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2025年10月14日火曜日

善人と悪人の話、あるいは「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

 

私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』1946年)

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾『続堕落論』1946年)

まことの悪党というものには、ともかく信義がある。信長は悪党にあらず、と言うなかれ。彼は悪党である。一身をはり、投げすてているではないか。賭場のアンチャンのニセ悪党とは違う。ホンモノの悪党は、悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。この悪魔、この悪党は神に参じる道でもある。ついにアリョーシャの人格を創造したドストエフスキーは、そこに参ずる通路には、悪党だけしか書くことができなかったではないか。(坂口安吾「織田信長」1948年)




安吾は親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を引用してるが、いまネット上を探ってみたら、西蓮寺副住職白山勝久(法名 釋勝願)氏のサイトに「優れた」所感が記されている。この解釈は少なくとも8割方は頷けるね。《私たちの本質はいつまでも「善」なのですから。》と記されている箇所はーー私の観点ではいくらか甘くーー、首を傾げたくなるにせよ、その直後に《「悪」の自覚を持ったと喜んでいるそのことが「善」に陥るのです。私は「悪」の自覚を持った。他の人はまだ「善」だ、と。》ーーとあるのは素晴らしい。


善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

〔『歎異抄』第3章より(『真宗聖典』627頁)〕

「善人でさえも往生できるのだから、悪人が往生できるということは言うまでもないことです」


所感

人は、自分のことを「善」と思ってしまいます。
言い合い・喧嘩・戦争は、善と悪との戦いではありません。善と善との戦いです。「私の方が正しい」という主張のぶつかり合いです。お互いに自己の正当性を主張して譲りません。自己の正当性、つまり(自分にとっては)善。自分を善に置いています。その善と善とがぶつかり合って戦うのです。


仮に、あなたが言っていることが100%正しいとしましょう。あなたの主張を相手にぶつけます。あなたが正しければ正しいほど、その主張をぶつけられた方は逃げ場を失います。そうすると、余計にあなたに反抗するか、自分を傷つけるしか道がなくなってしまいます。あなたがどんなに正しくても、あなたが正しければ正しいほど、相手を傷つけるものです。そのことは知っておいた方がいいと思います。


言い合い・喧嘩・戦争とは対極の「仲良し」ということを考えてみても、共通の敵がいるからこそ表向きの仲良しを演じられるということもあります。また、仲良しが集まると、必然的に仲間外れを生み出すという現実もあります。


「善人」って、善い人のように思うけれど、「善」の背景には、相手を傷つける闇が潜んでいます。


「悪人」って、悪い人のように思うけれど、「相手を傷つけている私」であることを知っている私であることを意味します。


「悪」とは、ルールを破ったり、人のものを盗んだり、人を傷つけたり、人を殺してしまうことを意味するのではありません。


私はルールを守っている、人のものを盗んだことなんかない、人を傷つけたことなんかない、人を殺すなんてするはずがない。そう思っている人はたくさんいることでしょう。


けれど・・・本当にルールを守っていると言い切れますか? そのルール(約束事や法律など)も、一部の人の関係性の中で作られたものです。ルールを守ることによって、その関係性から外れる人々を苦しめている現実もあります。


あなたがそこにいるという事実は、そこにいられない誰かがいるという事実を含んでいます。たとえ物は盗んでいなくても、その人の居場所を奪っているかもしれません。


誰も傷つけていないつもりかもしれないけれど、あなたのことを想って悲しみ(慈悲)の涙を流してくれている人がいるものです。私のためにこころ痛めてくれている人がいる。その事実に気付けない私は、その人の想いを傷つけているのではないでしょうか。


「あいつさえいなければ」「あいつが邪魔だ」「あいつ鬱陶しい」と、誰かを否定するようなことを考えたことはありませんか? ということは、その人の存在を認めていないということです。つまり、想いの中で人を殺(あや)めているのです。行為としては殺していなくても、想いの中で、知らないうちに人を殺めているものです。


これだけ書き連ねると、ちょっとつらいですね。


でも、人が人として生まれ、人として生きていくということは、このような事実があるのです。あなたは、その事実を知らずに「善」として生きますか? それとも、そのような私であるという「悪」の自覚を持って生きますか?


