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2025年6月22日日曜日

いくらなんでももう「現実」に逃避するのをやめないとな

 

世界の終わりは内的カタストロフィの投射(投影)である[Der Weltuntergang ist die Projektion dieser innerlichen Katastrophe](フロイト『症例シュレーバー』第3章、1911年)


私は基本的には待ってるんだよな、イスラエルやウクライナだけでなく、集団的西側のリーダーの面々は内的カタストロフィの襲われているに違いないから、そうであるなら世界の破滅を選択するだろうと。彼らは戦争に負けて裁判があれば、「ふつうは」絞首刑だろうからな。そんな目に遭うなら核兵器でも使って世界を終わらせてほうがいいと「ふつうは」考えるよ。この場合の投射というの自己破壊性の投射としての他者破壊性、いや世界破壊性だね、ーー《私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。》(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)


起こらないわけないんじゃないかね、皆殺しが。


私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃欲動ならびに自己破壊欲動による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。この点、現代という時代こそは特別興味のある時代であろう。

いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩をとげ、自然力の助けを借りればたがいに最後の一人まで殺し合うことが容易である。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っていることから生じている。

Die Schicksalsfrage der Menschenart scheint mir zu sein, ob und in welchem Maße es ihrer Kulturentwicklung gelingen wird, der Störung des Zusammenlebens durch den menschlichen Aggressions- und Selbstvernichtungstrieb Herr zu werden. In diesem Bezug verdient vielleicht gerade die gegenwärtige Zeit ein besonderes Interesse. 

Die Menschen haben es jetzt in der Beherrschung der Naturkräfte so weit gebracht, daß sie es mit deren Hilfe leicht haben, einander bis auf den letzten Mann auszurotten. Sie wissen das, daher ein gut Stück ihrer gegenwärtigen Unruhe, ihres Unglücks, ihrer Angststimmung.

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年)



ここまで来たんだからさ、世界の死が起こらないほうが不思議だよ。



われわれが信じようともしなかった戦争が、今や勃発し、そしてーー幻滅[Enttäuschung]をもたらした。この戦争は、強力に完成された攻撃用ならびに防御用の武器のために、かつてのどの戦争よりも多量の流血と損傷とをもたらしただけではない。これはまた、少なくとも、かつてのどの戦争とも同様に残酷であり、激烈で情け容赦ないものとなったのである。この戦争は、平時には誰もが義務づけられていたすべての制限[Einschränkungen]ーー国際法[Völkerrecht]とよばれていたあの制限を踏みにじり、負傷者や医師の特権も、住民の戦闘部分と非戦闘部分の区別も、そしてまた私有財産の要求も、いっさい認めはしないのである。この戦争はまた、その道を妨ぐものすべてを盲目的な憤怒をもってうち倒し、戦争の終わった後にも、ひとびとのあいだにはおよそ未来も、平和もあってはならないとでもいうかのようである。そしてまた、この戦争は、互いに死闘をつくす諸民族間の、共同性のきずなをひきちぎり、あとに憤怒を残すことにより、それら民族がふたたび結びつくのを長らく不可能にしてしまうのである。

この戦争はまた、ほとんど信じられないような現象を出現させた。すなわち、文明諸民族が互いにこのように知りあわず、理解もしあわずにおり、そしてまた、そのため互いに憎しみと嫌悪のみをもってあい対するようになるということである。だが、それだけではない。偉大な文明民族の一つが、このように全体的に嫌われ、その民族を「野蛮である」として、文明共同体から排除しようとする試みがなされようとすらしているのである。 たといその民族がそのもっとも偉大な貢献により、文明共同体に対する適合性が長いあいだにわたり立証してきたとしても。われわれは希望する。ある公平な歴史記述が、われわれがその言葉を用い、愛する者たちがその勝利のために戦ったまさにこの国民が、人間的礼節の掟を犯すこともっとも少なかったと立証してくれることを。だが、このような時期に、誰が自分自身のことで裁判官であり得ようか。

諸民族は、その形成する国家によってほぼ代表され、国家はそれを導く政府によって代表されるものである。個々の民族成員は、この戦争でつぎのことを確かめて驚愕するのである。つまり、国家が個人に不正の使用を禁じたのは、それを絶滅しようとしてではなく、塩や煙草と同様に、それらを専有しようとしてのことなのであるということを。この考えは、実はすでに平時においてもときどき浮かんできたものではあったが。戦争をおし進める国家は、個人であったら汚名を浴びせられるであろうような、あらゆる不正、あらゆる暴力をほしいままにする。国家は敵に対し、許されている策略を用いるばかりではない。


それは、意識的な嘘や、意図的な欺瞞をも用い、しかもその利用の範囲は、かつての戦争で慣用されてきたものをさらに上廻ると思われる。国家はその市民に極度の従順と犠牲とを要求し、しかも同時に、過度の秘密主義と、報道や意見発表に対する検閲とによって、市民を一種の禁治産者にしてしまうのだ。このような検閲は、市民を知的に抑制し、すべての不利な状況や、でたらめな不評に対して、気分的にまいらせてしまうのである。国家は、保証や契約により他の諸国家と結びついているのであるが、それも踏みにじられる。そして国家は、自己の所有欲や権力欲[seiner Habgier und seinem Machtstreben]を公言してはばからず、しかも、愛国心の名のもとに、これら渇望を個々の成員が是認することを要求するのである。

