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2025年9月5日金曜日

イマジネールな「自虐的自己愛」とリアルな「自傷的自体性愛」


斎藤環の「自傷的自己愛」というやつか。彼は自傷概念ーー本来的には自己身体を傷つけることーーをもっと広い意味でとっているようで、自己いじめの話をしつつ論を展開しているようだから、実際は「自虐的自己愛」とも呼ぶべきものじゃないかね。そう捉えれば、誤謬というわけではないよ。


とはいえ自傷行為は仏主流ラカン派ーーフロイト大義派(ミレール派)ーーにおいては、自己愛とは関係ない。


主体の自傷行為は、イマジネールな身体ではなくリビドーの身体による[l'auto mutilation du sujet […] le corps qui n'est pas le corps imaginaire mais le corps libidinal]( J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6   - 16/06/2004)


まず自傷行為はイマジネールな身体ではないと、ジャック=アラン・ミレールは言ってるが、これは自己愛の身体ではないということだ。

自我は想像界の効果である。ナルシシズムはイマジネールな自我の享楽である[Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire](Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)


ーーナルシシズムとあるが、《「ナルシシズム」つまり自己愛[ »Narzißmus« oder Selbstliebe ]》(フロイト『自己を語る』1925年)であり、つまり自傷行為は「自己愛の身体」によるものではない、と言っている。


そして自傷行為の原因としてのリビドーの身体とは、「享楽の身体=欲動の身体」だ。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である[Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


で、少し前、「ナルシシズム、あるいはフロイト・ラカンにおける愛の三相」記したが、享楽つまり欲動は自体性愛だ。


自体性愛的欲動は原初的なものである[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich](フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)

享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である[la jouissance …qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. …Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. ](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


したがって、自傷行為は「自体性愛の身体」によるということになる。




先に言った表現を使えば、イマジネールな「自虐的自己愛」に対するリアルな「自傷的自体性愛」だね。

これはおそらくアクティングアウト(行動化)とパッセージアクト(行為への遂行)の相違でもある。

アクティングアウトは想像界の領野にある[acting out, c'est-à-dire sur le plan imaginaire]…パッセージアクトははその彼岸にある[passage à l'acte […] cet au-delà,](Lacan, S4, 19 Décembre 1956)

アクティングアウトは本質的にデモンストレーションである[L'acting-out essentiellement, c'est la monstration]…アクティングアウトは大他者に宛てられる。[c'est un acting-out, donc ça s'adresse à l'Autre.](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)


ーー《アクティングアウトは、意味の打開策である。アクティングアウトは大他者をその場に維持することを想定している[L'acting-out, c'est une manœu-vre de sens. L'acting-out suppose au contraire le maintien de l'Autre à sa place.]》(J.-A. Miller, Ce-qui-fait-insigne, 4 FEVRIER 1987)


他方、パッセージアクトは意味のメッセージの彼岸にある非意味だ。

現実界への移行が、パッセージアクトにはある[à passer dans  ce réel, dans un passage à l'acte](Lacan, S10, 16 janvier  1963)

現実界の位置は、私の用語では、意味を排除することだ。[L'orientation du Réel, dans mon ternaire à moi, forclot le sens. ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)


要するに「自虐的自己愛」とはイマジネールな他者への当てつけメッセージであり、他方、「自傷的自体性愛」はリアルつまりエスの真級にある非意味=非道徳の行為ということだ。


エスはまったく非道徳(アモラル)であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein](フロイト『自我とエス』第5章、1923年)


というわけだが、繰り返せば、私は斎藤環の論を批判しているわけではなく、「自傷的自己愛」を「自虐的自己愛」に言い換えれば、彼の言っていることはーーネットで片言隻語を拾っただけだがーー「さもありなん」と思うよ。


いずれにせよ、《言葉の意味は、言語内におけるその使用法である[Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache.]》(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』第43節)だからな、「自虐」とするより「自傷」としたほうが一般ウケするからそうしたんじゃないかね。


当面以上でいいかな。