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2025年5月29日木曜日

人はみな投射する


一般に投射(投影)は次のような形で使われる。

フロイトの投射メカニズム[le mécanisme de la projection]の定式は次のものである…内部で拒絶されたものは、外部に現れる[ce qui a été rejeté de l'intérieur réapparaît par l'extérieur](ラカン, S3, 11 Avril 1956)

愛他主義はエゴイズムの投射にすぎない[L'altruisme n'est que la projection de l'égoïsme ](J.-A. MILLER, Le partenaire-symptôme, 7 janvier 1998)

もとより、「天皇」は「父親」が投影されているスクリーンに過ぎない。(中井久夫「「昭和」を送るーーひととしての昭和天皇」初出「文化会議」1989.5)



とはいえ、これは最も基本的な投射の機制であり、より根源的には、投射(投影)の起源は不快な内的興奮ーー身体から湧き起こる有機体の欲動ーーに対する反応である、とフロイトはしている。


あまり大きな不快 [große Unlustvermehrung]の増加をまねくような内的興奮[innere Erregungen]にたいする反応の方向について。人は内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向がある、内的興奮に対する防衛の手段としての刺激保護膜[Reizsehutzes]の役割を期待して。これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射の起源[die Herkunft der Projektion]である。

(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)

刺激を受けいれる皮膜層の刺激保護膜が、内部からくる興奮にたいして欠けているために、この刺激伝達が大きな経済論的意味をもつようになり、しばしば外傷神経症[traumatischen Neurosen] と同列におかれる経済論的障害をひきおこす機縁になるにちがいない。


このような内部興奮の最大の根源は、いわゆる有機体の欲動であり、身体内部から派生し、心的装置に伝達されたあらゆる力作用の代表であり、心理学的研究のもっとも重要な、またもっとも暗黒な要素でもある[ Die ausgiebigsten Quellen solch innerer Erregung sind die sogenannten Triebe des Organismus, die Repräsentanten aller aus dem Körperinnern stammenden, auf den seelischen Apparat übertragenen Kraftwirkungen, selbst das wichtigste wie das dunkelste Element der psychologischen Forschung.]

(フロイト『快原理の彼岸』第5章冒頭、1920年)


不快な内的興奮としての「身体から湧き起こる有機体の欲動」は簡単にいえば、「欲動の身体」である。

不快な性質をもった身体感覚[daß Körpersensationen unlustiger Art](フロイト『ナルシシズム入門』1914年)

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)


この不快な欲動の身体がラカンの享楽であり、別名「異者としての身体」である。


不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異者対象(異物)として識別される[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ] (Lacan, S11, 17 Juin  1964)


つまり享楽は、異者としての身体=エスの欲動=トラウマである。

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用し、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子としての効果を持つ[das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


冒頭の『快原理の彼岸』で、フロイトが内的興奮を外傷神経症[traumatischen Neurosen]と同列に置いているのはこの意味である。


なおフロイトにおいてのトラウマは強度をもった自己身体の出来事であり、通常、我々が使うトラウマよりも広い意味があるので注意。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚の出来事である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。〔・・・〕出来事が外傷的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである。das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt (フロイト『モーセと一神教』3.1.3 、1939年 )



ところでフロイトは投射についてこうも言っている。

内的知覚の外界への投射は原始的メカニズムであり、たとえばわれわれの感覚的知覚もこれにしたがっている。したがってこのメカニズムは普通われわれの外界形成にあずかってもっとも力のあるものである[Die Projektion innerer Wahrnehmungen nach außen ist ein primitiver Mechanismus, dem z. B. auch unsere Sinneswahrnehmungen unterliegen, der also an der Gestaltung unserer Außenwelt normalerweise den größten Anteil hat.]〔・・・〕


抽象的思考言語ができあがってはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくようになり、かくして内的事象そのものがしだいに知覚されうるようになった。それまで原始人は内的知覚を外部へ投射することによって、外界の像を展開させていたのである[Erst mit der Ausbildung einer abstrakten Denksprache, durch die Verknüpfung der sinnlichen Reste der Wortvorstellungen mit inneren Vorgängen, wurden diese selbst allmählich wahrnehmungsfähig. Bis dahin hatten die primitiven Menschen durch Projektion innerer Wahrnehmungen nach außen ein Bild der Außenwelt entwick](フロイト『トーテムとタブー』「Ⅱ タブーと感情のアンビヴァレンツ」第4節、1913年)