だからと言って、「善」を捨て、「悪」の自覚を持つ人になりましょうというのではありません。私たちの本質はいつまでも「善」なのですから。「悪」の自覚を持ったと喜んでいるそのことが「善」に陥るのです。私は「悪」の自覚を持った。他の人はまだ「善」だ、と。


「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」・・・善人でさえも救われるのだから、悪人が救われるのは言うまでもない・・・つまり、生きとし生けるものすべてが救われるということを説いています。


「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とは、救われるためにどうあるべきかを説かれた言葉ではなくて、人間の本質に気付いて欲しいという親鸞聖人の、阿弥陀如来(真宗のご本尊)の願いです。


私が生きているということは、いえ、亡くなってからも他人(ひと)に迷惑をかけるものです。それはごまかしきれない事実。でも、その事実に目を向けないで、周りの人々を悲しませるだけ悲しませながら生きていきますか? その事実の痛みを抱えながら生きていきますか?


親鸞聖人からのメッセージは、亡くなって後の救いを説いているのではなく、今生きている私の在り方を問うています。


南無阿弥陀仏




ここでニーチェの善人と悪人も掲げておこう。



よし悪人がどんな害をおよぼそうと、善人のおよぼす害は、もっとも害のある害である[Und was für Schaden auch die Bösen thun mögen: der Schaden der Guten ist der schädlichste Schaden!](  ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第三部「新旧の表」1884年)


善人どもの生存条件は嘘である、言いかえれば、現実というものが根本においてどういうふうにできているかを絶対に見ようとしないこと。すなわち、現実というものは、いつでも善意的本能をそそのかし、招きよせるようなものではないこと、まして、近視眼的な、 お人好しの人間が出しゃばって手を出すことにいつも甘い顔を見せるようなものではなに見ようとしないことである。


Die Existenz-Bedingung der Guten ist die Lüge—: anders ausgedrückt, das Nicht-sehn-wollen um jeden Preis, wie im Grunde die Realität beschaffen ist, nämlich nicht der Art, um jeder Zeit wohlwollende Instinkte herauszufordern, noch weniger der Art, um sich ein Eingreifen von kurzsichtigen gutmüthigen Händen jeder Zeit gefallen zu lassen.

ツァラトゥストラは、楽天家は厭世家と同様にデカダンであり、おそらくはいっそう有害であることを掴んだ最初の人間であるが、こう言っている。「善人はけっして真実を語らない。いつわりの岸べといつわの安全とを、善い者たちは君たちに教えていたのだ。君たちは、善い者たちの嘘のなかで生まれ、それにかくまわれていたのだ。一切は善い者たちによって、徹底的にいつからか、曲げられている。」と。世界は幸いなことに、ただ善良であるだけの畜群がそこでちっぽけな幸福を見いだそうとするような、そんなけちけちした本能を見越して建てられてはいない。万人が「善人」に、畜群に、お人よしに、善意的なものに、「美しき魂」にならねばならないとかーーもしくは、ハーバート・スペンサー氏の希望にかなうように、利他的にならねばならないと要求することは、生存からその偉大な性格を奪うことにほかならない。人類を去勢して、あわれむべき宦官の状態に引き下げることにほかならない。ーーしかもこれがいままで試みられてきたことなのだ!・・・・・道徳と呼ばれていたことなのだ!・・・・・この意味で、ツァラトゥストラは、善人たちを、あるいは「末人」と呼び、あるいは「終末の開始」と呼ぶのである。何よりも、彼は善人たちをもっとも有害な人種と感ずる。それは、彼らが真理を犠牲にし、また未来を犠牲にして、おのれの生存をつらぬくからである。


Zarathustra, der Erste, der begriff, dass der Optimist ebenso décadent ist wie der Pessimist und vielleicht schädlicher, sagt: gute Menschen reden nie die Wahrheit. Falsche Küsten und Sicherheiten lehrten euch die Guten; in Lügen der Guten wart ihr geboren und geborgen. Alles ist in den Grund hinein verlogen und verbogen durch die Guten. Die Welt ist zum Glück nicht auf Instinkte hin gebaut, dass gerade bloss gutmüthiges Heerdengethier darin sein enges Glück fände; zu fordern, dass Alles "guter Mensch," Heerdenthier, blauäugig, wohlwollend, "schöne Seele"—oder, wie Herr Herbert Spencer es wünscht, altruistisch werden solle, hiesse dem Dasein seinen grossen Charakter nehmen, hiesse die Menschheit castriren und auf eine armselige Chineserei herunterbringen.— Und dies hat man versucht! ... Dies eben hiess man Moral ... In diesem Sinne nennt Zarathustra die Guten bald "die letzten Menschen," bald den "Anfang vom Ende"; vor Allem empfindet er sie als die schädlichste Art Mensch, weil sie ebenso auf Kosten der Wahrheit als auf Kosten der Zukunft ihre Existenz durchsetzen.

