このブログを検索

2025年10月24日金曜日

美しい「銀のペニス」

 



いやあ、これは美しいなぁ、アイスランドのペニス博物館にある作品だそうで、アイスランドのハンドボールナショナルチームの方々のペニス模型らしいが[参照]。


昔、ソレルスの『女たち』を読んでひどく感心した文があるんだがね。



「男は、ひとりの女の振舞いのすべてを分別をもって理解することはできない」、とアントニオーニは言う。「私はスタンダールではないが、二つの性のあいだの関係はつねに文学の中心的課題でした…人々が別の惑星へ行って暮らすようになっても、相変らず事情は同じでしょう! 私にとって、女性は、おそらく男性の知覚よりも深いそれをもつものです。たぶんそれは次のことのよるのでしょうーーでも私の言っているのは愚かなことですーー、つまり彼女は、自分のうちに男性を迎え入れるように物事を受けとることに慣れていて、彼女の快楽はまさにそれを受け入れることにある、ということです。彼女は現実を受け入れるつもりでいる、あえて言うなら、完全に女性的な同じ姿勢のうちに。彼女は、男性以上、場合に応じて、ぴったり合った解答を見つける可能性をもっているのです」


「完璧だ!」、ぼくが言う。「言うことなし! 一等賞! オスカー! 金の棕櫚! 銀のペニス! プラチナのクリトリス! ブロンズのアヌス! 彼は目録に載せられる…総括的レジュメ!…」 (ソレルス『女たち』鈴木創士訳)



金の棕櫚やプラチナのクリトリス、ブロンズのアヌスをウエブで検索してみたが、残念ながら行き当たらないね。


ところで私は若い頃、ルーブルに訪れキクラデス諸島の彫刻の美に打たれ、半世紀近くの偏愛の対象なんだが、似てないかい、銀のペニスと。




以前、研究活動(?)に励んだことがあってね




これらは基本的に屍体と一緒に埋葬される永遠の女神なんだ。





もっとも私の好みはカリの張った亀頭形のトルソ部分だがね、









私の持っている模型は使いこみ過ぎて(?)黄ばんでしまったよ、


先の銀のペニスを書斎コレクション棚に加えたいんだがな






ま、もちろん江戸文化鼈甲芸術もすばらしいがね。





これやたらに高いんだよ、たぶん銀のペニスのほうがずっと安い筈。



いやあ、なぜか金子光晴の詩が向こうからやってきたな




十代 金子光晴



  十代


 僕の十代には、戰爭があって、

號外の鈴がいまでも、

耳にちりちり鳴っているが、

あの頃は、遠い霞のむこうだが、


 それでも、十代はたのしかった。

空は晴れて、瑠璃いろだったし

誰もしらないたのしいことが、

もちきれないほどたくさんあった。


二十代


 子供が大きくなったばかりの

二十代は腕白で、理不盡だ。

おもちゃを他人(ひと)に取られたように、

『あの娘(こ)が來ない』と泣きわめく。

失戀などということも二十代なら、

可笑しいどころか、いたいけなもので、

しんじつ慰めてやりたくなる。

そして、わが身をふりかえって、

も一度、二十代が來ないものかと

おもうのだが……。


三十代


 三十代と言えば、經驗もあり

先の見通しもきく筈なのに、

僕の三十代はいちばん苦勞が多く、

貧乏で、裸で、旅から旅ばかり、

三十代はもともと火の手の强い年代だが

僕の三十代は、戀愛もなく、野心もなく、

このばかやろがせいぜいのところで、

ほんとうにがらくたな三十だった。

上海で踝を踏んだ女の首を、パリの場末のバーの皿のうえにのってるのをみたヨカナンのように。

                       ――一つの白い腹に二つの臍のある女


四十代


 四十代になるのはやさしいことだ。

人は、ずるずると年をとるからだ。

花でいっぱいな人生にも、

輕石だらけな人生にも、

おなじように四十代が通りすぎる。

だがこの年頃のパズルは一番むずかしい。

これくらいの所というのも未練が多いし、

はじめからやり直すには、根(こん)がない。

塒(ねぐら)に歸りそこねて檣(マスト)の上を廻るはぐれ鳥、

あの鳥の鳴聲のあわれが耳に今も離れぬ。


五十代


 五十代とは、なんと、

しのこしたことの目に立つ年頃か。

そのくせ、やり直すには少し手遅れ。

「お若くみえます」などと言われると、

じぶんでもつい、そうかと思う。

だが、試すだけは試した方がいい。

見はてぬ夢とか、老らくとか

言われるほどの年ではない。

帆柱會の用も、蛇酒も無用、

まだまだ、自力で立つべきだ。


六十代


 六十代ともなれば男も、女も、

生えてくる毛がどこも、白い。

染毛劑はよくなったろうが、

染めている姿が困る場所もある。


 從って、萬端、むさくるしく、

人目に立つのがひけ目になるので、

出會茶屋の入口をくぐる勇氣もなく、

さあ、これからは何を賴りに生きるか。


ひとには言えないことではあるが、

娑婆氣の殘物(あら)は、どこへすてたものか。


七十歲


 七十歲というのは、

毛ごみのようなものだ。

毛ごみのなかにまじった、

干柿の種のようなもの。


 七十歲では戀人も來ない。

來てもなにもすることがない。

毛ごみを捨てた一匹の虱が

シルクロードを西に步いた。


 灰皿につめた煙草の煙が

その影を落す砂の風紋を越え、

戀人の膝を求めて旅をする。

七十歲を忘れるために。


八十代


 おいくつです?

いけません。もう八十です、ということになってしまった。

 親子兄弟妹と六人がとうに死んで、

のこっているのは僕一人だが、これは、

いったいしあわせなことか不仕合せか。

 とも角元はとったあとの、

利息のような日々なのだから、

遠慮勝ちに生きてればいい筈なのだが、

若いもののつもりでなくては氣に入らない。