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2026年2月10日火曜日

否認された自責の投射としての他責妄想

 

昨日、2つの「他責」についてのツイートを拾った。




これはなかなか面白い。フロイト用語で言えば、自己非難の投射(投影)としての他者非難妄想、つまり否認された自責の投射としての他者妄想とすることができるだろう。


他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させる。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他者に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺ返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他者への非難の投射Projektion des Vorwurfes auf einen anderen は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされる。

Eine Reihe von Vorwürfen gegen andere Personen läßt eine Reihe von Selbstvorwürfen des gleichen Inhalts vermuten. Man braucht nur jeden einzelnen Vorwurf auf die eigene Person des Redners zurückzuwenden. Diese Art, sich gegen einen Selbstvorwurf zu verteidigen, indem man den gleichen Vorwurf gegen eine andere Person erhebt, hat etwas unleugbar Automatisches. Sie findet ihr Vorbild in den »Retourkutschen« der Kinder, die unbedenklich zur Antwort geben: »Du bist ein Lügner«, wenn man sie der Lüge beschuldigt hat. Der Erwachsene würde im Bestreben nach Gegenbeschimpfung nach irgendeiner realen Blöße des Gegners ausschauen und nicht den Hauptwert auf die Wiederholung des nämlichen Inhalts legen.In der Paranoia wird diese Projektion des Vorwurfes auf einen anderen ohne Inhaltsveränderung und somit ohne Anlehnung an die Realität als wahnbildender Vorgang manifest.

(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905年)



高市応援団だけじゃなく、反高市派も自責を否認して他責投射やってる限り、いつまでもダメだよ。ところがこれからも、篠田英朗氏が言うように他責の妄想が加速するんだろうな。ダメが雪だるま式になって奈落の底に向かうんだ。チガウカイ?



ま、ホントは政治が悪いのではなく、社会という一匹の巨獣が悪いんだよ、これは昔からだとはいえ、今はその巨獣がひどく肥ったんだよ。小林秀雄がそう言った時よりもさらにずっと肥ったんだ、SNSの多大なる貢献もあって。

「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本のところ何であるかにして、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望をし持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。

そういう人間が集まって集となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能であり、何を撫でれば喜ぶか、何れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っているが、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。

プラトンは、社という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代にく普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人びとが手を焼いている事もない。小さな集から大国家に至るまで、ってそれぞれの正義を主張して互いにる事が出ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社という言葉を思い附いたと言って、どうして巨を聖化する必要があろうか。

(小林秀雄「プラトンの「国家」」1959年)


これは日本だけのことじゃまったくないがね。


フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !

フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう

Avec une passion méchante, Flaubert collectionnait les formules stéréotypées que les gens autour de lui prononçaient pour paraître intelligents et au courant. Il en a composé un célèbre 'Dictionnaire des idées reçues'. Servons-nous de ce titre pour dire : la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues. La découverte flaubertienne est pour l'avenir du monde plus importante que les idées les plus bouleversantes de Marx ou de Freud. Car on peut imaginer l'avenir sans la lutte des classes et sans la psychanalyse, mais pas sans la montée irrésistible des idées reçues qui, inscrites dans les ordinateurs, propagées par les mass média, risquent de devenir bientôt une force qui écrasera toute pensée originale et individuelle et étouffera ainsi l'essence même de la culture euro-péenne des temps modernes.

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)



とはいえ日本には「みんなで渡れば怖くない」精神が他国に比べて著しいからな、つまり巨獣の一丸度がきわめて高いんだよ。



伝統的にロシア(ソ連)に対して悪いイメージが支配する日本の政治・社会がロシアのウクライナに対する武力侵攻に対してロシア非難・批判一色に染まったのは、予想範囲内のことでした。しかし、一定の肯定的評価を得ている学者、研究者、ジャーナリストまでが一方的な非難・批判の側に組みする姿を見て、私は日本の政治・社会の根深い病理を改めて思い知らされました。〔・・・〕日本の政治・社会の際立った病理の一つは、「赤信号一緒に渡れば怖くない」という集団心理の働きが極めて強いということです。ロシア非難・批判一色に染まったのはその典型的現れです。(東アジアの平和に対するロシア・ウクライナ紛争の啓示 浅井基文 3/21/2022


◼️『加藤周一講演集2 伝統と現代』(1996)より

 まァどこの国でもそういう面はあるかと思いますが、殊に日本の社会では集団指向性が強い。"みんな一緒に"という傾向。横断歩道を渡る時も()みんなで一緒に渡ろうとするし、遊ぶ時もみんな同じ遊びをということが多い。文化的にも、あるいは娯楽の面でさえも、また政治にも付和雷同性がある。何かがあるていど流行しだすと、みんなそこへ行く。だから歯止めがない。社会がまずい方向に動き出しても、付和雷同し、その動きが雪だるま式に大きくなる。これは非常に危険です。その歯止めは個人主義のほかにないでしょう。日本では個人主義を付和雷同性の解毒剤として、強化する必要があります。


こんなこと言ってもムダだとは思うが、取り調べ先は他者よりも先に自分だよ、《他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。》(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)。


他責が絶対的に悪いとは言わないでおくが、まずは自責してみることだね、例えば、オレはなんであんなに馬鹿だったんだろう、と。