西部邁が二歳年上だから「西部邁と柄谷行人」すべきか。
一般には柄谷が左翼、西部が保守(後年の活躍から)と思われているだろうが、この二人の親しい関係を表している文を掲げる。
◼️共同討議「伝統・国家・資本主義 」 柄谷行人・西部邁・浅田彰・福田和也(批評空間, II-16)1998.1 |
西部 私は論理的な組み立てをなんとか覚えることによって自分の言語障害を治したとい経験があるものだから、私なりのレヴェルその論理性から離れられないけれども、それはともかく、外国人とのコミュニケーションの場合、第一次的には、論理性でしょう。でも、結局は、論理なんか実はどうでもいいということもあるわけです。 文芸批評家の前で言うのは気が引けるけれど、最終的に決定的なのは感情なんだと思う。この感情だけは国際公用語では表現しきれないということはあるんじゃないですか。 柄谷 あなたは三〇年以上前に、「おれはすべてのイズムを認めない、 センチメンタリズ以外は」と言っていたよ(笑)。 |
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西部 せっかくの機会だから浅田さんにも聞いてみよう。 浅田さんがほとんど書かなくなったのは、世界や人類をばかにしてのことですか。 浅田 いや、単純に怠惰ゆえにです。しいていえば、矮小な範囲で物事が明晰に見えてしまう小利口かつ小器用な人間なので、大いなる盲目をもてず、したがってどうしても書きたいという欲望ももてない。要するに、 本当の才能がないということですね。書くことに選ばれる人間と、選ばれない人間がいるんで、ぼくは選ばれなかったというだけのことですよ。と、今言ったことすべてが逃げ口上にすぎないということも、明晰に意識しています、けれど。 柄谷 ぼくはとにかく書こうと思っているけど、それは、選ばれていると思わないけど、まあ、不幸なものですよ。 浅田 選ばれる不幸と選ばれない不幸があるんです(笑)。 西部 ウォルター・バジョットが、 一四〇年ぐらいに前に、イギリス人の stupidity (愚かしさ)を自慢している。おれたちイギリス人は、フランス人ともドイツ人とも違って、stupid なんだ、 それはおれたちの取り柄なんだという言い方をするわけです。 自画自賛になるけれども、私はかなり若いときから、自分は stupid だ、愚かだというのが、すご納得のいく心境なんですよ。 柄谷 確かに、あなたは昔からそう言ってたよ(笑) 。 |
◼️柄谷行人「「トランスクリティーク」としての反原発」2012年 |
私は学生運動をやっていましたが、アジ演説は苦手でまったくやったことがない。60年安保闘争の頃、最高のアジテーターは西部邁でした。彼の演説には、難しい言葉や左翼の紋切り型の言葉が一つもない。切々と訴えるセンチメンタルな演説です。 彼は、「自分はすべてのイズムを拒否するが、唯一許せるイズムがある、それはセンチメンタリズムだ」といっていましたが(笑)。私は彼の演説が好きでしたが、自分ではそういうことはできなかったし、やる気もなかった。 |
◼️学生運動と年上の友人たち:私の謎 柄谷行人回想録④ 2023.05.23 |
――1960年、私立甲陽学院高校を卒業し、東京大学文科一類に入学します。岸信介内閣による日米安全保障条約改定に反対の波が広がっていた60年安保闘争のさなかですね。 柄谷 受験前の59年秋、国会へのデモに参加した学生運動の幹部に逮捕状が出て、彼らが東大駒場に籠城するという事件がありました。それが連日大々的に報道された。その後、デモが広がり、入試期間中も続いていました。僕は入学式よりもそのことが気になっていたから、入学式より前に、東大生のデモに参加した。国会前です。4月7日くらいだったかな。そこで、西部邁の演説を聞いた。結局、入学式には行かなかった。 《5月19日に政府が強行採決すると、26日のデモには17万人が参加。6月15日には全学連が国会に入り、機動隊の強制排除で多数の重軽傷者、逮捕者が出た。このときに東大生の樺美智子さんが亡くなり、18日には学生や労働者33万人が国会を取り囲んだとされる》 |
――後に東大教授などを歴任し、保守派の評論家としても活躍する西部邁さんですね。当時は東大教養学部の自治会委員長で、共産主義者同盟(ブント)に所属し、全学連の中央委員でもあった。 柄谷 僕の記憶では、5月19日の強行採決の後、組合の労働者などがいっぱい集まっている場所で西部が演説したんですよ。負けた日に何を喋るんだろうと思っていた。そうしたら、すごかった。みんな感動して泣いていたんだ。西部は負けたんだということを話しているのに、集まった人たちは「次からはもっとやる」という感じになっちゃうんですね。そういう浪花節が巧まずにできちゃうの、彼は。まだ面識もなかったけど、驚いたね。あんな演説は二度とないだろうね。 |
――入学してすぐにブントに加入したんですか。 柄谷 僕は正式にブントに入ったことはないんですよ。もともとは58年に共産党から出た人たちが作った組織ですから、最初は共産党入党と類似するような手続きがあったと聞いたことがあります。だけど、僕は一度もそんなことをしていない。もしそうしなければならないとしたら、入らなかったと思います。僕はたんに、デモに行っただけですから。
