最近、高橋悠治の過去の録音演奏がYouTubeにアップされているが、実にすばらしい。
クラヴィーア協奏曲集 第5番 ヘ短調 BWV1056 II - Largo |
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インヴェンションとシンフォニア (装飾稿による) シンフォニア7, BWV 793 |
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インヴェンションとシンフォニア (装飾稿による) シンフォニア11, BWV 797 |
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ゴルトベルク変奏曲 BWV988 変奏曲 7 |
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ゴルトベルク変奏曲 BWV988 変奏曲 14 |
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パルティータ第3番イ短調作品827 Burlesca |
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パルティータ第5番ト長調作品829 Tempo di Menuetta |
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Yuji Takahashi plays Bach Erbarme dich, mein Gott - BWV 244 |
「文化的に」という意味での古き良き時代の日本の見事な遺産だ。
ピアノは生活の手段だった。〔・・・〕ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グールドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。〔・・・〕 確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられないためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。(高橋悠治「ピアノを弾くこと」) |
…………… |
シューマンもアップされている。
森の情景 作品82 第1曲 森の入り口 |
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森の情景 作品82 第3曲 淋しき花々 |
ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、 過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 〔・・・〕 いま必要なのは冬のおとずれをつげる歌ではない。 冬にそなえて深く穴を掘り、 武器をたくわえ、 その時までに地下に姿を消すことだ。 冬眠するためではない。 根をはりめぐらして、やがて地表を突きやぶるために。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』1978 ) |
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これはこの今の勧告としていっそう通用する、
特に若い人たちに向けて。
冬にそなえて深く穴を掘り根をはりめぐらすこと。
世界の根拠のなさについて(2001)
高橋悠治
〔・・・〕
世界はことばでうごかせるか
うごかせるとしたら
それは 世界を暴力でうごかすのと どこがちがうだろう
いま起こりつつあることがらも もう過ぎてしまったかのように
ことばは うごいて止まないものを 一瞬つなぎとめる
そして ことばはことばを呼ぶ
ことばはことばを凝視する
そのあいだも
爆弾はことばを持たないものたちの上に 花びらのように降る
現実は だれのものでもない
思うままにうごかせないから 世界はある
世界に意味があったら こんなにも多くの苦しみがあるだろうか
情報によって 知識によって はっきり見透せるものなら
世界は こんなふうになっていただろうか
こんな世界を ありのままに見ることは
もうひとつの苦しみだからといっても
なにかをしなければならないと思い
なにかできることがあるはずだと信じて
安全なところでうろうろしている
このありさまを見たら
空爆の下で毎日を生きているひとびとは どう感じるだろう
かみさま
あなたのひこうきが まいにち やってきます
きのうも ぼくたちのテントに
ばくだんを おとしていきました
ぼくははしって いわかげに かくれました
わらって わらって わらいました
(パレスチナの子どもの神さまへのてがみ)
(批評空間第III期第2号)
ーー《自分のしていることは自分からも隠されている。外側から後になって意味付けはできるかもしれない。でもそれはどこかちがっていて、意味からは何も生まれないし、わかってしまったらくりかえせない。隠しているのではなく自分からも隠れている。》(青柳いづみこ「高橋悠治という怪物」2018年)