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2025年5月16日金曜日

柄谷行人の「交換様式」語りの列挙

 

直近のインタビューで柄谷行人は「交換様式」をめぐってとてもわかりやすく語っている。


◼️『世界史の構造』 広げた大風呂敷 交換様式を通じて見えてくること:私の謎 柄谷行人回想録㉖ 2025.05.13





柄谷 僕はいわゆるマルクス主義者ではない。マルクス主義のスタンダードである生産様式論を支持したことがない。しかし、『資本論』の著者としてのマルクスは、交換様式論の生みの親だし、『資本論』にはまだまだいろいろな可能性がある。『資本論』以外にはありません。


 あらためていうと、交換様式論は、“交換”という観点から社会を把握する理論です。僕はこれを、マルクス主義理論の本質だとされている生産様式論に代わるものとして着想しました。実は、生産様式論は、マルクス主義だけのものではなくて、世間一般にも浸透しているんです。もちろん、その起源は完全に忘れられているけど。


――どういうことでしょうか。


柄谷 通俗化した生産様式論の例を挙げましょう。たとえば、AIや宇宙開発などの新しい技術――これは生産力の発展です――が根本的に世界を変えるという、昨今しきりと議論されている考えがそれです。SNSが新しい共同性を築く、といった考えもそうです。これらは生産様式論の観点に立つ発想なんです。生産様式が変わることで社会の様相や個人の生活が大きく変わることは、疑いようのない事実ではありますよ。しかし、生産様式がいくら変わろうとも交換様式は変わらないんです。そのことが、完全に見逃されています。資本主義経済(C)と国家(B)という支配的な交換様式は、AIがいくら浸透しても全く揺らぎませんから。


 ついでに言うと、現代社会においてはモノではなく情報が主流の商品になっているから、『資本論』では現実をとらえられなくなっている、というようなことがよく主張されています。しかし、情報であろうとAIであろうと、それらは資本蓄積にとって都合のよい新たな「差異」であるにすぎない。だから、完全に『資本論』の議論の想定内です。戦争や格差をはじめとする問題を打破するためには、生産様式ではなく交換様式を見なければらちがあきません。


――マルクス主義が崩壊した後、各国で勢力を伸ばしたのは社会民主主義でした。今もこれに希望を見出す人が多いと思いますが、柄谷さんは一貫して否定的ですね。


柄谷 社会民主主義は、議会政治を通じて社会的な平等や公正を実現しようというもので、それなりに成功をおさめたように見えます。しかし、ここには国家と資本への批判がない。だから、経済と政情が安定しているときにはよくても、危機になったらすぐに国家主義とか排外主義に走ることになる。最近のドイツや北欧にも、そういう傾向が出てきましたよね。


――なるほど。国家の恐ろしさへの認識が不十分だという点では、社会民主主義もマルクス主義と同じではないか、と。


柄谷 資本と国家の恐ろしさについては、誰も考えていませんね。ほとんどの人は、その範囲内でやっていくことしか考えていなくて、それを超えるなんていう発想は嫌いなのでしょう。マルクス主義者も、国家権力をとって資本主義を制御すれば、自然と国家もなくなると考えた。だけど、そんなわけはない。彼らの国家認識の甘さは、国家を、生産様式という経済的下部構造の上部構造として見たことに発している。そうしたマルクス主義の問題を是正するためには、マルクス自身が『資本論』で見出した、交換から来る力を見るしかないと思った。交換様式にしか可能性がない、と。





以下、同じ一連のインタビュー記事から遡及的に『トランスクリティーク』、『力と交換様式』においての交換様式語りを掲げておこう。




◼️トランスクリティーク 移動しながらの批評の先に見いだしたもの:私の謎 柄谷行人回想録㉔ 2025.03.12

――カント的に言い換えれば、マルクスが相手にしたのは、物自体としての商品ではなく、現象界の商品同士の関係性だった、と書かれています。一方で、資本主義的な商品交換とは異なる交換の原理がある。例えば、共同体の中では、贈りものとお返しという交換があると。


柄谷 交換様式Aですね。これは互酬交換なので、相互扶助的ですが、お返しをしなければ村八分にされるかもしれないので、ここには強制力と排他性があります。原始社会や農村共同体では、これが主要な交換の形態でした。


