いやあ、さる精神分析のエライセンセが土居健郎の甘えをめぐって《甘えを「愛着と依存を結びつける」概念と見なした土居の視点は、性的・攻撃的欲動を重視したS.フロイトよりも、「対象関係論的」であり、またD.W.ウィニコットやH.コフートらによる愛着や共感に基づく理論と強い親和性を持ち、さらにはボウルビィの示した愛着の視点の重要さと深い概念的なつながりがあったとみることが出来る。》ーーなどと記しているのを見てしまったので、エアリプしておくよ。
まず土居健郎から直接、4つの文を引く。
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①「甘え」という日本語特有の語
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甘えという言葉が日本語に特有なものでありながら、人間一般に共通な心理現象を表しているという事実は、日本人にとってこの心理が非常に身近かなものであることを示すとともに、日本の社会構造もまたこのような心理を許容するようにでき上がっていることを示している。言い換えれば甘えは日本人の精神構造を理解するための鍵概念となるばかりでなく、日本の社会構造を理解するための鍵概念ともなるということができる。(土居健郎『「甘え」の構造』1971)
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②甘えの心理的原型は母子関係における乳児の心理・母親に密着することを求めることが甘え
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発達的に見れば、甘えの心理的原型は母子関係における乳児の心理に存するということはあまりに明かである。〔・・・〕生まれたての乳児については、甘えていると言わないことにまず注意しよう。 大抵は生後一年の後半に、 乳児が漸く物心がつき、母親を求めるようになった時、はじめて「この子は甘えている」というのである。
すなわち甘えとは、乳児の精神がある程度発達して、母親が自分とは別の存在であることを知覚した後に、その母親を求めることを指していう言葉である。 いいえかえれば甘え始めるまでは、乳児の精神生活はいわば胎児の延長で、母子未分化の状態にあると考えなければならない。しかし、精神の発達と共に次第に自分と母親が別々の存在であることを知覚し、しかもその別の存在である母親が自分に欠くべからざるものであることを感じて母親に密着することを求めることが甘えであるということができるのである。
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〔・・・〕であるとすると、甘えるということは結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであるといえないだろうか。母子は生後は明らかに物理的にも心理的にも別の存在である。しかしそれにも拘らず甘えの心理は母子一体感を育成することに働く。この意味で甘えの心理は、人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、 分離の痛みを止揚しようとすることであると定義することができるのである。
〔・・・〕むしろ甘えなくしてはそもそも母子関係の成立が不可能であり、母子関係の成立なくしては幼児は成長することもできないであろう。
さらに成人した後も、新たに人間関係が結ばれる際には少なくともその端緒において必ず甘えが発動しているといえる。その意味で甘えは人間の健康な精神生活に欠くべからざる役割を果していることになる。(土居健郎『「甘え」の構造』1971)
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③フロイトの欲動に対する土居の甘え
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フロイドの理論と私の理論との間にずれがあるのは、何をもって解釈のための主要な概念としたかという点で彼我の間に相違が存したからであるということができる。すなわちフロイドは彼特有の本能概念(Trieb)を、私は「甘え」を鍵概念としている点が明らかに異なっているのである。(土居健郎「精神医学と言語」1981)
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ーーここで土居健郎は《フロイトの本能概念(Trieb)》としているが、当時は「本能」と訳されたが、本来的には「欲動」である。
④甘えは依存関係
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次に「甘え」の心理をどう考えるかという点について少し話をしてみたいと思います。これは日本人にとっては普通の言葉ですからすぐわかるけれども、先ほど申したように違う文化から見るとそれがいかにわかりにくいものかということがわかってくる。一口に「甘え」という状態はどういう場合に起きるかというと、これは人間関係の中で起きる。しかし人間関係がなくて「甘え」が起きるという場合もある。そういう場合は説明がちょっと難しくなります。
一番簡単な場合は子供が親に甘えている場合でしょう。これは相手と特別な関係にあって、相手によって愛されているというか、自分が相手に受け入れられているという感じがあって、ある種の一体感が経験されている場合です。これは満足している甘えですね。満足している場合は相手がこちらを受け入れている、それは相互的といいますか、こちらの要求を相手はわかっていて、わかってくれているということがこちらにもわかっている。そこで一体的な感情が起きていることになるのです。
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ところでこの状態をもう少し違う点から見てみますと、ふつう相互的といいますと、双方の立場がイコールなわけですね。相互依存というのがそれです。これに反して甘える関係というのは甘えを許容する相手、つまり甘えられる相手がいて、甘える人がいる、そういう一方的なベクトルが付されている関係であるということが言えます。したがって、そういう関係が成立するためにはこちらの気持ちを受け入れてくれる相手がいなくてはいけないし、この関係は非常に相手に寄りかかっているところがあるわけです。一体感と言いましたけれども、たとえば男と女が互いに愛し合って一体感を体験するのとはちょっと違って、この場合は双方の間にあるステータスの違いがある。これは英語で言いますとディペンダンスの関係、すなわち依存的な関係ということができます。要するに甘えは相手次第というところがあります。こちらは甘えたい、しかし向こうが甘えさせてくれればいいけれども、甘えさせてくれなければフラストレーションが起きる。ですから甘えという感情は、それが満足しているときは大変気持ちがいいけれども、同時に傷つきやすい状態です。もし満足が得られなかったら、すねたりひがんだり、ひねくれたり恨んだりします。このように甘えと関係していろんな語彙がもともと日本語に多いのには甘えの不安定性のためかもしれません。
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(土居健郎「甘えの心性と近代化」昭和62年10月)
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ーーそもそも『「甘え」の構造』は英訳では「The Anatomy of Dependence」(1973)である。つまり甘えを依存とすれば、日本独特の概念ではなく、誰にでもある。
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さてここで土居健郎が強調している③の「フロイトの欲動に対する土居の甘え」における欲動について見てみよう。
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フロイトにとって欲動はリビドー、つまりエロスと等価である。
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リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)