この記述を基にすれば、外界の形成、あるいは言語自体が欲動の身体の投射となる。


この観点からはラカンの「人はみな妄想する」は「人はみな投射する」と言い換えていいんじゃないか。

フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud…Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)


ーーラカンは上で夢と妄想を等置しているのに注目しよう。フロイトにおいて夢は投射であり、投射は妄想である。

夢は投射である。つまり内的過程の外在化である[Ein Traum ist also auch eine Projektion, eine Veräußerlichung eines inneren Vorganges. ](フロイト『夢理論へのメタ心理学的補足』1917年)

投射メカニズムの使用とその結果において妄想的性格が現れる[…den Projektionsmechanismus und den Ausgang dem paranoiden Charakter Rechnung trägt.  ](フロイト『症例シュレーバー』第3章、1911年)


つまりフロイトにとって投射としての妄想は「トラウマ的=不快な」欲動の身体からの回復の試みであってそんなことはみなやっている。

病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。[Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion.] (フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』「症例シュレーバー」第3章、1911年)



私のこの投稿自体、「不快な欲動の身体」の再構成としての「投射の言語」かもしれないよ。そしてその別名が「妄想」だ。


ジャック=アラン・ミレールはラカンの「人はみな妄想する」を次のように注釈している。


私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire〔・・・〕

ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。〔・・・〕


あなた方は精神分析家として機能しえない、もしあなた方が知っていること、あなた方自身の世界は妄想だと気づいていなかったら。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。分析家であることは、あなた方の世界、あなた方が意味を為す仕方は妄想的であることを知ることである。Vous ne pouvez pas fonctionner comme psychanalyste si vous n'êtes pas conscient que ce que vous savez, que votre monde, est délirant – fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant. Etre analyste, c'est savoir que votre propre fantasme, votre propre manière de faire sens est délirante (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


《すべての象徴秩序は妄想だ》とあるが、この象徴秩序は言語自体である。


象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


つまり「言語は妄想」となるが、フロイト的に「言語は欲動の身体の投射」と言ったほうが受け入れやすいだろう、繰り返せばーー簡潔に言えばーー、「人はみな投射する」と言ったほうがわかりやすいし精神分析に馴染みのない人でも納得しやすい。「投影」の方がもっと親しみやすいのなら、「人はみな投影する」でよろしい。


……………


※附記



「人はみな狂っている(人はみな妄想する)」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。この意味はすべての人にとって穴があるということである[au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


ーーこれは、ここまでの記述に基けば、「人はみな投射するの彼岸には人はみな穴がある」となる。


ラカンの穴とはトラウマであると同時に、欲動の身体である。


現実界はトラウマの穴をなす[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)


そもそもフロイトラカンにおいて本来の無意識は欲動のトラウマであることに注意を促しておこう。


現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ».](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016)

ラカンの現実界はフロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である[ce réel de Lacan … c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours. ] (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)



先に掲げたフロイトの「異者としての身体=トラウマ=エスの欲動」のエスが本来の無意識であるーー《異者としての身体は本来の無意識としてエスのなかに置き残されている[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ]》(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)


異者としての身体[Fremdkörper]は邦訳では「異物」と訳されてきたが、中井久夫がこの概念を外傷性記憶と等置しているのは、この文脈のなかにある。


一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)



この外傷性記憶としての異物を言語化(秩序化)するのが、ラカン派的には妄想である。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

実際は、妄想は象徴的なものだ[En tout état de cause, un délire est symbolique. ]〔・・・〕妄想はまた世界を秩序づけうる[Un délire est aussi capable d'ordonner un monde.](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


ーー妄想は象徴的とあるが、繰り返せば、《象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage]》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