交換様式Bは、国家に代表される交換の形態です。国家は、国民から収奪してそれを再分配するという交換原理に基づいている。より多くを効率的に安定的に収奪するために、国民を保護し、公共事業をやる。専制国家、封建的国家の頃には、これが主要な交換の形態でした。


近代以降は、商品交換C―お金と商品の交換-が高度に発達した資本主義社会になりましたが、交換様式AとBも依然として健在です。交換様式Aは贈与と返礼に基づくナショナリズム(ネーション)、交換様式Bは収奪と再分配に基づく国家として、極めて大きな力を持ち続けている。近代社会は、ABCが、相互的に補完し合い、補強し合うような体制によって成り立っています。僕はそれを、資本=ネーション=国家と呼んできました。


――『トランスクリティーク』の時点では、異なる交換形態を、まだA、B、Cと名付けていませんよね。


柄谷 そうですね。でも、名前がなかっただけで、アイディアは同じですよね。


柄谷 少し具体的に説明すると、資本主義的な自由経済は、格差を生みますよね。そうすると、国民同士お互いに助け合うべきだという発想(A)から、国家機構(B)によって富の再分配が行われます。経済(C)の問題を、ナショナリズム(A)と国家(B)が補い合っている、これが現代社会を支配する体制です。


――それだけ聞くと、悪いことでもなさそうですけども。


柄谷 しかし、資本主義(C)は必然的に恐慌を引き起こします。国家(B)も、常に他の国家との潜在的争いの中に置かれている。ナショナリズム(A)も、ファシズムに向かう危険を孕んでいる。どう転んでも、行き着くところは戦争です。戦争までをも調整の機能として生き残ってきたのが、資本=ネーション=国家なのです。こんなものは終わりにしないといけない。


では、どうすればいいか。『トランスクリティーク』で、僕は、アソシエーションに活路を見出しました。社会主義とか共産主義という言葉には手垢がついていて、偏見をもたれているでしょう。そういう言葉を使うと誤解を呼んで面倒だから、アソシエーションという言葉を採用しました。アソシエーションは、ABCを超える交換です。僕はそれをXと名付けました。Xは、一種のAなんですが、ナショナリズムとは違います。ナショナリズムはBCと親和的ですが、アソシエーションはBCを斥ける。そういうタイプのAですね。僕は、高次元のAと呼んでいます。相互扶助的だけれど、Aにあるような拘束性や排他性がないような交換関係だから。これは、いまだ存在したことがない形態です。Xについては、あとから交換様式Dと呼ぶようになったけれど、どちらも同じです。






◼️理論的な行き詰まりで神秘主義に接近 タイガーマスクで近所を歩き回った:私の謎 柄谷行人回想録⑰ 2024.08.06

――柄谷さんが言ってきたような、ネーション(交換様式A)、国家(B)、資本(C)の結合体を維持したままでは、世界戦争に至るということですね。そこで、新たな交換様式Dを考える必要がある、と。


柄谷 そうです。僕はサイードのように、霊的なものについては考えない、そこに現実性を認めない、ということはできない。 “あの世”とか“霊”とか言うと、いかがわしいと思われるでしょ。現実逃避だとか、オカルト的だとか。事実、そういう場合も多い。だけど、現に霊的な力が働いているんだから、しょうがない。むしろ、その力を見なければ現実を理解できない。だから、 “霊の力”としか言いようがないものについては、はっきりそう言うことにしたんです。


書き終わった頃に、ロシアとウクライナの問題が起きて、去年からはパレスチナも大変なことになっている。中国や台湾の問題もある。もういっぺんに出てきたでしょう。世界中どこもまともじゃない。こんなに脆いものだったのか、っていうのは、やっぱりすごく思いますよね。

他方で、僕は交換様式を考えるなかで、こうなることは分かってもいた。このまま資本-ネーション-国家の体制でやっていたら、地球環境ひとつとっても、持つわけない。いろいろな人がひっきりなしに、さまざまなオルタナティブや新しいヴィジョンを提唱しているけれど、僕から見たら全然オルタナティブじゃない。資本-ネーション-国家の永遠性を当然のこととしたうえで、その範囲でできることをやろうとしているだけだよ。もしくは、その中にいることにすら気づかないで、勝手に都合のいい世界を空想しているだけ。本当のオルタナティブは、むしろ世界戦争によって出てくるかもしれないけど――要するにそうせざるをえないところに追い込まれて――そんなことは望ましいわけじゃない。望ましいわけがない。