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すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年)
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そしてこの欲動というリビドーは不安に関係する。
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不安とリビドーには密接な関係がある[ergab sich der Anschein einer besonders innigen Beziehung von Angst und Libido](フロイト『制止、症状、不安』第11章 、1926年)
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この不安とは愛の喪失に対する不安であり、寄る辺なさ(トラウマ)と依存性に関わる。
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寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失に対する不安と名づけるのが最も相応しい[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden](フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年)
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不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)
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つまり欲動は依存性に関わるのであり、これは土居健郎の甘え概念に直接的に結びつく。
当時のことでやむ得ないにしろ、土居健郎はフロイトを十分に読み込めていないので、③のように言っているとすることができる。再掲しようーー《フロイドの理論と私の理論との間にずれがあるのは、何をもって解釈のための主要な概念としたかという点で彼我の間に相違が存したからであるということができる。すなわちフロイドは彼特有の本能概念(Trieb)を、私は「甘え」を鍵概念としている点が明らかに異なっているのである。》(土居健郎「精神医学と言語」1981)
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もうひとつ見てみよう、②の「甘えの心理的原型は母子関係における乳児の心理・母親に密着することを求めることが甘え」についてである。
まずAnlehnungをアタッチメント(愛着)と訳することから始める。
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独語の「Anlehnung」は語義的には英語の「attachment」に近似しているが、残念なことに英語で新語的な「anaclitic」に翻訳されたことで歪められてしまった。
The German word “Anlehnung” is semantically close to the English “attachment,” which was unfortunately distorted by the English translation into the neologistic “anaclitic” (VANHEULE & VERHAEGHE: IDENTITY THROUGH A PSYCHOANALYTIC LOOKING GLASS, 2012)
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さてフロイトの死の枕元にあったとされる『精神分析概説』にはこうある。
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子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある[Das erste erotische Objekt des Kindes ist die ernährende Mutter-brust, die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis.]。〔・・・〕
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最初の対象は、のちに、母という人物のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快と不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者」になる。[Dies erste Objekt vervollständigt sich später zur Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. ]
この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)
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引き続き母へのエロス的固着と依存性が語られている。
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母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)
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つまり土居健郎の甘え=依存関係が語られているのである。
しかもエロスとは先に見た通り、リビドー=欲動である。
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したがって母へのエロス的固着とは母への欲動の固着である。
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最初に母への固着がある[Zunächst die Mutterfixierung ](フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)
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初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen].(フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)
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幼児期のリビドーの固着[infantilen Fixierung der Libido]( フロイト『性理論三篇』1905年)
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幼児期に固着された欲動[der Kindheit fixierten Trieben]( フロイト『性理論三篇』1905年)
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固着は次のように説明できる。ある欲動または欲動的要素が、予想された正常な発達経路をたどることができず、その発達が制止された結果、より幼児期の段階に置き残される。問題のリビドーの流れは、その後の心的構造との関係で、無意識体系に属するもの、抑圧されたもののように振舞う。この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する。
