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2026年2月9日月曜日

人格を分けてみれば、自己(self)と「自己から解離されたもの (what is dissociated)」(あるいは「人格残余部」 the rest of personality) からなる(中井久夫=サリヴァン)

 

少し前、次の文を引用した。

外傷神経症〔・・・〕その主な防衛機制は何かというと、解離です。置換・象徴化・取り込み・体内化・内面化などのいろいろな防衛機制がありますが、私はそういう防衛機制と解離とを別にしたいと思います。非常に治療が違ってくるという臨床的理由からですが、もう少し理論化して解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。〔・・・〕

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



私はサリヴァンにまったく無知なのだが、少しワケありで1990年に上梓された中井久夫の「サリヴァンの精神分析病論」を初めてじっくり読んでみた。「1、臨床的基盤」「2、一般理論と発達理論」「3、精神分裂病の発病と回復」「4、治療」「おわりに」とある第二章をここでは掲げる。


◼️中井久夫「サリヴァンの精神分析病論」初出1990年『精神科医がものを書くとき II』所収

  一般理論と発達理論

彼は、精神医学は何よりもまず「対人関係の学」であるという。実在するものは、物理学の場と等価な「場」(field) としての「対人の場」 (interpersonal situation) であり、個々人はその一部である。晩年に至っては、対人関係の数だけ人格があるとさえ極言している。対人関係の場を離れて個人 (individual)というものがあるというのは妄想であると彼は繰り返し述べている。


したがって、精神医学の方法は「関与的観察」(participant observation) しかないと彼はいうが、ここで注記しておきたいのは、 participationとは即融」という訳があるように、「関与」という用語よりも、おそらくかなり強い意味であり、したがって観察者は場の一部と化していて、そういうものとしての限られた価値の観察しか不可能であるが、しかし対人関係について多少とも科学的な陳述は他に不可能であるというのである。


彼が『精神医学的面接』の中で述べている面接体験によれば、一回の面接の間に無数の「パラタクシス的な影武者」(parataxic concomitants) が面接室を出入りするので慄然としたという。彼の「パラタクシス」という用法にはいろいろあるが、すべて、相矛盾する多重性が同時に存在することであり、この場合、過去の患者(および治療者)

の対人関係に登場する人物が面接の進行とともに部屋に出没したということである。そういう亡霊が渦巻くのが、複雑な磁場のような彼の対人の場なのであり、彼にとっては、それがほとんど目に見えるものであったとさえいえそうである。


彼は、その一般理論の上にたって、対人関係をもとにした発達論をつくり、飢え・渇き・親密性などを求める「満足」(satisfaction)の欲求と、心理的・社会的な意味での「安全(保障)(security)の維持欲求とを、人間が対人の場において追求する二大目標としている。彼は動物にも前者だけでなく後者をも認めるのにやぶさかではない(実際、愛犬家の彼は子犬の観察によって得たものを発達論に織り込んでいる)が、無力・無防備な幼児として生きる期間の長い人間は、安全の追求と確保に大きな比重をおかなければならないと彼はいう。彼は、快楽追求よりも、存在の脅威からの回避に、人間行動の主な動因をみている。


彼は出生直後の母子相互作用、とくに授乳の場から始める。「プロトタクシス」的混沌の中から姿を現すのが、まず乳首である。これによって満足の得られない場合、とくに母親が不安な場合に、不安が(エンパシーによって)伝染して幼児が不安になるところから、幼児と母親との間には、人間の種々の対人操作 (interperrsonal operation) が始まる。この相互作用は最初は乳首であるが、ついで「よいお母さん」「わるいお母さん」「よい自分」「わるい自分」「自分でないもの」などの「擬人存在」(personifications) が分化する。これが一つに統一されてゆくのが小児期である。小児期は言語発達を介して、学習 (learning) ()を推し進め、この過程を促進する。言語自身の発達は、これまた、まったくの混沌である「プロトタクシス的」なものからその人限りの意味が混ざる「パラタクシス的」な言語を経て一般的一義的に通用する「シンタクシス的」な言語へと発達する。


