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2026年1月9日金曜日

オレシュニクの陶酔

 

なんだ、みなさんさっそくオレシュニクに浮き立っているようだな、


夜の大火は人をいらだたすと同時に、心を浮き立たせるような効果を常に生むものである。花火はこの効果を応用したものだ。しかし花火の場合は、火が優美な、規則正しい形にひろがり、しかも自分の身はまったく安全なので、ちょうどシャンパン・グラスを傾けたあとのように、遊び半分の軽やかな印象しか残さない。ほんものの火事となると、話は別である。この場合は、夜の火の心浮き立たせる効果もさることながら、恐怖心と、やはりわが身に迫るなにがしかの危機感とが、見物人との間に(もちろん、家を焼かれている当人たちの間にではない)ある種の脳震盪めいた作用を惹き起こし、彼らの内なる破壊本能を刺激するような結果になる。しかも、この破壊本能は、悲しいかな! どんな人間の心の底にも、謹厳実直そのもののような家族持ちの九等官の心の底にさえひそんでいるものなのだ……この隠微な感覚は、ほとんどの場合、人を陶酔させる傾きがある。「火事というものを多少の満足感なしに眺められるものかどうか、ぼくはあやしいと思うね」とは、かつてステパン氏が、たまたま出くわした夜の火災からの帰り道、まだその引用がなまなましかったおりに、私に語った言葉そのままの引用である。(ドストエフスキー『悪霊』江川卓訳)


より深い本能としての破壊への意志、自己破壊の本能、無への意志[der Wille zur Zerstörung als Wille eines noch tieferen Instinkts, des Instinkts der Selbstzerstörung, des Willens ins Nichts](ニーチェ遺稿、den 10. Juni 1887



丸出しじゃないか、人間の本性を。



ドストエフスキーこそ、私が何ものかを学びえた唯一の心理学者である[Dostojewskis, des einzigen Psychologen, anbei gesagt, von dem ich etwas zu lernen hatte:](ニーチェ「ある反時代的人間の遊撃」第45節『偶然の黄昏』1888年)


ドストエフスキーの途轍もない破壊欲動彼は小さな事柄においては、外に対するサディストであったが、大きな事柄においては、内に対するサディスト、すなわちマゾヒストであった[daß der sehr starke Destruktionstrieb Dostojewskis, …also in kleinen Dingen Sadist nach außen, in größeren Sadist nach innen, also Masochist, das heißt der weichste, gutmütigste, hilfsbereiteste Mensch. (フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben1933年)


今みなさんがやってるのがリアルな欲動ってもんなんだよ


欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 1926年)


このリアルな欲動の別名が現実界の享楽だ。

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert, Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel (…) la mort, dont c'est  le fondement de Réel Lacan, S23, 16 Mars 1976)



みんなこれを内部に抱えているんだが、ふだんはいっちゃあいけないことになってるだけさ


本当のことを言うとね、空襲で焼かれたとき、やっぱり解放感ありました。震災でもそれがあるはずなんです。日常生活を破られるというのは大変な恐怖だし、喪失感も強いけど、一方には解放感が必ずある。でも、もうそれは口にしちゃいけないことになっているから。(古井由吉「新潮」20121月号又吉直樹対談) 


私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



で、このリアルな欲動が前回記した通り、永遠回帰する「力への意志=力への渇き」だよ。



すべての欲動の力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888

私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。

In den Griechen…IIch sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.

(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888

欲動、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[Triebe … "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"](ニーチェ「力への意志」遺稿, 1882 - Frühjahr 1887


逆に言えば、ときには自己破壊欲動を発散させないとな、抑え続けているとトンデモ暴発してしまうから。


抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。「どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。また、四十年間、営々と努力して市でいちばんおいしいという評価を得るようになったヤキトリ屋さんがあった。主人はいつも白衣を着て暑い調理場に出て緊張した表情で陣頭指揮をしてあちこちに気配りをしていた。ある時、にわかに閉店した。野球賭博に店を賭けて、すべてを失ったとのことであった。私は、積木を高々と積んでから一気にガラガラと壊すのを快とする子ども時代の経験を思い合わせた。主人が店を賭けた瞬間はどうであったろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



