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2026年3月24日火曜日

みぎわの箱庭

 


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どうして瀬尾夏美さんの「みぎわの箱庭」に触れる人が少ないのだろう。私自身、今年の3月11日を契機に初めて知ったのだが、強く打たれた。人が触れないのは、何かの理由があるのだろうか?


みぎわの箱庭


みぎわの箱庭  瀬尾夏美


それは、春になる前の寒い日のこと
午後の仕事が落ち着いて、
ちょうどひと息入れようかというころにね
大きく大きく、地面が揺れた


遠くの海がたちまちふくれ、
そのままぱちんとはじけてしまって、
まちに覆いかぶさった


雪降りの夜が明けて、
浮かびあがってきた風景に
みなが立ち尽くしていたときにね
男の人たち、壊れたまちまで降りて、
生き残った人を探したんだよ


毎日毎日探してね
助けられた人もいたと思うが、ほとんどは死んだ人だった
きれいに並べたその身体に、まちの人らは別れを告げた


やがて海は戻っていって、暮らしは落ち着いたんだけどね

ある男だけは、人を探しつづけていたんだって


あまりに毎日探すから、

誰かに会えたかと問う人がいてね

男はね、

会えなかったけど

たくさん話を聞いたと答えて、

つづけて何かをしゃべろうとしたみたいだけどね

そのままぴたっと声が出なくなってしまったんだって


つぎの日、

いつものように出かける男を見た人がいたそうだけどね

とうとう戻ってこなかったんだって


荒野に草が伸びたころ、
波に置いていかれた種が、山際にたくさんの花を咲かせたんだよ
その花畑には、生きている人も死んだ人もその場所にいない人も、
みな一緒にいることができた
死んだ人は、
この花畑は永遠だと言ったが、
生きている人は、
そんなことはないと言ったね


二年くらいそんな時間があったみたいだけどね
ある朝ふと見あげると、あたらしい地面がぽっかりと浮かんでいたんだって
それで、生きている人は、
さっそく上がってみようと言ったんだけどね
死んだ人は、ここに残ると言ってうごかなかった


最初のころは行き来もあったみたいだが、
しばらくすると、上にもまちが出来てね
生きている人は、すっかりそちらで暮らすようになった


生きている人は、
下のまちを忘れていくと言って泣いたが、
その場所にいない人は、
何もかも忘れないと言って笑っていた
死んだ人はもうあまり喋らなかったが、時おり歌をうたっていたね


海風と山風がちょうどぶつかるから、
上のまちはいつも大風なんだよ

でもね、ある昼下がりにほんのすこしだけ
風が止むことがあったんだって
すると、足元から声が聞こえてね
女が地面に耳をつけると、なにやら歌のようだって


その歌をよく聞きたかった女が、
地面を掘って掘って進んでいくと、目の前がぱっと開けてね
そよそよと揺れる広い草はらに着いたんだって


あたりにはぽつぽつと人がいたそうだが、
うたっていたのは、壊れた塀に腰かけた初老の男だった
女はね、その人に頼んで、歌を教えてもらったんだって
初めて聞く歌なんだけど、なんだか懐かしいような感じで、
すぐに覚えられたんだって


しばらくふたりでうたっていると、
はるか天上から娘の泣き声が聞こえてね
女は帰ることにした


それから何日か経ったある日、
女が娘と、地底で聞いた歌をうたっていたら、
歌を教えてくれたあの男が
とても親しい人だとわかったみたいなんだけどね
どうしても名前が思い出せなかったんだって