この妄想としての言語が、ここまで記してきたように、フロイト観点からは、トラウマ的な「欲動の身体」の外在化としての「投射の言語」としうる。




……………


なお投射について一般に最もわかりやすい説明はおそらく次のものではないか。


『精神分析理論にそぐわないパラノイアの一例の報告』(1915年)において、フロイトは投射の事例として、さる大きな企業に勤める30歳のとても魅力的な美人の女性について語っている。《彼女は男性との恋愛を求めたことはなく、年老いた母と静かに暮らしていた[Liebesbeziehungen zu Männern hatte sie nie gesucht; sie lebte ruhig neben einer alten Mutter]》。父親はかなり前になくなっており、母親コンプレクス[Mutterkomplex]-ー母への強い感情的拘束[starke Gefühlsbindung an die Mutter]ーーがある女性である。その女性が30歳になって職場の男と恋に陥り、彼の住まいに訪れた。ソファで抱き合っているとき、彼女は何か音がすると不安に襲われる。男は不思議に思い、たんなる時計の音じゃないかと言う。フロイトは次のように記している。


時計の時を刻む音でも、何か別の音でもないと思う。女性の状況を考えると、クリトリスにおけるノックあるいは鼓動の感覚が正当化される。これを彼女が外部の対象の感覚として投射したのである。夢の中でも同じようなことが起こる。私のヒステリー症の女性患者はかつて、自発的に連想することができなかった短い覚醒夢について私に話してくれた。彼女はただ、誰かがノックして目が覚めるという夢を見た。誰もドアをノックしなかったが、前の晩に彼女は性器の湿潤による不快な感覚で目が覚めていた。そのため、彼女には性器の興奮の最初の兆候を感じたらすぐに目覚めるという動機があった。彼女のクリトリスには「ノック」があったのである。われわれのパラノイア患者の場合、偶発的なノイズの代わりに同様の投射過程を代替すべきである。

Ich glaube überhaupt nicht, daß die Standuhr getickt hat oder daß ein Geräusch zu hören war. Die Situation, in der sie sich befand, rechtfertigte eine Empfindung von Pochen oder Klopfen an der Klitoris. Dies war es dann, was sie nachträglich als Wahrnehmung von einem äußeren Objekt hinausprojizierte. Ganz Ähnliches ist im Traume möglich. Eine meiner hysterischen Patientinnen berichtete einmal einen kurzen Wecktraum, zu dem sich kein Material von Einfällen ergeben wollte. Der Traum hieß: Es klopft, und sie wachte auf. Es hatte niemand an die Tür geklopft, aber sie war in den Nächten vorher durch die peinlichen Sensationen von Pollutionen geweckt worden und hatte nun ein Interesse daran zu erwachen, sobald sich die ersten Zeichen der Genitalerregung einstellten. Es hatte an der Klitoris geklopft. Den nämlichen Projektionsvorgang möchte ich bei unserer Paranoika an die Stelle des zufälligen Geräusches setzen.

(フロイト『精神分析理論にそぐわないパラノイアの一例の報告(Mitteilung eines der psychoanalytischen Theorie widersprechenden Falles von Paranoia)』1915年)ー



つまり不快なクリトリスのノックの音を時計の音に投射したという話である。クリトリスのノックとはもちろん欲動の身体(異者としての身体)であり、時計の音への投射とは内的過程の外在化である。これを妄想というか投射(投影)と呼ぶかは、時と場合によるだけである。


なお、フロイトにおいて不快の別名は不安でありトラウマである。


不快(不安)[Unlust-(Angst)](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


不快=不安=トラウマであり、これが欲動である。

欲動過程による不快[die Unlust, die durch den Triebvorgang](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


したがって、不快なクリトリスのノックという欲動の身体はあくまで一例に過ぎず、欲動の身体は、身体の出来事としてのトラウマの身体(異者としての身体)であり、これがフロイト理論の核であることを十全に認知しておく必要があるが、わかりやすい事例として挙げた。



なおフロイトにおいてトラウマの影響は二面性がある。


トラウマの影響は両面がある。ポジ面とネガ面である。Die Wirkungen des Traumas sind von zweierlei Art, positive und negative.