――だからこそ、少しでも早く『力と交換様式』を書き上げなくてはならなかったということでしょうか。


柄谷 いやいや、まだ足りない。まだ書かねばいかん。Dについても、もっと踏み込んで書かないと。僕は今、新しい本に取り組んでいます。 “力”の問題についてです。ただ、今度の本は、体系的な書き方、理論的に緻密な書き方ではなく、もっと自由でストレートな書き方になると思います。







◼️柄谷行人さん『力と交換様式』インタビュー 絶望の先にある「希望」 2022.10.25

なぜ「交換様式」なのか


 資本=ネーション=国家を超えた未来はあり得るのか。まず、柄谷さんがその可能性をまとまった形で考察したのが、2001年の『トランスクリティーク』だ。カントとマルクスの読解を通じて、交換の観点から社会をみるというアイデアを示した。その後、9・11以降の世界の分断を受けて、その考察を練り直し、〈交換様式〉として2010年の『世界史の構造』で全面的に展開され、体系的理論となる。


 〈交換様式〉は、柄谷さんが編み出した独自の概念だ。社会のシステムを交換から見ることで、四つの交換様式を見いだした。その四つは、A=贈与と返礼の互酬、B=支配と保護による略取と再分配、C=貨幣と商品による商品交換。Dは、Aを高次元で回復したもので、自由と平等を担保した未来社会の原理として掲げられている。歴史上にあるDは様々な形を取るため、柄谷さんは〈X〉と呼んできた。


 四つの交換様式は同時に存在していて、どの交換様式が支配的かによって、社会のありようが決まってくる、と説く。Aならば氏族社会、Bであれば国家、Cの場合は資本制社会が、その代表例だ。Dが支配的な社会はいまだに存在していないという。


 そもそも交換様式という考えはどのように生まれたのか。柄谷さんは、ソ連崩壊によって〈マルクス主義〉が否定されても、マルクスや主著『資本論』は「終わっていない」と考えた。


 「いわゆるマルクス主義では、国家やネーション(民族)といった上部構造は、経済的下部構造(生産力と生産関係)によって規定されている、という考えが支配的ですが、それだけでは説明できないことが多い」


 「そのため、マックス・ウェーバーは、近代の産業資本主義を生んだのはプロテスタンティズムであるとし、宗教的な上部構造の自立的な力を強調した。また、フロイトは、経済的下部構造ではなく、心理的な上部構造に、人間を動かす無意識の働きを見ようとした。それ以来、観念的、イデオロギー的な上部構造を重視する考えが強くなったといえます」


 「一方、マルクス主義者も、エンゲルスがいっているように、別に〈経済決定論〉を唱えたわけではない。したがって、現在では、経済的なものだけでなく、イデオロギー的宗教的なものを総合的に見るべきだという考えになっています。しかし、私はそこで済ませたくなかった」


 柄谷さんは、「経済的な下部構造が上部構造を決定するという考えに反対ではない」という。「ただし、経済的下部構造には、生産様式だけではなく、交換様式がある。そして、生産様式を超えるような力は、交換様式からくるのです


 「マルクスが『資本論』で注目したのは、交換様式です。そして、それがもたらす物神的な力です。そう考えたマルクスが参照したのは『リヴァイアサン』で、国家という怪獣について論じたホッブズです」


 「国家には力がありますが、それが武力によると思ってはいけない。武力があっても、国家は続かない。国家が存続するためには、武力ではない何か別の力が必要です。そのことを見抜いた人が、ホッブズです。ホッブズが洞察したのは、国家の〈力〉が、それに従えば保護されるという〈交換〉によって成り立つということです


 「同様にマルクスは、貨幣の力が、商品の交換に根ざすことを見た。『資本論』で交換様式という観点を取ったとき、すでにマルクスは、ウェーバーやフロイトが気づいていたにもかかわらず、それを宗教や無意識に求めた問題を、交換、すなわち、広い意味で〈経済的〉な観点から説明できると思っていたわけです」

 しかし、このような考えは、その後無視されるにいたった。そして、柄谷さんは、交換様式という視点から、2010年に『世界史の構造』を書き上げた。


「再考」して見いだした交換の「霊的な力」


 柄谷さんは「『世界史の構造』を書いたとき、これで最後だ、もう言うことはない、と思った」と話す。実際、その後の著作『哲学の起源』や『帝国の構造』は、補足として書いたものだという。そして、2015~16年に、雑誌「atプラス」で「Dの研究」を連載した。