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《「風景の発見」は、明治期の日本で、ありふれた田舎の林や平凡な人間を描写する=発見することで、外界と内面、主観と客観が生まれ「文学」が成立したという転倒を指摘し、認識のあり方がそれ以前と決定的に違っていったことを論じた》 国木田独歩の『武蔵野』(1901年)は独歩が住んでいた「渋谷村」が舞台で、明治30年前後には林があって家が少ししかないような地域です。大学に入ってから『武蔵野』に出てくる渋谷の道玄坂に行ってみたら、ストリップ小屋があって驚いた(笑) ――日本近代文学を生んだ〈風景〉は、渋谷にはもうなく、三鷹には辛うじて残っていた。 柄谷 そうです。大学時代、〈風景〉の意味を感じ取る時期にそのなかにいたということ、のみならず、コロナ禍の今も、そのような〈風景〉のなかを歩き回っているということ。奇妙なものだね。だから、ふりかえると、三鷹での生活は、自分にとって重要なことだったと思います。 |
――入学直後の大学はどんな様子でしたか? 柄谷 駒場の学生運動は、デモに行くのも教室で全部討議してクラスで決めて、それを上げていって駒場全体の方針として決定する。これは、その後残っていないような学生運動の形態ですね。
――駒場寮に移ったきっかけは? 柄谷 これも自分にとって謎です。10月くらいに移ったんだけど、本郷のブントの幹部、坂野潤治(後に東大教授、歴史学)とか河宮信郎(後に中京大教授、環境科学・科学技術論)に、ぜひ駒場寮に行ってくれと頼まれたから、そうしたのです。彼らは、安保闘争以後のブント再建のために動いていた。だけど、なぜ僕だったのか、今でもわからない。僕は何もしていなかったんだから。アジ演説はおろか、そもそも演説が出来ない。それはいまも同じですが。 |
――中学の入学式以来の「赤面恐怖」でしょうか。 柄谷 それもあるけど、僕はアジ演説ができない。普通に話すこともできないけど。そのそも、僕は学生運動に参加しながら、同年代に話ができる友人がいなかった。話ができると思ったのは、自分より年上の人たちだけです。僕を駒場寮に行くように誘ってくれた坂野や河宮のほかに、廣松渉(後に東大教授、哲学)とも親しくなった。それに、加藤尚武(哲学者)も。
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――駒場寮では、どんな生活でしたか? 柄谷 駒場寮に住んじゃったら、大学の敷地にいるんだから、学校に行くも行かないもない(笑)。半分ぐらいの人は授業には出てないですよ。寮には戦前の落書きがあるくらいで、まだ旧制の雰囲気が残っていた。いまの学生とは違います。
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――若き廣松渉を追い返す大学1年の柄谷行人……すごい光景ですね。 柄谷 彼は8歳くらい僕より年上で、まだ大学院生だったと思う。ずっと後に、奥さんから聞きましたが、話のわかるやつだと妙に僕のことを信用していたらしい。 ――高校までは知的な話ができる友達がいなかった、と。大学では後に名だたる学者になるような人たちに出会ったわけですが。 柄谷 そんなインテリの会話をした覚えがないよ(笑)。ただ、年上の連中に会って初めて、文学や哲学の話ができるようになったのは確かですね。高校までは、話せる相手がいなかったし、わざわざ探すこともしなかった。向こうから来るのを待つという感じでした。そうしたら本当に出会った。ただ、その人たちは皆、僕より年上だった、ということです。
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――学生のころから親密なつきあいがあったんですね。 柄谷 そうですね。今思い出したことがある。彼の奥さんは、とある乳製品の会社で働いて、裁判中の西部を養っていたんだけど、彼女が僕にテレビコマーシャルのモデルにならないかって言ったことがあった。どういうことをするのか聞いたら、「神宮球場かなんかを歩いて、一杯牛乳を飲むとか、そういう映像でいい」とか言ってたけど。一応、断りました。 ――かっこよかったんでしょう。 柄谷 それはわからないけど、とにかく、いいって言うんですよ。吉本隆明の奥さんにも、テレビに出てる誰それに似てる、と言われたことがあった。そういうふうに見えた時期があったんだろうか。 |
――柄谷さんは、61年に社会主義学生同盟(社学同)再建に関わったとお話されています(『政治と思想 1960-2011』平凡社ライブラリー)。 柄谷 60年安保闘争当時の資料なんかで見ると、「無名の一学生」として発言している僕が出てくるらしい。当時は、ブント(共産主義者同盟)が党であり、その下部の学生組織として社学同があると考えられていた。つまり、ブントは、労働者階級の党であり、社学同はその下にある、と。
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――挫折感はありましたか? 柄谷 運動が挫折したことは確かですが、挫折感というようなものはありません。もともと、他の人と考えていることが違っていたから。しかし、その時点では、自分の考えは、まだ明確ではなかった。
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