このブログを検索

2025年5月17日土曜日

柄谷行人の「普遍宗教の回帰」


 前回、最後に引用した文から始めよう。


共産主義とは『古代社会』にあった交換様式Aの高次元での回復である。すなわち、交換様式Dの出現である。〔・・・〕

Dの出現は、一度だけでなく、幾度もくりかえされる。それは多くの場合、普遍宗教の始祖に帰れというかたちをとる。たとえば、千年王国やさまざまな異端の運動がそうである。しかし、産業資本主義が発達した社会段階では、Dがもたらす運動は外見上宗教性を失った。社会主義の運動も、プルードンやマルクス以後「科学的社会主義」とみなされるようになった。が、それも根本的に交換様式Dをめざすものであり、その意味で普遍宗教の性格を保持しているのである。とはいえDは、それとして意識的に取り出せるものではない。「神の国」がそうであるように、「ここにある、あそこにある」といえるようなものではない。また、それは人間の意識的な企画によって実現されるものでもない。それは、いわば、”向こうから来る” ものなのだ。 (柄谷行人『力と交換様式』2022年)


D=普遍宗教は、自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指します。ですから、Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗します。つまり、AとBを批判し、否定します。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらすCを批判し、否定します。これこそが、D=普遍宗教は「A・B・Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味です。


キリスト教、イスラム教、仏教などは当初、このような「普遍宗教」として出現したと考えられます。

これらの普遍宗教は、当初は弾圧されましたが、いずれも世界帝国の宗教、すなわち「世界宗教」となりました。キリスト教はローマ帝国で、イスラム教はイスラム帝国で、仏教は唐王朝で、「国教」となりました。

しかし、普遍宗教は「国教」になると、これまで批判してきたはずの王=祭司を頂点とする国家体制の支配の道具に成り果てました。普遍宗教は世界宗教となることで、「堕落」したのです。(柄谷行人「普遍宗教は甦る」2016年)



柄谷行人の交換様式Dの回帰(回復)は、一般には共産主義の回帰というよりも普遍宗教の回帰と捉えるほうが馴染みやすいのではないか。《社会主義とか共産主義という言葉には手垢がついていて、偏見をもたれている》(私の謎 柄谷行人回想録㉔ 2025.03.12から。


柄谷行人は既に2009年の段階でも「普遍宗教の回帰」としての「抑圧されたものの回帰」を語っている。


普遍宗教はそれぞれ各地の世界帝国の下で、「抑圧されたものの回帰」として出現したのである。

交換様式という観点からいえば、普遍宗教は交換様式BとCが支配的である世界帝国の下で、それによって抑圧された交換様式Aが高次の次元で回帰したもの、すなわち、交換様式Dである。(柄谷行人「第三回長池講義 要綱」2009/3/28


この流れのなかでの『世界史の構造』での次の記述である。


交換様式Dは、原初的な交換様式A(互酬性)の高次元における回復である。それは、たんに人々の願望や観念によるのではなく、フロイトがいう「抑圧されたものの回帰」として必然的である[mode of exchange D is the return in a higher dimension of the primal mode of exchange A (reciprocity). This comes about not as a result of people's desires or ideas, but rather is inevitable, like Freud's “returned of the repressed.”](柄谷行人『世界史の構造』序章、2010年ーー英訳しか手元にないので私訳)



交換様式Dの回帰がフロイトの「抑圧されたものの回帰」といかに結びつくかを捉えるためにも普遍宗教を介在させたほうがよく理解できる。


フロイトの『モーセと一神教』には宗教現象について次のようにある。


宗教現象は人類が構成する家族の太古時代に起こり遥か昔に忘れられた重大な出来事の回帰としてのみ理解されうる。そして、宗教現象はその強迫的特性をまさにこのような根源から得ているのであり、それゆえ、歴史的真実に則した宗教現象の内実の力が人間にかくも強く働きかけてくる[als Wiederkehren von längst vergessenen, bedeutsamen Vorgängen in der Urgeschichte der menschlichen Familie, daß sie ihren zwanghaften Charakter eben diesem Ursprung verdanken und also kraft ihres Gehalts an historischer Wahrheit auf die Menschen wirken. ](フロイト『モーセと一神教』3.1b  Vorbemerkung II )