つまりオレシュニクの祭り程度で発散させるのはいいことかもしれないよ、謹厳居士でいるよりは。



自我に課せられるあらゆる断念や制限にあてはまることであるが、その禁制は周期的に打破されるのが常である。つまりそれは祭の制度に示されているとおりである。祭は、もともと法律で定められた放逸にほかならず、祭の快活な性格はこの解放に負っている。

Bei allen Verzichten und Einschränkungen, die dem Ich auferlegt werden, ist der periodische Durchbruch der Verbote Regel, wie ja die Institution der Feste zeigt, die ursprünglich nichts anderes sind als vom Gesetz gebotene Exzesse und dieser Befreiung auch ihren heiteren Charakter verdanken.

ローマ人のサトゥルヌス神の祭や現代のカーニバルは、その本質的な特徴という点では、原始人の祭と一致していて、平生は神聖視されている禁令を犯して、ありとあらゆる放縦に終わるのが常である。

Die Saturnalien der Römer und unser heutiger Karneval treffen in diesem wesentlichen Zug mit den Festen der Primitiven zusammen, die in Ausschweifungen jeder Art mit Übertretung der sonst heiligsten Gebote auszugehen pflegen. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921)



あの程度の祭りで発散させとけば、核戦争での残酷の享楽を防衛できるかもしれないからな


最も厳しい倫理が支配している、あの小さな、たえず危険にさらされている共同体が戦争状態にあるとき、人間にとってはいかなる享楽が最高のものであるか? [Welcher Genuss ist für Menschen im Kriegszustande jener kleinen, stets gefährdeten Gemeinde, wo die strengste Sittlichkeit waltet, der höchste?] 戦争状態ゆえに、力があふれ、復讐心が強く、敵意をもち、悪意があり、邪推深く、どんなおそろしいことも進んでし、欠乏と倫理によって鍛えられた人々にとって? 残酷の享楽[Der Genuss der Grausamkeitである。残酷である点で工夫に富み、飽くことがないということは、この状態にあるそのような人々の徳にもまた数えられる。共同体は残酷な者の行為で元気を養って、絶え間のない不安と用心の陰鬱さを断然投げすてる。残酷は人類の最も古い祭りの一つであるDie Grausamkeit gehört zur ältesten Festfreude der Menschheit.〔・・・〕

「世界史」に先行している、あの広大な「風習の倫理」の時期に、現在われわれが同感することをほとんど不可能にする……この主要歴史においては、痛みは徳として、残酷は徳として、偽装は徳として、復讐は徳として、理性の否定は徳として、これと反対に、満足は危険として、知識欲は危険として、平和は危険として、同情は危険として、同情されることは侮辱として、仕事は侮辱として、狂気は神性として、変化は非倫理的で破滅をはらんだものとして、通用していた! ――諸君はお考えになるか、これらすべてのものは変わった、人類はその故にその性格を取りかえたに違いないと? おお、人間通の諸君よ、互いをもっとよくお知りなさい!Oh, ihr Menschenkenner, lernt euch besser kennen! ](ニーチェ『曙光』18番、1881年)



ツイッター社交界のみなさんも炎上祭り等、力への渇きを小粒に発散させてるんだろうよ、


人はよく頽廃の時代はより寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残酷性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。しかし、言葉と眼差しによる危害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。

nur so viel gebe ich zu, dass jetzt die Grausamkeit sich verfeinert, und dass ihre älteren Formen von nun an wider den Geschmack gehen; aber die Verwundung und Folterung durch Wort und Blick erreicht in Zeiten der Corruption ihre höchste Ausbildung](ニーチェ『悦ばしき知』23番、1882年)


ボクもときにやりたくなるがね、でもツイッターでやるのは金輪際お断りだな。ブログにて遠巻にやるぐらいだよ、言葉と眼差しによる拷問は。健康のためにね。ーー《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである[Der Einwand, der Seitensprung, das froehliche Misstrauen, die Spottlust sind Anzeichen der Gesundheit]》(ニーチェ『善悪の彼岸』154番)