ポジ面は、トラウマを再生させようとする試み、すなわち忘却された出来事の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとする、トラウマを反復して何度も新たに経験しようとすることである。さらに忘却された出来事が、初期の情動的結びつきであるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

Die ersteren sind Bemühungen, das Trauma wieder zur Geltung zu bringen, also das vergessene Erlebnis zu erinnern, oder noch besser, es real zu machen, eine Wiederholung davon von neuem zu erleben, wenn es auch nur eine frühere Affektbeziehung war, dieselbe in einer analogen Beziehung zu einer anderen Person neu wiederaufleben zu lassen

〔・・・〕

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応」として要約できる。その基本的現れは、「回避」と呼ばれるもので、「制止」と「恐怖症」に強化される可能性がある。

Die negativen Reaktionen verfolgen das entgegengesetzte Ziel, daß von den vergessenen Traumen nichts erinnert und nichts wiederholt werden soll. Wir können sie als Abwehrreaktionen zusammenfassen. Ihr Hauptausdruck sind die sog. Vermeidungen, die sich zu Hemmungen und Phobien steigern können.

(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


上にネガ面として「制止」と「恐怖症」あるが、この後者の恐怖症がまずは投射である。

(ハンス少年において)不安におけるリビドーの転換は、恐怖症の主な対象である馬に投射された[die Verwandlung von Libido in Angst auf das Hauptobjekt der Phobie, das Pferd, projiziert. ](フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年)

恐怖症(フォビアPhobie)には投射[Projektion]の特徴がある。それは、内部にある欲動的危険を外部にある知覚しうる危険に置き換えるのである。der Phobie den Charakter einer Projektion zugeschrieben, indem sie eine innere Triebgefahr durch eine äußere Wahrnehmungsgefahr ersetzt. (フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


だがフロイトの記述を追っていくと、上に示したようにそれだけではないのがわかる。おそらく「制止」自体が欲動のトラウマに対する言語による制止であり、これが言語による投射であるだろうことが。


ところでフロイトの思考の下では「制止」は十分にはなされない。厳密には、ーー《自我が危険な欲動蠢動を防ぐことできたとすると、エスのこの部分は、実際に制止され害されるが、同時にエスにある程度の独立性があたえられ、自我は本来の主権をある程度放棄する[Wenn es dem Ich gelungen ist, sich einer gefährlichen Triebregung zu erwehren, …, so hat es diesen Teil des Es zwar gehemmt und geschädigt, aber ihm gleichzeitig auch ein Stück Unabhängigkeit gegeben und auf ein Stück seiner eigenen Souveränität verzichtet.]》(フロイト『制止、症状、不安』10章、1926年)


したがってラカンはトラウマのポジ面を強調している。ここではわかりやすい形で書かれているセミネールⅨからまず引用しよう。


原初に何かが起こったのである、それがトラウマの神秘の全て[tout le mystère du trauma]である。すなわち、かつてAの形態[ la forme A]を取った何かを生み出させようとして、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させようとして。[quelque chose à l'origine s'est passé, qui est tout le mystère du trauma, à savoir :  qu'une fois il s'est produit quelque chose qui a pris dès lors la forme A, que dans la répétition  le comportement, si complexe, engagé,…n'est là que pour faire ressurgir ce signe A. ](ラカン, S9, 20 Décembre 1961)



そして最晩年のラカンである。

現実界は書かれることを止めない[le Réel ne cesse pas de s'écrire ](Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)


この現実界はトラウマである、ーー《問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.]》 (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


つまり「トラウマは書かれることを止めない」。


そして《この「止めないもの」は、フロイトが『制止、症状、不安』の第10章にて指摘した無意識のエスの反復強迫である[ce qui ne cesse pas…c'est ainsi que dans le chapitre X de Inhibition, symptôme et angoisse, où Freud récapitule…la compulsion de répétition du ça inconscient..]》(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)


すなわち「トラウマは無意識のエスの反復強迫を引き起こす」である。



さらに付け加えておけば、ラカンの「トラウマは書かれることを止めない」は、事実上、ニーチェの次の文に相当する。


「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)


というのはーー改めて言うまでもないかもしれないがーー、トラウマは傷だから。《トラウマ(ギリシャ語のτραμα(トラウマ)=「傷」に由来)とは、損傷、または衝撃のことである[Un traumatisme (du grec τραμα (trauma) = « blessure ») est un dommage, ou choc]》(仏語Wikipedia)



なお私は芸術体験はトラウマ体験だと見做している、ジェネ=ジャコメッティに依拠しつつ。


美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。

Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti, 1958、宮川淳訳)


芸術体験は、少なくとも私の場合、主に喜ばしきトラウマ(先に掲げたフロイトの定義における「トラウマ=強度をもった自己身体の出来事」)であり、反復強迫する。


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)