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2025年5月3日土曜日

おい、いまさら騒ぐなよ

 

おい、いまさら騒ぐなよ


◼️私の謎 柄谷行人回想録① 2023/2/20

――「戦争の時代が来る」と指摘されていましたが、ウクライナにロシアが侵攻する事態になっています。


柄谷 1989年のベルリンの崩壊以来、新聞も含め、「歴史の終焉」だとか、くだらないことを言ってきたんだからね。それが壊れたからって騒ぐなよ、と。初めからわかり切ってるじゃない。……などとまた言う気もしない。



◾️私の謎 柄谷行人回想録⑰ 2024.08.06

柄谷 いま振り返ってみれば、80年前後に僕が悩んでいたことは、あくまで哲学的、理論的な事柄で、言ってみれば自分の頭のなかの問題だった。だけど、今回は違う。もっと現実的なこと、切実な問題に関わっている感じがあった。このままいけば世界戦争だと思っていたしね。


――柄谷さんが言ってきたような、ネーション(交換様式A)、国家(B)、資本(C)の結合体を維持したままでは、世界戦争に至るということですね。そこで、新たな交換様式Dを考える必要がある、と。

〔・・・〕

柄谷 ……(『力と交換様式』を)書き終わった頃に、ロシアとウクライナの問題が起きて、去年からはパレスチナも大変なことになっている。中国や台湾の問題もある。もういっぺんに出てきたでしょう。世界中どこもまともじゃない。こんなに脆いものだったのか、っていうのは、やっぱりすごく思いますよね。


他方で、僕は交換様式を考えるなかで、こうなることは分かってもいた。このまま資本-ネーション-国家の体制でやっていたら、地球環境ひとつとっても、持つわけない。いろいろな人がひっきりなしに、さまざまなオルタナティブや新しいヴィジョンを提唱しているけれど、僕から見たら全然オルタナティブじゃない。資本-ネーション-国家の永遠性を当然のこととしたうえで、その範囲でできることをやろうとしているだけだよ。もしくは、その中にいることにすら気づかないで、勝手に都合のいい世界を空想しているだけ。本当のオルタナティブは、むしろ世界戦争によって出てくるかもしれないけど――要するにそうせざるをえないところに追い込まれて――そんなことは望ましいわけじゃない。望ましいわけがない。

――だからこそ、少しでも早く『力と交換様式』を書き上げなくてはならなかったということでしょうか。


柄谷 いやいや、まだ足りない。まだ書かねばいかん。Dについても、もっと踏み込んで書かないと。僕は今、新しい本に取り組んでいます。 “力”の問題についてです。ただ、今度の本は、体系的な書き方、理論的に緻密な書き方ではなく、もっと自由でストレートな書き方になると思います。




…………………



騒いでるのは知的に無惨な連中だけだよ


◼️柄谷行人「交換様式論入門」2017年

…問題は、この「力」 (交換価値)がどこから来るのか、ということです。マルクスはそれを、商品に付着する霊的な力として見出した。つまり、物神(フェティシュ)として。このことは、たんに冒頭で述べられた認識にとどまるものではありません。彼は『資本論』で、この商品物神が貨幣物神、資本物神に発展し、社会構成体を全面的に再編成するにいたる歴史的過程をとらえようとしたのです。〔・・・〕『資本論』が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、 物神的、つまり、観念的な力が支配する世界だということです。 〔・・・〕


マルクスはこう述べました。《商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる》(『資本論』第一巻1-2、岩波文庫1,p158)。いいかえれば、交換は、見も知らぬ、あるいは不気味な他者との間でなされる。 それは、他人を強制する「力」、しかも、共同体や国家がもつものとは異なる「力」を必要とします。これもまた、観念的・宗教的なものです。実際、それは「信用」と呼ばれます。マルクスはこのような力を物神と呼びました。《貨幣物神の謎は、商品物神の、目に見えるようになった、眩惑的な謎にすぎない》(『資本論』)。このように、マルクスは商品物神が貨幣物神、さらに資本物神として社会全体を牛耳るようになることを示そうとした。くりかえしていえば、 『資本論』 が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、物神的、つまり、 観念的な力が支配する世界だということです。〔・・・〕