彼はフロイトの快楽原則に異議を唱えていることになるが、安全保障感の追求の優先順位のほうが高いのは、おそらく分裂病と強迫症を中心として考えるときの自然的結論であろう。また彼にとって「不安」とは、安全保障感の脅威されている感覚であり、人間は「不安」によって、社会的安全を保障されない欲求や傾向性を「意識」 (awareness) から排除する。彼の「人格」 (personality) は、さまざまな力動態勢 (dynamism) 編成 (organize) されたものである(この語は、師ホワイトのmental mechanismを意識して、対抗的に作製されたもので、精神分析が防衛機制 (defense mechanism)と呼ぶものを含んでいるが、彼はこれを満足あるいは安全の追求のために対人関係を結ぼうとする傾向性としている)人格を分けてみれば、自己(self)と「自己から解離されたもの (what is dissociated)(あるいは「人格残余部」 the rest of personality) からなる。「自己」とは、社会学者GH・ミードの意味で、「周囲の重要人物の是認と賞賛からつくられたもの」であり、これが不安を番犬のように配置して周到に意識を監視し、意識から安全に関して都合の悪いものを、不安というきわめて不愉快なものを通じて排除する。システムとして、「自己」はこのように機能しつつ、対人的な経験を取り込んで成長する(これはすべてのダイナミズムの特徴であって「自己」自身も一種の力動態勢であるとサリヴァンはいっている)。睡眠と覚醒においては「自己」とそれ以外のものとの関係が異なるが、睡眠においても「自己」の活動は通常進行しており、ただ力が弱まっているだけとして、一般に「自己」と「解離されたもの」と「睡眠」の三つを組み合わせて眺めるとよい(三本柱的観点 tripartite view) と述べている。これは「自己」と「自己から解離されたもの」とを「覚醒時」と「睡眠時」の二つの相においてみるという意味に読むとわかりやすいだろう。彼は夢判断に深入りはしないが、夢、とくに悪夢を重視している。


さて「自己」が是認する力動態勢は意識の中に安んじて含まれうる。もっとも、意識の中に含まれないものはすべて解離されたものではなくて、意識が注意を絞るためにはなくてはならない健康な「選択的非注意」もあり、意識されないものがすべて解離されたものではない。彼は無意識という言葉を(おそらく語の含む矛盾ゆえに)使用せず、暗在性過程 (covert process) というが、解離されたものはその一部にすぎない(最晩年には彼は解離を重視しすぎたといっている) 解離 (dissociation)とは、それを意識の中にもち込もうとすれば、人格の分裂でなく端的な解体が起こるようなもので、それを防止するべく大きな不安が起こる。したがって、解離といえば、ヒステリー性障害が頭に思い浮かぶが、彼はヒステリーの解離は解離の戯画にすぎないといっていて、分裂病の場合の「解離」はほとんど「排除」「否認」といってもよいかもしれない。


しかし解離は万能ではない。一般に、性欲や親密性などの満足を求める力動態勢には目標があり、力動態勢が目標を達成すれば、その対人関係を結ぼうとする傾向性は弱まり、場は消失に向かう。ところが、満足の追求によって対人的安全への脅威が起こるときに、これに対処しようとする安全保障に関係した「困難の力動態勢」 (dynamisms of difficulty) は、 目標に達して消失することがない場合が少なくなく、いくらでも続き、いくらでも肥大する傾向があり、これを介して造られる対人の場が前面に出ると、人格の障害が生じてきかねない。これらは昇華、恐怖、代理症( 心気症、強迫症、妄想症)、嫉妬、解離などの力動態勢である。とくに単一の力動態勢であらゆる種類の問題に対処しようとする生き方は危険である。力動態勢は過度に負荷されると失調する。また発達を妨げられる。とくに性欲のような重大な力動態勢を解離しておくと非常に危険である。分裂病も一つの力動態勢であるだろうという示唆を述べているが、その意味にはほとんど立ち入っていない。