国家が不正の行使を放棄しえないのは、それを放棄すれば不利に立つからなのだ、という点で異論はありえない。個人にとっても、道徳的規範を守ったり、残忍な権力行使を放棄したりすることは、通常、非常な不利益をもたらす。しかも国家が個人に要求した犠牲の償いをしうることはほとんどないのである。そこで、人類の諸集団間の道徳的関係のゆるみが、個人の道徳性に反作用をおよぼしたからといって、驚くにはあたらない。というのも、われわれの良心は、道徳家のいうような、不屈の裁判官といったものではなく、本来、「社会的不安」なのであり、それ以外のなにものでもないからである。共同体が批判をやめるとき、悪の渇望[bösen Gelüste]に対する抑制もやむ。そしてひとびとは、残酷で陰険な行為、裏切りと野卑の行為を犯すのだ。このような行為がありうるということは、彼らの文明水準からは考えられないとされていたにもかかわらず。

このようにして、私がこれまで述べてきた文明世界市民は、見知らぬものと化した世界のなかで途方にくれて立ちすくむ。彼の偉大な祖国は崩壊し、共同所有物は荒廃し、そして共同市民は対立しあい、品位を汚しているのである。


共同市民のこの幻滅[Enttäuschung]に対して、若干の批判を加えておくべきであろう。厳密にいって、幻滅は弁護されるべきものではない。なぜならば、幻滅は幻想の崩壊[Zerstörung einer Illusion]なのであるから。幻想は、不快感を免れさせ、そのかわりにわれわれを満足に浸らせることにより、われわれの心にとりいる。幻想は、いつかは現実の断片にぶつかって砕け散るものであり、 その場合にはわれわれは泣きごとをいわずにそれを甘受しなくてはならないのである。


この戦争において、二つのことがわれわれの幻滅をよび起こした。内に対しては道徳的規範の番人としてふるまう諸国家が、外に向かったときにしめす道徳性の欠如がその一つであり、最高度の人間文明への参与者としての個々人が、そのふるまいのなかでしめした、信じられないほどの残虐性が他の一つである。

(フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年)



ほとんどの人はいまだ世界の死が起こらないという幻想に耽っているんだろうけどさ、そろそろそれを捨てるべきだよ。


別の言い方をすれば、いくらなんでももう「現実」に逃避するのをやめないとな、


想像力を欠くすべての人は現実へと逃避する[Tous ceux qui manquent d'imagination se réfugient dans la réalité](Godard, Adieu au Langage, 2014)

現実はない。現実は幻想によって構成されている[il n'y a pas de réalité.La réalité n'est constituée que par le fantasme](Lacan, S25, 20 Décembre 1977)



現実は死の欲動の顰め面に過ぎないんだからさ。

じつは、この世界は思考を支える幻想でしかない。それもひとつの「現実」には違いないかもしれないが、現実界の顰め面[grimace du réel]として理解されるべき現実である。alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.(Lacan, Télévision, AE512、Noël 1973)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est  le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


ーー《我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない[Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. ](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



死の練習期間があとどのくらいあるのかは知らないがね、


死はまさに哲学に生命を吹きこむ守護神でありまた庇護者であって、ゆえにソクラテスは哲学を「死の練習」と定義した。死というものがなかったならば哲学的思索をなすことすら困難であったろう。

Der Tod ist der eigentliche inspirirende Genius, oder der Musaget der Philosophie, weshalb Sokrates diese auch thanatou meletê definirt hat. Schwerlich sogar würde, auch ohne den Tod, philosophirt werden. (ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第 41 章、1843年)



というわけで、この投稿は半ばはジョークかもしれないがーーボクもいくらか「現実主義者」のところがあるのを認めるのに吝かではないからなーー、半ばは本気だよ、ワカルカイ?


ここでの「現実主義者」というのは、繰り返せば、虚構主義者だ。

われわれが「現実」とよぶものは、すでに内的な風景にほかならないのであり、結局は「自意識」なのである。(柄谷行人「風景の発見」初出『季刊芸術』1978年夏号『日本近代文学の起源』1980年)

「主体」は虚構に過ぎない。自我はまったく存在しない。エゴイズムが批判されるとき語られる自我はない[Das »Subjekt« ist nur eine Fiktion: es gibt das ego gar nicht, von dem geredet wird, wenn man den Egoismus tadelt. ](ニーチェ遺稿1882ー1887年)



で、たまには虚構に逃避するのをやめて哲学的問いを発してみただけさ、ウィトゲンシュタインの云う意味でのね、

「哲学を勉強したことがないので、あれやこれやの判断を下すことができません」という人が、ときどきいる。こういうナンセンスをきかされると、いらいらする。

「哲学がある種の学問である」などと申し立てられているからだ。おまけに哲学が、医学かなんかのように思われているのである。――だが、次のようなことは言える。哲学的な研究をしたことのない人には、その種の研究や調査のための、適切な視覚器官が備わっていないのである。

それは、森で、花やイチゴや薬草を探しなれていない人が、何一つとして発見できないのにかなり似ている[Beinahe, wie Einer, der nicht gewohnt ist, im Wald nach Blumen, Kräutern oder Beeren zu suchen, keine findet, weil sein Auge für sie nicht geschärft ist, und er nicht weiß, wo insbesondere man nach ihnen ausschauen muß]。かれの目は、そういうものに対して敏感ではないし、また、とくにどのあたりで大きな注意を払わなければならないか、といったこともわからないからである。

同じような具合に、哲学の訓練を受けたことのない人は、草むらの下に難問が隠されているのに、その場をどんどん通り過ぎてしまう。


一方、哲学の訓練を受けた人なら、まだ姿は発見していないのだけれども、その場に立ちどまって、「ここには難問があるぞ」と感じ取る。

――だが、そのようによく気がつく熟達者ですら、じっさいに発見するまでには、ずいぶん長時間、探しまわらなければならない。

とはいえ、それは驚くにはあたらない。何かがうまく隠されている場合、それを発見するのは難しいものなのである。(ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)


つまりは、森で、花やイチゴや薬草を摘んでみたんだよ。いやひょっとしてキノコをね。