(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私は一個の運命であるのか」第4節、1888年)


善人についての最初の心理学者ツァラトゥストラは、ーー従ってーー悪人の友[ein Freund der Bösen]である。デカダンス種の人間が最高種の位にのし上がったのは、その反対の種、すなわち確信をもって生きている強力な種類の人間を犠牲にすることによってのみ、起こりえたのである。畜群が汚れのない徳の栄光につつまれて輝くためには、例外人は悪人に貶められるほかはない。欺瞞があくまでも「真理」という名称を自分のその光学のために要求するとすれば、真に誠実な者は、最悪の名称のなかに編入されるほかはない。ツァラトゥストラのことばには、この点について何のあいまいさもない。彼は言う。善人たち、「最善の者たち」の正体を見ぬいたというそのことが、自分に人間一般に対する恐怖心を与えたのである。この嫌悪から自分には翼が生えたのだ、「はるかな未来へ飛翔する」翼が、と。ーー彼は隠そうとしない。彼のような型の人間、相対的に超人的な型の人間は、ほかならぬこの善人たちと対比して超人的なのだということ、そして善人たち、正義の人間たちは、この超人を悪魔と呼ぶだろうというととを……

Zarathustra, der erste Psycholog der Guten, ist — folglich — ein Freund der Bösen. Wenn eine décadence-Art Mensch zum Rang der höchsten Art aufgestiegen ist, so konnte dies nur auf Kosten ihrer Gegensatz-Art geschehn, der starken und lebensgewissen Art Mensch. Wenn das Heerdenthier im Glanze der reinsten Tugend strahlt, so muss der Ausnahme-Mensch zum Bösen heruntergewerthet sein. Wenn die Verlogenheit um jeden Preis das Wort „Wahrheit“ für ihre Optik in Anspruch nimmt, so muss der eigentlich Wahrhaftige unter den schlimmsten Namen wiederzufinden sein. Zarathustra lässt hier keinen Zweifel: er sagt, die Erkenntniss der Guten, der „Besten“ gerade sei es gewesen, was ihm Grausen vor dem Menschen überhaupt gemacht habe; aus d i e s e m Widerwillen seien ihm die Flügel gewachsen, „fortzuschweben in ferne Zukünfte“, — er verbirgt es nicht, dass s e i n Typus Mensch, ein relativ übermenschlicher Typus, gerade im Verhältniss zu den G u t e n übermenschlich ist, dass die Guten und Gerechten seinen Übermenschen T e u f e l nennen würden…

(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私は一個の運命であるのか」第5節、1888年)



『善悪の彼岸』の人ニーチェの善人と悪人の話はいくらでもあるのだが、ここでもうひとつだけ、『道徳の系譜』から掲げておこう。



抑圧された者、蹂躪された者、圧服された者が、無力の執念深い奸計から、「われわれは悪人とは別なものに、すなわち善人になろうではないか。そしてその善人とは、暴圧を加えない者、何人も傷つけない者、攻撃しない者、返報しない者、復讐を神に委ねる者、われわれのように隠遁している者、あらゆる邪魔を避け、およそ人生に求むるところ少ない者の謂いであって、われわれと同じく、辛抱強い者、謙遜な者、公正な者のことだ」――と言って自ら宥めるとき、この言葉が冷静に、かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても、それは本当は、「われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれはわれわれの力に余ることは何一つしないから善人なのだ」というより以上の意味はもっていない。