一方、経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです。 






◼️柄谷行人「世界戦争の時代に思う──『帝国の構造』文庫化にあたって」

 『図書』2023年12月号 目次 【巻頭エッセイ】2023.12.04

われわれは今、世界戦争の危機のさなかにある。それはいわば、国家と資本の「魔力」が前景化してきた状態である。このような「力」は、ホッブズが「リヴァイアサン」と呼び、マルクスが「物神」と呼んだような、人間と人間の交換から生じた観念的な力である。いずれも、人間が考案したようなものではない。だから、思い通りにコントロールすることも、廃棄することもできない。


かつてマルクス主義者は、国家の力によって資本物神を抑え込めば、まもなく国家も消滅するだろう、と考えた。ところがそうはいかなかった。結局、国家が強化されたばかりか、資本も存続する結果に終わったのである。以来、マルクス主義も否認され、国家・資本は人間が好んで採用したものであり、今後も適切な舵取りさえすれば人間を利する、と信じられてきた。

現実に、資本も国家も暴威を振るっているのに、人びとは、自分たちの力で何とかできるものだと信じ続けている。そして、AIの発展によって、また宇宙開発のような新奇なビジネスによって、世界を変えることができる、というような「生産様式論」に終始している。しかし、生産様式が変わっても、国家も資本も消えない。現に、今世界戦争が起こっている。私がこのことを予感したのは、ソ連邦崩壊後であった。その時期、「歴史の終焉」が語られたが、私は異議を唱え、二〇世紀の末に「交換様式論」を提起した。『帝国の構造』は、そこから国家の力を解明したものである。




なんたってフェティッシュが分かってないとな



交換において、物は《感覚的でありながら超感覚的な物に転化してしまう》。商品の価値とは、そのとき物に付着した何かである。《これは、労働生産物が商品として生産されると、ただちにそこに付着するものであり、それゆえ商品生産と不可分のものである》。マルクスはそれをフェティッシュ(物神)と呼んだ。


彼がここに見たのは、商品交換において、「人間の頭脳の産物」であるにもかかわらず、「固有の生命」をもち人間を強いる「力」が存在するという事実である。それがマルクスのいうフェティシズムである。彼がそう述べたのは、それをたんに幻想や迷妄として批判するためではなかった。フェティシズムは交換において存在する”超感覚的”な力を指すが、これがなければ、単純な物々交換さえ成り立たないのだ。マルクスがこのとき、18世紀フランスの思想家ド・ブロスが最初に定式化したフェティシズムという概念を持ちこんだのは、その現象を揶揄するためではなかった。交換の問題を太古の段階に遡って見るためである。


マルクスは交換の起源をつぎのような場所に見ていた。《商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる》(『資本論』第一巻第一編第二章)。重要なのは、交換が、共同体の内部ではなく、その外にある共同体との間、つまり、見知らぬ、したがって、不気味な他者との接触において始まるということである。だからこそ、そのような交換は、人々のたんなる同意や約束ではない、強制的な”力”を必要としたのである。それがフェティシズムである。


マルクスの考えでは、貨幣はそのような物神性が発展した形態である。そして、それが資本物神となるにいたる過程を論じたのが『資本論』なのだ。しかし、マルクス主義者は、このようなフェティシズム論に必ず言及するにもかかわらず、それを真面目に検討しなかった。特にルカーチ以後、フェティシズムは、「物象化」の問題としていいかえられるようになった。(柄谷行人『力と交換様式』「序論 上部構造の観念的な『力』」)


マルクスは「資本論」の全構成を、ヘーゲルの「論理学」を忠実にならって組み立てたのである。〔・・・〕この書は、商品物神が貨幣物神、さらに資本物神に転化した過程、さらに株式資本において資本そのものが商品に転化するにいたった全過程を記述しようとしたのだ。


信用という場合、人々はそれを物神だとは思わない。金銀を崇め求めるなら、物神崇拝と見えるだろうが、銀行券や電子マネーとなれば、そうは見えない。しかし、マルクスによれば、信用主義は、「商品の内在的精霊としての貨幣価値に対する信仰」にほかならない。ゆえに「信用」は「物神」に否定ではなく、変形にすぎない。


株式会社とともに〔・・・〕株主と経営者が分離されたのである。〔・・・〕経営者は株主に仕える形をとっているが、実際には、会社の基本的意思決定の大部分は取締役会に委譲されており、〔・・・〕とはいえ、経営者が株主としての資本に支配されることは確かである。平たくいえば株価に左右される。つまり、経営者は何としても資本の増殖を効率的に果たさなければならないのだ。それはもはや個人の願望や意志だけによるものではない。その意味で、資本物神の支配が完成したのは、株式資本においてである。