 「一番説明するのが難しい『D』について書いているうちに、A、B、Cについてももう一度考える必要を感じたのです」


 本書では、「再考」という言葉が度々登場する。


 「考えるということは、再考するということですよ(笑)。そうすると、同じ問題が違って見えてくる」


 「今度の本で注目したのは、交換様式が観念的な力をもたらすということです。それが顕著なのは交換様式Dです。それは、観念的なあるいは霊的な問題、つまり宗教的な次元にみえます。だから、だから他の交換様式とは違う、ということになる。しかし、どの交換様式も霊的な力をもつのです。ただA・B・Cの場合は、その力が霊的なものとは見なされない。私はそれらがもつ霊的な力について考えた」


 〈霊的〉というと科学的でないという反論が浮かぶ。しかし、柄谷さんは、「磁力も17世紀半ばまでは実在の力とは見なされなかった」と指摘し、「科学的な態度とは、たんに霊を斥けるのではなく、霊として見られるほかないような『力』の存在を承認した上で、その謎を解明すること」だと説く。


 「交換が〈霊的・観念的な力〉をもたらすということは、もともとマルクスが『資本論』で考えたことです。そこでは、貨幣・資本の力が、交換から生じる〈物神的な力〉だということを示していました


 商品は、交換されることで初めて商品としての価値を持つ。マルクスはそれを「命がけの飛躍」と呼んだ。


 「ところが、ルカーチに代表されるマルクス主義者は、物神という考えを単なる冗談として扱った。今もそうみなしています。それが交換様式Cから来る、観念的な力だということを見なかった」


 ところが、後に、同じような事態が、交換様式Aに関しても起きたという。 


 「マルクスの死後、交換様式Aから生じる観念的な力に注目した人物がいます。人類学者マルセル・モースです。彼が未開社会に見いだしたのは、Aがもたらす〈霊的な力〉です。例えば、贈与された者は返礼しなくてはならない。贈与と返礼を強いているのは、物に付着した霊的な力だとモースは言う


 「しかし、霊的などと言うと、科学者からバカにされるから難しい。モースもそう言ったため、彼を称賛したレヴィ=ストロースなどにも批判された。しかし、モースは、他に言いようがないからそう言ったのです」


 交換様式Bについても、柄谷さんはホッブズが用いた「リヴァイアサン」という怪物の比喩が、単なる比喩に留まらないという着眼点から論を深めていく。


 「国家に従えば保護されるという交換がないと、国家の力自体が終わってしまう。ホッブズが面白いのは、その力を海の怪獣リヴァイアサンと呼んだことです。普通の力じゃない。物理的に力がないように見えても、ものすごい力を持つわけです。


 「その意味で、貨幣も国家も、異なる交換様式から生じた観念的な力としてとらえることができます。さらにネーション(民族)についても同様のことがいえます。それはベネディクト・アンダーソンのいう〈想像の共同体〉ですから。つまり、Aの低次元での回復です」


資本=ネーション=国家を超えるもの


 柄谷さんは『世界史の構造』で、資本、国家、ネーションが、それぞれ異なる交換様式C、B、Aによってもたらされる力によって支えられている、ということを明らかにした。それをさらに根本的に再考することが今作の課題であったといえる。


 「重要なのは、これらの〈霊〉たちを一掃する力をもたらすものがある、ということなのです。それが交換様式Dです。そこに資本・ネーション・国家を揚棄する力が生じる。そうでないと、資本=ネーション=国家、すなわちA・B・Cの連合体が永続するでしょう」


 交換様式論の最大の特色は、Dという第4の交換様式を置いたことだろう。ただ、A・B・Cに比べて、Dはイメージがわきづらい。多くの読者を戸惑わせると同時に引きつけてきた。


 今作でもDについて考えることについて、「一番つまずいた」と明かし、「もう頭が働かない」と苦笑いする。そこで、柄谷さんは長年親しんできたお酒をやめた。


 「禁酒しても別に頭は働きませんよ(笑)。だけど、違うものが出てきた。例えば、マルクスに関しても、以前とは違う態度になりました。乗り越えるとかではなくて、彼の別の可能性を読むという感じになった」


 特に晩年のマルクスが、モルガンの『古代社会』の研究に打ち込んだことに着目した。


 「それは、まだ階級社会以前のAが支配的な段階です。晩年のマルクスは、未来の共産主義を、『古代氏族の自由、平等および友愛のより高度な形態における復活』とする考え方に共感していた。私の言い方で言えば、Aの高次元での回復がDだということになります」