Wenn die Unterdrückten, Niedergetretenen, Vergewaltigten aus der rachsüchtigen List der Ohnmacht heraus sich zureden: „lasst uns anders sein als die Bösen, nämlich gut! Und gut ist Jeder, der nicht vergewaltigt, der Niemanden verletzt, der nicht angreift, der nicht vergilt, der die Rache Gott übergiebt, der sich wie wir im Verborgenen hält, der allem Bösen aus dem Wege geht und wenig überhaupt vom Leben verlangt, gleich uns den Geduldigen, Demüthigen, Gerechten“ — so heisst das, kalt und ohne Voreingenommenheit angehört, eigentlich nichts weiter als: „wir Schwachen sind nun einmal schwach; es ist gut, wenn wir nichts thun, w o z u w i r n i c h t s t a r k g e n u g s i n d “ 


ところが、この苦々しい事態、昆虫類(大きな危険に際して「大それた」真似をしないために死を装うことを厭わないあの昆虫類)でさえもっているこの最も低級な怜悧さは、無力のあの贋金造りと自己欺瞞とのお蔭で、諦めて黙って待つという徳の派手な衣裳を着けたのだ。あたかも弱者の弱さそのものがーーすなわち彼の本質が、彼の行為が、彼の避けがたく解き離しがたい唯一の現実性の全体がーー   一つの自由意志的な行為、何らかの意欲されたもの、何らかの選択されたもの、一つの事績、一つの功績ででもあるかのように。この種の人間は、自己保存・自己肯定の本能からあらゆる虚偽を神聖化するのを常とするが、同時にまたこの本能からして、あの無記な、選択の自由をもつ「主体」に対する信仰を必要とする。主体(通俗的に言えば魂)が今日まで地上において最善の信条であったのは、恐らくこの概念によって、死すべき者の多数に、あらゆる種類の弱者や被圧迫者に、弱さそのものを自由と解釈し、彼ら自身の云為を功績と解釈するあの崇高な自己欺瞞を可能にしたからだ。


― aber dieser herbe Thatbestand, diese Klugheit niedrigsten Ranges, welche selbst Insekten haben (die sich wohl todt stellen, um nicht „zu viel“ zu thun, bei grosser Gefahr), hat sich Dank jener Falschmünzerei und Selbstverlogenheit der Ohnmacht in den Prunk der entsagenden stillen abwartenden Tugend gekleidet, gleich als ob die Schwäche des Schwachen selbst ― das heisst doch sein W e s e n , sein Wirken, seine ganze einzige unvermeidliche, unablösbare Wirklichkeit ― eine freiwillige Leistung, etwas Gewolltes, Gewähltes, eine T h a t , ein V e r d i e n s t sei. Diese Art Mensch hat den Glauben an das indifferente wahlfreie „Subjekt“ n ö t h i g aus einem Instinkte der Selbsterhaltung, Selbstbejahung heraus, in dem jede Lüge sich zu heiligen pflegt. Das Subjekt (oder, dass wir populärer reden, die S e e l e ) ist vielleicht deshalb bis jetzt auf Erden der beste Glaubenssatz gewesen, weil er der Überzahl der Sterblichen, den Schwachen und Niedergedrückten jeder Art, jene sublime Selbstbetrügerei ermöglichte, die Schwäche selbst als Freiheit, ihr So- und So-sein als V e r d i e n s t auszulegen.

(ニーチェ『道徳の系譜』第13節、1887年)



次のセットもメタ心理学的観点から大いに参考になる。



すべての善はなんらかの悪の変化したものである。あらゆる神はなんらかの悪魔を父としているのだ [Alles Gute ist eine Verkörperung des Bösen. Jeder Gott ist der Vater eines Teufels. Nietche](ニーチェ遺稿「生成の無垢」November 1882―Februar 1883 5 )

悪魔とは七日目ごとの神の息ぬきにすぎない……[Der Teufel ist bloß der Müßiggang Gottes an jedem siebenten Tage..](ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなによい本を書くのかーー善悪の彼岸の節」1888年)

エドゥアルト・マイヤー(1906)は、神の原初の性格像を再構築した。神は不気味なもので、血に飢えた悪魔であり、昼夜、歩き回る[Meyer das ursprüngliche Charakterbild des Gottes rekonstruieren: Er ist ein unheimlicher, blutgieriger Dämon, der bei Nacht umgeht und das Tageslicht scheut.](フロイト『モーセと一神教』2.4、1939年)


さらには、参照➤「フロイトの善人と悪人、あるいは偽善者