産業資本が拡大するにつれ、国家の役割は別の形で大きくなった。第1に、産業資本に必要な賃労働者は、〔・・・〕絶えず更新される職種・技術に対応して働くことができなければならない。また、他の者とのコミュニケーションを必要とする。以上のようなことは国家による義務教育・兵役などの規律訓練を通して実現されるのである。(柄谷行人『力と交換様式』第3部  第1章)




知的無惨さから逃れるには、まずはマルクスかラカンを読まないとな



私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年)


対象aの用語が導入されるのは、享楽の断念の機能に関する言説の中でである。言説の影響下でのこの断念の機能としての剰余享楽は、対象aにその場所を与える。


市場と同じように...つまり、市場は人間の労働による何らかの対象を商品として定義する...それぞれの対象がそれ自体の中に何らかの剰余価値を保持するように。したがって、剰余享楽は、対象aの機能を孤立させることを可能にする。

C'est dans le discours sur la fonction de la renonciation à la jouissance que s'introduit le terme de l'objet(a).  Le plus-de-jouir comme fonction de cette renonciation sous l'effet du discours, voilà qui donne sa place à l'objet(a).   

Tel le marché… c'est à savoir à ce qu'il définit quelque  objet du travail humain comme marchandise  …tel chaque objet porte en lui-même quelque chose de  la plus-value, ainsi le plus de jouir est-il ce qui permet l'isolement de la fonction de l'objet(a). (Lacan, S16, 13  Novembre  1968)


装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]〔・・・〕

剰余価値、それはマルクス的快、マルクスの剰余享楽である[ La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

永遠にマルクスに声に耳を傾けるこの貝殻[Lacoquille à entendre à jamais l'écoute de Marx]……この剰余価値は経済が自らの原理を為す欲望の原因である。拡張生産の、飽くことを知らない原理、享楽欠如[manque-à-jouir]の原理である[la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.](Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)


フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」である。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4  Triebverzicht、1939年)

症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している[die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年)


症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。

la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Lacan, S18, 16 Juin 1971)



要するに、フェティッシュ=剰余価値=剰余享楽=快の獲得=代理満足=症状だってよーー《症状なき主体はない[Il n’y a pas de sujet sans symptôme ]》(Lacan, S19, 19 Janvier 1972 )ーー。ま、ふつうはなんのことかわからないよ、だから柄谷曰くでは《経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです》ということになるな、ほとんどの人は。


そもそもあらゆる記号がフェティッシュだって話があるんだが、これまたまったくわかんねえだろうよ。


人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある[pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.]  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)


つまり言語は究極のフェティッシュって話だがね、



しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。

Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant.

(ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)



人はみな日々フェティシストやってんだがな、わかんねえだろうな



ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  ](Christian Hoffmann, Pas de clinique sans sujet, 2012)


自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es.

〔・・・〕

フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt〔・・・〕


幼児の自我は、現実世界の支配の下、抑圧と呼ばれるものによって不快な欲動要求を払い除けようとする。Wir greifen auf die Angabe zurück, dass das kindliche Ich unter der Herrschaft der Real weit unliebsame Triebansprüche durch die sogenannten Verdrängungen erledigt.

我々は今、さらなる主張にてこれを補足しよう。生の同時期のあいだに、自我はしばしば多くの場合、苦しみを与える外部世界から或る要求を払い除けるポジションのなかに自らを見出だす。そして現実からのこの要求の知をもたらす感覚を否認の手段によって影響を与えようとする。この種の否認はとてもしばしば起こり、フェティシストだけではない。

Wir ergänzen sie jetzt durch die weitere Feststellung, dass das* Ich in der gleichen Lebensperiode oft genug in die Lage kommt, sich einer peinlich empfundenen Zumutung der Aussenwelt zu erwehren, was durch die Verleugnung der Wahrnehmungen geschieht, die von diesem Anspruch der Realität Kenntnis geben. Solche Verleugnungen fallen sehr häufig vor, nicht nur bei Fetischisten, (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