先史時代に関する我々の説明を全体として信用できるものとして受け入れるならば、宗教的教義や儀式には二種類の要素が認められる。一方は、古い家族の歴史への固着とその残存であり、もう一方は、過去の回復(過去の回帰)、長い間隔をおいての忘れられたものの回帰である。

Nimmt man unsere Darstellung der Urgeschichte als im ganzen glaubwürdig an, so erkennt man in den religiösen Lehren und Riten zweierlei Elemente: einerseits Fixierungen an die alte Familiengeschichte und Überlebsel derselben, anderseits Wiederherstellungen des Vergangenen, Wiederkehren des Vergessenen nach langen Intervallen.   (フロイト『モーセと一神教』3.1.4  Anwendung)


強迫的特性 [zwanghaften Charakter]、古い家族の歴史への固着[Fixierungen an die alte Familiengeschichte ]、過去の回復[Wiederherstellungen des Vergangenen]、忘れられたものの回帰[Wiederkehren des Vergessenen]とあるのに注目しよう。


そしてこの忘れられたものの回帰が抑圧されたものの回帰である。

忘れられたものは消去されず「抑圧された」だけである[Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)




ここで、《古い家族の歴史への固着[Fixierungen an die alte Familiengeschichte ]》にもういくらか踏み込んでみよう。フロイトにとって抑圧の第一段階は固着であり、この抑圧されたものの回帰は固着点への退行である。

抑圧の第一段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である。

固着は次のように説明できる。ある欲動または欲動的要素が、予想された正常な発達経路をたどることができず、その発達が制止された結果、より幼児期の段階に置き残される。問題のリビドーの流れは、その後の心的構造との関係で、無意識体系に属するもの、抑圧されたもののように振舞う。〔・・・〕


……抑圧の失敗、侵入、抑圧されたものの回帰 。この侵入は固着点から始まる。そしてリビドー的展開の固着点への退行を意味する。

Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. 

Die Tatsache der Fixierung kann dahin ausgesprochen werden, daß ein Trieb oder Triebanteil die als normal vorhergesehene Entwicklung nicht mitmacht und infolge dieser Entwicklungshemmung in einem infantileren Stadium verbleibt. Die betreffende libidinöse Strömung verhält sich zu den späteren psychischen Bildungen wie eine dem System des Unbewußten angehörige, wie eine verdrängte.(…) 


des Mißlingens der Verdrängung, des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen. Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle( Stelle der Fixierung ) zum Inhalte. 

(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年)


フロイトは次のようにも言っている。

固着と退行は互いに独立していないと考えるのが妥当である。発達の過程での固着が強ければ強いほど、固着への退行がある[Es liegt uns nahe anzunehmen, daß Fixierung und Regression nicht unabhängig voneinander sind. Je stärker die Fixierungen auf dem Entwicklungsweg, …Regression bis zu jenen Fixierungen ](フロイト『精神分析入門」第22講、1917年)

過去の固着への退行 [Regression zu alten Fixierungen]  (フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)

退行、すなわち以前の発達段階への回帰[eine Regression, eine Rückkehr zu einer früheren Entwicklungsphase hervorrufen. ](フロイト『性理論』第3篇1905年)


すなわちフロイトにとって抑圧されたものの回帰の原点は、臨床的には、過去の固着への退行(以前の発達段階への回帰)なのである。それを最晩年の『モーセと一神教』で宗教現象に適用したのである、「家族の古い歴史への固着」と「過去の回復」と。つまり「家族の古い歴史への固着」への退行が、抑圧されたものの回帰である。


柄谷がしばしば語る交換様式Dの回帰が”向こうから来る”というのもーー多くの読者に違和感を抱かせているようだがーー事実上フロイトにある。先の固着点への退行の記述がある『症例シュレーバー』には次のようにある。

内部で止揚されたものは、外部から回帰する[daß das innerlich Aufgehobene von außen wiederkehrt. ](フロイト『症例シュレーバー 』第3章、1911年)


この《外部から回帰する》こそ、”向こうから来る”にほかならない。


……………

※注


今、「止揚」と訳した“Aufgehobene”は、ヘーゲル用語で名高いアウフヘーベン(aufheben)の過去分詞であり、アウフヘーベンは「揚棄」とも訳されてきた。この語は次の意味内容をもっている。