 一方で、それまで否定的に見ていた「エンゲルスの可能性も見つけた」という。


 「私だけではないが、マルクスを再評価するためにエンゲルスを悪者にするということがよくありました。でも、今回は違います。たとえば彼は、最晩年、原始キリスト教の起源の問題に取り組んだ。これは、いわゆる史的唯物論とは違う仕事で、交換様式Dにつながるものです」


人間の意志を超えた「D」の到来


 ただし、『力と交換様式』で強調されるのは、Dは人間の意志で作り出すことは出来ないということだ。

 「交換様式C・B・Aの揚棄を可能にするのは、ただ一つ、交換様式Dが到来することです。とはいえ、それがいつ、いかにして来るかはわからない。それは、われわれの意志を越えています


 たとえば、国家(B)の力にもとづいて社会を変えれば、結局国家が残る。では、国家に依拠することなく、私たちにできることはないのか。柄谷さんは、「それは、不可能ではない」という。「それは、意識的に交換様式Aを追求することです。ただし、それは、BやCの力に阻まれてローカルに留まります。が、それでいいのです。AがDをもたらすと考えてはいけない」


 実践としてのAの一つがアソシエーションだ。協同組合のように、特定の興味や目的で結びついた社会組織を指す。かつて、柄谷さんは2000年から約2年半にわたって社会運動体「NAM(ニュー・アソシエーショニスト・ムーブメント)」を続け、その後も原発反対のデモなど様々な形で実践してきた。最近では、国葬に反対するデモにも参加した。


 「Aの運動は、自発的なものです。誰かが指揮したり強制したりして成り立つものではない。自然発生的なものです。実際、日本でも、コロナの拡大と並行して、Aの運動が、自然発生的に拡大しているように思う」。たとえば、これまで、人が都市に出て行ったため荒廃した農村部に、逆に都市から人が入ってきて農業をするという現象が各地に見られる。「その場合、それは、従来の村落共同体に戻ることにはなりません。もとからいる人が、外から入ってきた人と一緒に、新しい農業をやるような体制ができつつある。そこから新しい共同体が生まれるのではないかという予感がします。その場合、誰かが導いてそうなるわけじゃない。しかし、今までできなかったことが自然にできるようになる。それと同じようなことが、Dについてもいえます」


絶望的な未来にある「希望」


 Dによる社会がいつ到来するともしれないまま、世界は危機の中にある。柄谷さんは、Dの一つの表現として、マルクス主義思想家エルンスト・ブロッホの〈希望〉という概念を挙げている。それは、資本と国家を揚棄する可能性を指すもので、「中断され、おしとどめられている未来の道」の回帰だという。


 「これは本来キリスト教の観念だと思う。だけど、彼はそれをキリスト教としては言わない。しかし、それではよくわからない。私が考えたのは、それを交換様式の観点から説明することです」


 柄谷さんの考えでは、「未来の道」はブロッホのいう「未だ-意識されないもの」がもたらすものだ。こうしたDの可能性は、原始キリスト教や初期の仏教、あるいは共産主義の構想などとして、抑圧されても繰り返し歴史のなかでよみがえってきた。


 今後において、国家(B)と資本(C)が必然的にもたらす危機は繰り返しやってくる。しかし、それゆえにAの回帰としてのDは必ず到来する、というのが柄谷さんの認識だ。「〈希望〉がまだあります。絶望的な未来においてこそ




ひとつだけコメントしておくなら、上に「私の言い方で言えば、Aの高次元での回復がDだということになります」とあるが、これはマルクス自身の表現である。



マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれば、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』英語版序文 2020年)

社会の崩壊は、唯一の最終目標が富であるような歴史的な来歴の終結として、私たちの前に迫っている。なぜなら、そのような来歴にはそれ自体が破壊される要素が含まれているからだ。政治における民主主義、社会における友愛、権利の平等、普遍的な教育は、経験、理性、科学が着実に取り組んでいる、社会の次のより高い段階を発足させるだろう。それは氏族社会の自由・平等・友愛のーーより高次元でのーー回復となるだろう。

Die Auflösung der Gesellschaft steht drohend vor uns als Abschluss einer geschichtlichen Laufbahn, deren einziges Endziel der Reichtum ist; denn eine solche Laufbahn enthält die Elemente ihrer eignen Vernichtung. Demokratie in der Verwaltung, Brüderlichkeit in der Gesellschaft, Gleichheit der Rechte, allgemeine Erziehung werden die nächste höhere Stufe der Gesellschaft einweihen, zu der Erfahrung, Vernunft und Wissenschaft stetig hinarbeiten. Sie wird eine Wiederbelebung sein – aber in höherer Form – der Freiheit, Gleichheit und Brüderlichkeit der alten Gentes.