で、自我分裂があるように貨幣分裂があるんだがな



不況(Depression、depression)、熱狂(Manie、mania)、さらには解体(Spaltung、splitting)ーー貨幣的な交換に固有な困難のあり方を形容するためにわれわれがもちいたこれらの言葉が、それぞれ鬱病(depression)、躁病(mania)、精神分裂病(schizophrenia = splitting of mind)といった精神病理学的な病名を想いおこさせるのはけっして偶然ではない。精神病理学者の木村敏によれば、躁鬱病とは、自己が自己であるということはあくまでも自明なものとされたうえで、その自己の対社会的な役割同一性が疑問に付されているという事態であり、これにたいして分裂病とは、まさに自己が自己であるということの自明性が疑問に付されてしまう事態であり、自己がそのつど自己自身とならなければならないという個別化の営みの失敗として特徴づけられるという。( 『分裂病の現象学」(弘文堂、一九七五)、『自己・あいだ・時間」(弘文堂、一九八一)、 『時間と自己』(中公新書、一九八二)、 『分裂病と他者』(弘文堂、一九九O)等の一連の著作を参照のこと。)


じっさい、これからわれわれは、不況やインフレ的熱狂とは、貨幣が貨幣であることは前提とされたうえでの、貨幣とほかの商品全体とのあいだの関係において生じる困難であるのにたいして、ハイパー・インフレーションとは、貨幣が貨幣であることの根拠そのものが疑問に付され、その結果として貨幣の媒介によって維持されている商品世界そのものが解体してしまうという事態にほかならないということを論ずるつもりである。すなわち、人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである。(岩井克人『貨幣論』第4章「恐慌論」注16、1993年)


この事態がわかってるのは日本では柄谷行人と岩井克人だけだよ、おそらく今でも。少なくとも最近の若いマルキストはまったくダメだね。




$ ◊ a は幻想の式である[ $ ◊ a formule du fantasme],(Lacan, S10, 05  Décembre  1962)

現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである。[Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet ]  (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982)

我々はフェティッシュの対象を対象aにて示す[l'objet fétiche, nous le représentons par petit a. ](J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


$ ◊ aが穴 ◊ 穴埋め(フェティッシュ)であるのと同じように、貨幣と剰余価値の関係も同じなんだがね。


で、もちろん原主体は享楽の主体だ、ーー《原主体…我々は今日、これを享楽の主体と呼ぶ[sujet primitif…nous l'appellerons aujourd'hui  « sujet de la jouissance »]》(Lacan, S10, 13 Mars 1963)


ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると[Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet](J.-A. Miller, Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre, 2007)

穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $]

A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)

装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]〔・・・〕

剰余価値、それはマルクス的快、マルクスの剰余享楽である[ La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)





菱柄紋 ◊ は厳密には次の形をしている。




これは穴を穴埋めしようとするが埋まらない。つまり永遠の反復強迫運動を示している。フロイトの定義上、菱柄紋 ◊ は死の欲動マークだよ。



われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)

死の欲動は現実界である[La pulsion de mort c'est le Réel  ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)



で、死の欲動の別名は自己破壊欲動だ。

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


柄谷行人の2歳年上のマルクス主義者マイケル・ハドソンはいい線いっている(いくらの不満はないではないが)。

金融資本主義は本質的に自己破壊的である[finance capitalism is intrinsically self-destructive]

(マイケル・ハドソン「金融資本主義の自己破壊的性質」Finance Capitalism's Self-Destructive Nature By Michael Hudson July 18, 2022)



つまり主体$も貨幣も死の欲動の審級にある。主体の穴の別名は主体の無。ーー《神秘的な無からの創造、穴からの創造[le créateur mythique ex nihilo, à partir du trou.]》 (Lacan,  S7,  27 Janvier  1960)


そしてーー、


貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。(岩井克人『貨幣論』第三章 貨幣系譜論   25節「貨幣の系譜と記号論批判」1993年)

単一体系で考える限り、貨幣は体系に体系性を与える 「無」にすぎない。しかし、異なる価値体系があるとき、貨幣はその間での交換から剰余価値を得る資本に転化するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第3章「価値形態と剰余価値」2001年)



・・・とはいえ、こういうことを記してムダなんだよな、《知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれている》みなさんには。だから最近メゲてるんだよ、ムダなこと記してもしょうがないからな。巷間に流通する言説のアホらしさを少し突っ込んで批判しようとすると「お前、やめとけ」という声が聞こえてくるんだ。