止揚は真に二重の意味を示す。それは「否定する」と同時に「保存する」の意味である[Das Aufheben stellt seine wahrhafte gedoppelte Bedeutung dar, (…)  es ist ein Negieren und ein Aufbewahren zugleich; (ヘーゲル『精神現象学 Phänomenologie des Geistes』1807年)

否定は抑圧されているものを認知する一つの方法であり、本来は抑圧の解除=止揚Aufhebungを意味しているが、それは勿論、抑圧されているものの承認ではない。[Die Verneinung ist eine Art, das Verdrängte zur Kenntnis zu nehmen, eigentlich schon eine Aufhebung der Verdrängung, aber freilich keine Annahme des Verdrängten.](フロイト『否定Verneinung』1925年)


……………


さて、もちろん問いは、フロイトが措定したように、人間個人の発達段階の歴史と同じように、人類の歴史においてもこの「共同体の古い歴史への固着」への退行(回帰)が起こるかだが。とはいえ負の側面では、現在、ヨーロッパで「ナチスの回帰」が起こっているのは紛いようがない。あれこそ「欧州共同体の古い歴史への固着」への退行だろう。



欧州共同体における「ナチスの回帰」は、柄谷曰くの《Aの ”低次元での” 回復》であるだろう。


ネーションを形成したのは、二つの動因である。一つは、中世以来の農村が解体されたために失われた共同体を想像的に回復しようとすることである。もう一つは、絶対王政の下で臣民とされていた人々が、その状態を脱して主体として自立したことである。しかし、実際は、それによって彼らは自発的に国家に従属したのである。1848年革命が歴史的に重要なのは、その時点で、資本=ネーション=国家が各地に出現したからだ。さらに、そのあと、資本=ネーション=国家と他の資本=ネーション=国家が衝突するケースが見られるようになる。その最初が、普仏戦争である。私の考えでは、これが世界史において最初の帝国主義戦争である。そのとき、資本・国家だけでなく、ネーションが重要な役割を果たすようになった。交換様式でいえば、ネーションは、Aの ”低次元での” 回復である。ゆえに、それは、国家(B)・資本(C)と共存すると同時に、それらの抗する何かをもっている。政治的にそれを活用したのが、イタリアのファシズムやドイツのナチズムであった。今日では、概してポピュリズムと呼ばれるものに、それが残っている。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)


他方、柄谷=マルクスの思考の下では、普遍宗教の回帰、共産主義の回帰が《Aの ”高次元での” 回復》となる。

マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれば、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』英語版序文 2020年)

社会の崩壊は、唯一の最終目標が富であるような歴史的な来歴の終結として、私たちの前に迫っている。なぜなら、そのような来歴にはそれ自体が破壊される要素が含まれているからだ。政治における民主主義、社会における友愛、権利の平等、普遍的な教育は、経験、理性、科学が着実に取り組んでいる、社会の次のより高い段階を発足させるだろう。それは氏族社会の自由・平等・友愛のーーより高次元でのーー回復となるだろう。

Die Auflösung der Gesellschaft steht drohend vor uns als Abschluss einer geschichtlichen Laufbahn, deren einziges Endziel der Reichtum ist; denn eine solche Laufbahn enthält die Elemente ihrer eignen Vernichtung. Demokratie in der Verwaltung, Brüderlichkeit in der Gesellschaft, Gleichheit der Rechte, allgemeine Erziehung werden die nächste höhere Stufe der Gesellschaft einweihen, zu der Erfahrung, Vernunft und Wissenschaft stetig hinarbeiten. Sie wird eine Wiederbelebung sein – aber in höherer Form – der Freiheit, Gleichheit und Brüderlichkeit der alten Gentes.

ーーマルクス『民族学ノート』Marx, Ethnologische Notizbücher.  (1880/81)




柄谷にとって平等かつ自由なのは交換様式Dの回帰しかない。


最後に、ここでのテーマである普遍宗教の回帰をもう一度強調しておこう。

普遍宗教もまた、交換様式の観点から見ることができる。一言で言えば、それは、交換様式Aが交換様式Β・Cによって解体された後に、それを高次元で回復しようとするものである。言い換えれば、互酬原理によって成り立つ社会が国家の支配や貨幣経済の浸透によって解体された時、そこにあった互酬的=相互扶助的な関係を高次元で回復するものである。私はそれを交換様式Dと呼ぶ。(柄谷行人『哲学の起源』2012年)