Die Tatsache der Fixierung kann dahin ausgesprochen werden, daß ein Trieb oder Triebanteil die als normal vorhergesehene Entwicklung nicht mitmacht und infolge dieser Entwicklungshemmung in einem infantileren Stadium verbleibt. Die betreffende libidinöse Strömung verhält sich zu den späteren psychischen Bildungen wie eine dem System des Unbewußten angehörige, wie eine verdrängte.Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege
(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』「症例シュレーバー」第3章、1911年)
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先に見たように欲動は依存性に関わる。つまり原初にある欲動の固着とは母への依存性への固着である。
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この意味で土居健郎の言う「甘えの心理的原型は母子関係における乳児の心理・母親に密着することを求めることが甘え」とはフロイトの「母へのエロス的固着=母への欲動の固着」と等価である。つまり甘えを依存に置き換えてみれば、土居健郎の甘え概念は、事実上、フロイト理論内部にあるのである。
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ちなみに現代仏主流ラカン派(フロイト大義派)の分析基盤はこの固着である。
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分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
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ーー《フロイトは固着、リビドーの固着、欲動の固着を抑圧の根として位置づけた[Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement.]》 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)
ラカンは既に最初期のセミネールでこう言っている。
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問題となっている母は、いわゆる固着と呼ばれるものにおいて非常に重要な役割を担っている[la mère en question joue un rôle tout à fait important dans ce qu'on appelle les fixations ](Lacan, S1, 27 Janvier 1954)
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そして、晩年のラカンにとってこの母が現実界である。
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)
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母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16 Décembre 1959)
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以上
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※附記
なお欲動の普遍的性質は以前の状態への回帰=退行であり、固着への退行である。
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以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要)
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退行、すなわち以前の発達段階への回帰[eine Regression, eine Rückkehr zu einer früheren Entwicklungsphase hervorrufen. ](フロイト『性理論』第3篇1905年)
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固着と退行は互いに独立していないと考えるのが妥当である。発達の過程での固着が強ければ強いほど、固着への退行がある[Es liegt uns nahe anzunehmen, daß Fixierung und Regression nicht unabhängig voneinander sind. Je stärker die Fixierungen auf dem Entwicklungsweg, …Regression bis zu jenen Fixierungen ](フロイト『精神分析入門」第22講、1917年)
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別の言い方をすれば、欲動の対象は固着である。
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欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に「対象への欲動の拘束」がある場合、それを固着と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。
Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. [...] Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト「欲動とその運命』1915年)
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繰り返せば、欲動は依存性に密接に関係しており、この意味で、欲動の対象の原点にあるのは、母への依存性への退行である。④の土居健郎曰くの「甘え=依存関係」を援用するなら、母への甘えへの退行が、欲動の性質の原型である。
なおウィニコットの「依存性への退行」regression to dependenceについてもフロイトをいくらか読み込めば、フロイト理論内部にある[参照]。
これらは結局、中井久夫の云う次の事態に帰着する。
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フロイトの影響はなお今日も測深しがたい。一九三九年の彼の死に際してイギリスのある詩人は「フロイトよ、おんみはわれわれの世紀そのものであった」と謳ったが、それすらなお狭きに失するかもしれない。本稿においてはフロイトを全面的にとりあげていないが、それは、私見によれば、フロイトはいまだ歴史に属していないからであり、精神医学背景史とはなかんずく時間的背景を含意するからである。
フロイトは本質的に十九世紀人であると考える。二十世紀は、文学史におけると同じく第一次大戦後とともに始まると考えるからである。フロイトはマルクスやダーウィンなどと同じく、十九世紀において、具体的かつ全体的であろうとする壮大なプログラムのもとに数多くの矛盾を含む体系的業績を二十世紀に遺贈した"タイタン族"の一人であると思う。彼らは巧みに無限の思索に誘いこむ強力なパン種を二十世紀のなかに仕込んでおいた連中であった。このパン種の発酵作用とその波及は今日もなお決して終末すら見透かせないのが現実である。二十世紀思想史の重要な一面は、これらの、あらわに矛盾を含みつつ不死身であるタイタン族との、しばしば鋭利ながら細身にすぎる剣をもってする二十世紀知性との格闘であったといえなくもない。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)
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