは紛いようもないだろうから。 |
これからきみにぼくの人生で最も悲しかった発見を話そう。それは、迫害された者が迫害する者よりましだとはかぎらない、ということだ。ぼくには彼らの役割が反対になることだって、充分考えられる。(クンデラ『別れのワルツ』) |
過去の虐待の犠牲者は、未来の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe, 2010) |
この事態をより一般化していえば、「受動性から能動性への移行」である。 |
トラウマを受動的に体験した自我は、その状況の成行きを自主的に左右するという希望をもって、能動的にこの反応の再生を、よわめられた形ではあるが繰り返す。 子供はすべての苦痛な印象にたいして、それを遊びで再生しながら、同様にふるまうことをわれわれは知っている。このさい子供は、受動性から能動性へ移行することによって、彼の生の出来事を心的に克服しようとするのである。 |
Das Ich, welches das Trauma passiv erlebt hat, wiederholt nun aktiv eine abgeschwächte Reproduktion desselben, in der Hoffnung, deren Ablauf selbsttätig leiten zu können. Wir wissen, das Kind benimmt sich ebenso gegen alle ihm peinlichen Eindrücke, indem es sie im Spiel reproduziert; durch diese Art, von der Passivität zur Aktivität überzugehen, sucht es seine Lebenseindrücke psychisch zu bewältigen. |
(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年) |
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注目すべきなのは、能動性と受動性の関係である。容易に観察されるのは、セクシャリティの領域ばかりではなく、心的経験の領域においてはすべて、受動的に受け取られた印象が小児に能動的な反応を起こす傾向を生みだすということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。 それは、小児に課された外界に対処する仕事の一部であって、苦痛な内容を持っているために小児がそれを避けるきっかけをもつことができた印象の反復の試みというところまでも導いてゆくかもしれない。 小児の遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように、自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置を反復する。受動性への反抗と能動的役割の選択は疑いない。 |
(フロイト『女性の性愛』第3章、1931年) |
受動的な体験をした者は反転して能動的な、時に暴力的な行為に出て、彼の生の出来事を心的に克服する。これはほとんどの人がそうであろう。 暴力的行為の対象は誰でもいいのである。フロイトは鍛冶屋と仕立屋の面白い話をしている。 |
ランク(1913年)はちかごろ、神経症的な復讐行為[neurotische Racheaktionen] が不当に別の人にむけられたみごとな症例を示した。この無意識の態度については、次の滑稽な挿話を思い出さずにはいられない。それは、村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯罪をひきおこしたために、その村にいた三人の仕立屋のうちの一人が処刑されたという話である[daß einer der drei Dorfschneider gehängt werden soll, weil der einzige Dorfschmied ein todwürdiges Verbrechen begangen hat]。刑罰は、たとえ罪人に加えられるのではなくとも、かならず実行されなければならない、というのだ。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年) |
最後に中井久夫はこうも書いていることをつけ加えておこう。 |
そもそもいったい誰が「殺せ、殺せ」という幻の声を内に聞きつつ、なおひとりも殺さずに、むしろ恐縮して生きているというりっぱな生き方ができるであろうか。私だと一人二人は危ういおそれがある。(中井久夫『治療文化論』1990年) |
私は対人関係に不器用であり、多くの人に迷惑を掛けたし、また、何度かあそこで死んでいても不思議でないという箇所があったが、とにかくここまで生かしていただいた。振り返ると実にきわどい人生だった。(中井久夫「私の死生観――“私の消滅”を様々にイメージ」1994年『 精神科医がものを書くとき』所収 ) |
………………
なお発達段階の最初期には人はみな受動的立場に置かれる。 |
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母のもとにいる幼児の最初の出来事は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質[passiver Natur] のものである。幼児は母によって、授乳され・食物をあたえられ・体を洗ってもらい・着せてもらい、なにをするのにも母の指図をうける。(フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年) |
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ラカンはこれを母なる全能性、あるいは母なる女の支配と呼んだ。 |
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全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957) |
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(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。[…une dominance de la femme en tant que mère, et : - mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.](Lacan, S17, 11 Février 1970) |
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ラカニアンにとってここにミソジニーの起源がある。 |
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母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」What is it, son? この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで[from sexism to misogyny ]。(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998) |
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これは構造的に、いじめと権力欲の関係と同一である。
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当面、以上である。