自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう |
編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。(坂口安吾「花田清輝論」1947年) |
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僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。(「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」『近代文学』1946年) |
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僕は、終戦間もなく、或る座談会で、僕は馬鹿だから反省なんぞしない、悧巧な奴は勝手にたんと反省すればいいだろう、と放言した。今でも同じ放言をする用意はある。事態は一向変わらぬからである。
(小林秀雄「吉田満の「戦艦大和の最期」」1950年) |
今日の様な批評時代になりますと、人々は自分の思い出さえ、批評意識によって、滅茶滅茶にしているのであります。戦に破れた事が、うまく思い出せないのである。その代り、過去の批判だとか清算だとかいう事が、盛んに言われる。これは思い出す事ではない。批判とか清算とかの名の下に、要するに過去は別様であり得たであろうという風に過去を扱っているのです。〔・・・〕 |
戦の日の自分は、今日の平和時の同じ自分だ。二度と生きてみる事は、決して出来ぬ命の持続がある筈である。無智は、知ってみれば幻であったか。誤りは、正してみれば無意味であったか。実に子供らしい考えである。軽薄な進歩主義を生む、かような考えは、私達がその日その日を取返しがつかず生きているという事に関する、大事な或る内的感覚の欠如から来ているのであります。〔・・・〕 |
宮本武蔵の「独行道(どつこうどう)」のなかの一条に「我事に於て後悔せず」という言葉がある。これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいうものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、そういう小賢しい方法は、むしろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう、そういう意味合いがあると私は思う。〔・・・〕 昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない。別な道がきっとあるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。〔・・・〕 |
それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。そこに行為の極意があるのであって、後悔など、先き立っても立たなくても大した事ではない、そういう極意に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れる様なものだ、とこの達人は言うのであります。行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ、その同じ姿を行為の緊張感の裡に悟得する、かくの如きが、あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考えます。 (小林秀雄「私の人生観」1949年) |
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終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。日支事変の頃、従軍記者として私の心はかなり動揺していたが、戦争が進むにつれて、私の心は頑固に戦争から眼を転じて了った。私は「西行」や「実朝」を書いていた。戦後、初めて発表した「モオツァルト」も、戦争中、南京で書き出したものである。それを本にした時、「母上の霊に捧ぐ」と書いたのも、極く自然な真面目な気持からであった。私は、自分の悲しみだけを大事にしていたから、戦後のジャーナリズムの中心問題には、何の関心も持たなかった。 |
母が死んだ数日後の或る日、妙な体験をした。仏に上げる蝋燭を切らしたのに気付き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もないような大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。 |
ところで、無論、読者は、私の感傷を一笑に付する事が出来るのだが、そんな事なら、私自身にも出来る事なのである。だが、困った事がある。実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである。私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異って実によく光るとか、そんな事を少しも考えはしなかった。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何も彼も当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる。 |
以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基いていて、曲筆はないのである。妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事実の徒らな反省によって生じたのであって、事実の直接か経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない。という事は、一応の応答を、私は用意しているという事になるかも知れない。寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。(小林秀雄「感想」「新潮」1958年5月− 1963年6月未完) |