彼は分裂病の病因的事態を単純に幼児期に求めようとはしない。さりとて、よくいわれているように前青春期におくわけではない。分裂病からの回復のさいに、前青春期において有意義な「愛」、すなわち相手の満足と安全を自分と同等以上に評価・尊重することを体験していないものは、絶望して「破瓜型荒廃」 (hebephrenic dilapidation) に陥り、前青春期の相手から(相手のほうが異性愛を特徴とする青春期に進み入ったために)置き去りにされた者は、妄想型的解決 (paranoid solution) に赴きやすいという。すなわち、急性分裂病の発病以後の持続的危機を支えとおす力を前青春期体験においている。逆にいうと、彼は前青春期の「親友」(chum)による「親密」 (intimacy) 体験を、それ以前の不利の取り返しをつけうる 「修正体験」 (corrective experience) として評価し、臨床実践にもち込もうとする。これは当時、分裂病(とくに妄想型)の発病と同性愛との関連がフロイトのシュレーバー症例の発表を契機に、アメリカでの臨床例の多さを背景にして、アメリカ精神医学では最近まで常識とされてきた。たとえば、師のE・ケンプの教科書では、急性精神病に当たるものを「急性同性愛性パニック」と命名しているのであるが、このことに対する異議申し立てである。ただし彼は、この時期の「相手の満足と安全を自分のそれらよりも優先させる」愛の体験を指しているので、通常の同性愛を擁護しているわけではない。これは、彼が同性愛者であったかどうかという議論とは別の事柄である。



なお、中井久夫は後年、「統合失調症の底にあるトラウマ」と要約できることを言っている。


さてここでの叙述はいろんな意味で私には面白い。今は長くなりすぎるので僅かに触れるだけにするが、特に中井久夫=サリヴァンの《人格を分けてみれば、自己(self)と「自己から解離されたもの (what is dissociated)(あるいは「人格残余部」 the rest of personality) からなる》。


フロイト・ラカン文脈では'rest'は「残滓」と訳されることが多いが、ラカンの対象aはこの残滓である。


残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  (Lacan, S10, 21 Novembre  1962ーーより詳しくは▶︎参照


しかも、ラカンは残滓に関して「分裂」と言っているが、フロイトはこの語を解離と等置している。

われわれは意識内容の解離-分裂を想定している[wir die Annahme einer Dissoziation – Spaltung des Bewusstseinsinhaltes ](フロイト書簡 Brief an Josef Breuer und Notiz III, 1892)

ヒステリー性解離の起源(意識の分裂)[die Entstehung der hysterischen Dissoziation (Bewußtseinsspaltung).

(フロイト『精神分析について(五つの講義)』第二講 Uber Psychoanalyse, 1910年)


さらに最晩年のフロイトには自我分裂概念がある。

欲動要求と現実の抗議のあいだに葛藤があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている。Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen.  (フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)

自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


この自我分裂[Ichspaltung]概念を自我解離[Ichdissoziationとするなら、ラカンの「斜線を引かれた主体」($)の基盤は「解離された主体」とすることができる。ーー《ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  ]》(Christian Hoffmann, Pas de clinique sans sujet, 2012)。「残滓=分裂=解離」としての対象a用語を使えば、《対象aは主体自体である。le petit a est le sujet lui-mêmea ≡ $ 》 (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)である。


もうひとつ冒頭の文で中井久夫は解離とフロイトの排除を等置しているが、上でフロイトが「エスへと抑圧されている(verdrängt dem Es)」と言うときの抑圧は抑圧の第一段階としての原抑圧である。


われわれには原抑圧、つまり、抑圧の第一段階を仮定する根拠がある[Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung(フロイト『抑圧』1915年)

原抑圧の名は排除と呼ばれる[le nom du refoulement primordial…s'appelle la forclusion(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 26 novembre 2008



要するに、フロイトが《抑圧された欲動[verdrängte Trieb]》(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)という時、《排除された欲動 verworfenen Trieb]》(『快原理の彼岸』第4章、1920年)であり、厳密に言えば《原初に抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe]》(『症例シュレーバー 』第3章、1911年)なのである。さらに中井久夫曰くの「排除=解離」を受け入れるなら、「解離された欲動」ということになる。


ここでは当面、以上にしておこう。