ーーマルクス『民族学ノート』Marx, Ethnologische Notizbücher.  (1880/81)




そして最後に『世界史の構造』注釈としてある「交換様式入門」から。これはPDFで以前アップされていたが現在はリンク切れとなっている。



◼️柄谷行人「交換様式論入門」2017年

……問題は、この「力」 (交換価値)がどこから来るのか、ということです。マルクスはそれを、商品に付着する霊的な力として見出した。つまり、物神(フェティシュ)として。このことは、たんに冒頭で述べられた認識にとどまるものではありません。彼は『資本論』で、この商品物神が貨幣物神、資本物神に発展し、社会構成体を全面的に再編成するにいたる歴史的過程をとらえようとしたのです。〔・・・〕『資本論』が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、 物神的、つまり、観念的な力が支配する世界だということです。 〔・・・〕


マルクスはこう述べました。《商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる》(『資本論』第一巻1-2、岩波文庫1,p158)。いいかえれば、交換は、見も知らぬ、あるいは不気味な他者との間でなされる。 それは、他人を強制する「力」、しかも、共同体や国家がもつものとは異なる「力」を必要とします。これもまた、観念的・宗教的なものです。実際、それは「信用」と呼ばれます。マルクスはこのような力を物神と呼びました。《貨幣物神の謎は、商品物神の、目に見えるようになった、眩惑的な謎にすぎない》(『資本論』)。このように、マルクスは商品物神が貨幣物神、さらに資本物神として社会全体を牛耳るようになることを示そうとした。くりかえしていえば、 『資本論』 が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、物神的、つまり、 観念的な力が支配する世界だということです。〔・・・〕


一方、経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです。 







以上、柄谷行人の思考に疎い人でも、これらを読めば、柄谷が何を考えているかが大雑把には」把握できる筈である。



なお共産主義としてのDの回復は普遍宗教の回復ーー世界宗教ではないーーでもある。



共産主義とは『古代社会』にあった交換様式Aの高次元での回復である。すなわち、交換様式Dの出現である。〔・・・〕

Dの出現は、一度だけでなく、幾度もくりかえされる。それは多くの場合、普遍宗教の始祖に帰れというかたちをとる。たとえば、千年王国やさまざまな異端の運動がそうである。しかし、産業資本主義が発達した社会段階では、Dがもたらす運動は外見上宗教性を失った。社会主義の運動も、プルードンやマルクス以後「科学的社会主義」とみなされるようになった。が、それも根本的に交換様式Dをめざすものであり、その意味で普遍宗教の性格を保持しているのである。とはいえDは、それとして意識的に取り出せるものではない。「神の国」がそうであるように、「ここにある、あそこにある」といえるようなものではない。また、それは人間の意識的な企画によって実現されるものでもない。それは、いわば、”向こうから来る” ものなのだ。 (柄谷行人『力と交換様式』2022年)



◼️柄谷行人「普遍宗教は甦る」2016年

D=普遍宗教は、自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指します。ですから、Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗します。つまり、AとBを批判し、否定します。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらすCを批判し、否定します。これこそが、D=普遍宗教は「A・B・Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味です。


キリスト教、イスラム教、仏教などは当初、このような「普遍宗教」として出現したと考えられます。

これらの普遍宗教は、当初は弾圧されましたが、いずれも世界帝国の宗教、すなわち「世界宗教」となりました。キリスト教はローマ帝国で、イスラム教はイスラム帝国で、仏教は唐王朝で、「国教」となりました。

しかし、普遍宗教は「国教」になると、これまで批判してきたはずの王=祭司を頂点とする国家体制の支配の道具に成り果てました。普遍宗教は世界宗教となることで、「堕落」したのです。


つまり柄谷の思考の下では、世界宗教は国家Bの交換様式ーー略取と再分配ーーの支配下にある宗教ということになる。


続き▶︎柄谷行人の「普遍宗教の回帰」