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鎌倉比企ヶ谷妙法寺境内に、海棠の名木があった。こちらに来て、その花盛りを見て以来、私は毎日のお花見を欠かしたことがなかったが、去年枯死した。枯れたと聞いても、無残な切り株を見に行くまで、何だか信じられなかった。それほど前の年の満開は例年になくみごとなものであった。名木の名に恥じぬ堂々とした複雑な枝ぶりの、網の目のように細かく別れて行く梢の末々まで、極度の注意力をもって、とでも言いたげに、繊細な花をつけられるだけつけていた。私はF君と家内と三人で弁当を開き、酒を飲み、今年は花が小ぶりの様だが、実によく附いたものだと話し合った。傍で、見知らぬ職人風の男が、やはり感嘆して見入っていたが、後の若木の海棠の方を振り返り、若いのは、やっぱり花を急ぐから駄目だ、と独り言のように言った。蝕まれた切り株を見て、成る程、あれが俗に言う死花というものであったかと思った。中原と一緒に、花を眺めたときの情景が、鮮やかに思い出された。今年も切株を見に行った。若木の海棠は満開であった。思い出は同じであった。途轍もない花籠が空中にゆらめき、消え、中原の憔悴した黄ばんだ顔を見た。〔・・・〕 |
中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間を目茶苦茶にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。ただ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」という数枚の断片を見付けただけであった。夢の多過ぎる男が情人を持つとは、首根っこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原は、そんな意味の事を言い、そう固く信じていてにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変った、と書いている。が、先はない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かったに相違ない。 |
それから八年経っていた。二人とも、二人の過去と何んの係わりもない女と結婚していた。忘れたい過去を具合よく忘れる為、めいめい勝手な努力を払って来た結果である。二人は、お互いの心を探り合う様な馬鹿な真似はしなかったが、共通の過去の悪夢は、二人が会った時から、又別の生を享けた様子であった。彼の顔は言っていた、彼が歌った様にーー「私は随分苦労して来た。それがどうした苦労であったか、語ろうとなぞとはつゆさえ思わぬ。またその苦労が、果して価値のあったものかなかったものか、そんな事なぞ考えてもみぬ。とにかく私は苦労して来た。苦労して来たことであった!」。しかし彼の顔は仮面に似て、平安の影さえなかった。 |
晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。樹陰の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何という注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果てしなく、見入っていると切りがなく、私は急に嫌な気持ちになって来た。我慢が出来なくなってきた。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上がり、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変わらずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。……(小林秀雄「中原中也の思い出」『文芸』1949年8月) |
やがて中原が小林と泰子の住む家へ来るようになるのは、中原の憎みきれない性質のためには違いないが、事態をこんがらかさずにはおかない。しかし小林はそれを断わることが出来ない。 「私が何故あいつが嫌ひになったかといふと、あいつは私に何一つしなかつたのに、私があいつに汚い厚かましい事をしたからだ」というフィョードル・カラマーゾフの言葉を小林はノートしている。穴は殊によると小林の側に、より深く残ったかもしれない。 |
(大岡昇平「友情」初出「新潮」1956年4月号『中原中也』所収) |
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大岡さんのふるまいは、知識人に期待される発展だと思います。つまり、自分自身を含めて主観的世界を超える力です。しかし一方では、内的主観的世界に留まる傾向も強い。それは政治的無関心、根本的に政治離れとなる。小林さんの場合は典型ですが、大岡さんと違って戦争というものを、与えられた条件として受け取る。その意味では天災と同じです。そこで個人がそう対処するか、ことに私がどう対処するかという問題になる。しかし戦争は天災ではありません。それは、ある歴史的過程であって、日本の社会全体が戦争をつくり出しているわけですから、日本政府の行動に対して日本国民としての責任がある。それを問題にすれば、戦争は地震とは違うということになる。(加藤周一『私にとっての20世紀』「第4部 言葉・ナショナリズム」2000年) |
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大宮から食堂車がひらいたので、二人で飲みはじめ、越後川口へつくまで、朝の九時から午後二時半まで、飲みつづけたね。二人ともずいぶん酔っていたらしい。越後川口で降りるとき、彼は私の荷物をひッたくッて、急げ急げと先に立って降車口へ案内して、私を無事プラットフォームへ降してくれた。ひどく低いプラットフォームだなア。それに、せまいよ。第一、誰もほかに降りやしない。駅員もいねえや。田舎の停車場はひどいもんだと思っていたが、バイバイと手をふって、汽車が行ってしまうと、私はプラットフォームの反対側の客車と貨物列車の中間に立たされていたのだね。私がそこへ降りたわけじゃなくて、彼が私をそこへ降したのである。親切に重い荷物まで担いでくれてさ。小林さんは、根はやさしくて、親切な人なんだね。(坂口安吾「小林さんと私のツキアイ」1951年) |
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