その歌がね、いま子どもたちがうたっている歌だよ
女が掘った穴がこのまちのどこかにあって、
下のまちにつながる階段になっているんだって


ごらん
このまちの風景は、
そうやって出来たんだって



横浜市民ギャラリー】小森はるか+瀬尾夏美インタビュー


◼️小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』インタヴュー

OIT:話は飛びますけれども、震災が2011年に起きて、お二人はボランティアに参加されましたね。


瀬尾夏美:私達の卒展が終わった直後に震災があったんです。卒展の運営の時も下っぱとして二人とも一生懸命働いてて、その流れで卒展の運営をする人達でコミュニティが出来たりしていて、私の家が当時シェアハウスだったので、友達がみんなが集まる避難所みたいになってたんですよ。小森さんの家もそこから歩いて15分くらいの所にあった。やっぱり震災後の雰囲気で、みんなアーティストに何が出来るのか?みたいな大きな議題で話したりするんですが、私は結構現場に行って何か見ないとわからないと思ってしまうタイプで。芸大の友達はあんまり実際に行こうみたいな話にはならない中、話に乗ってくれたのが小森さんだった。結局私は行きたいっていうだけで何も調べなくて、ちゃんと調べて行けるようにするのが小森さん(笑)。


OIT:お二人の間にそういう役割があるわけですね。


瀬尾夏美:だいたいいつもそう。


小森はるか:それがずーっと今も続いてるんです。私は、あんまり何か思いつくっていうことがなくて、自分から何をどうしたらいいとか見つけられないタイプなんですけど、誘ってもらったらすごく嬉しい。誘ってもらった時に、じゃあそこで何が出来るかなっていうのを考えるのが自分としてはやりたい事に近い。ボランティアに行くことは思いつかなかったんですけど、そんな手があったのかと思って、だったらどういう風に行けるかっていう下準備を一生懸命やる事で、何も出来ないうしろめたさから解放されていたと思います。


OIT:それで、最初はお二人でボランティアのつもりで行ったわけですが、結局、住み始めて創作活動も始めていくっていう事になる。


瀬尾夏美:そうですね。


"Double Layered Town / Making a Song to Replace Our Positions" by Dir. KOMORI Haruka & SEO Natsumi






◼️小森はるか『息の跡』インタヴュー

OIT:お名刺を拝見すると、肩書きが、映画作家じゃなくて、映像作家なんですね。それはご自分なりの考えがありますか?


小森はるか:あると思います。まず私が通った学科は先端芸術表現科っていうところで、映像に限らず、踊る人もいるし絵を描く人もいるし、自分が伝えたいことに合わせてメディアを自由に選んでいいっていう学科なんです。映画の学科がある美大を受けようとは思っていました。それは映画を作りたいっていうよりは、物を作る時に自分は不器用だしセンスもないから、映画なら共同作業なので、わたしでも関わるのりしろがあるんじゃないかなという感じだったんです。舞台美術とか何でも良かったんですけど、何かの一員になって物作りが出来るなら居場所があるだろうくらいに思って映画にしたんです。


OIT:非常に謙虚な理由ですね。


小森はるか:他に思いつかなかったんだと思います。それでたまたま映像だったんですけど。先端芸術表現科に進学しましたが、そこは映画を教えてくれる学科じゃなかったんです。だけど、なぜわたしは映像で表現するのかってことを根本から考えなければならなかった。その後、映画美学校に通うんですけど、そこではじめてわたしが思っていた「映画」とは全く違う「映画」と呼ばれるものを知って、とても興味を持ちました。だけどその「映画」っていうものとも、大学で私が作ってた作品は違うような気がしました。私がやってるのは映画でもないんだなって思ったんですよね。


OIT:だから映画作家とは言いづらい?


小森はるか:言えないですね。


OIT:映像作家っていう方が、幅広くて、まだ自分らしい、映画と言われている枠がむしろちょっと限定され過ぎてるんじゃないか、原理的過ぎるんじゃないかという感覚ですか?


小森はるか:そんな気はします。


OIT:でも蓮實重彦さんには映画であると言われてしまった。


小森はるか:蓮實さんは言ってくれたけど、誰が見ても「映画」と呼べるものではないものをつくっている気がします。私自身も映画だと思ってないです。それがもしかしたら、あと100年とか経ったら、それが映画と普通に呼ばれてるのかもしれないけど。とにかく映像を使って何かをやってる人だっていうくらいでいいというか。


OIT:自分がその方がいい?


小森はるか:そうですね。







◼️小森はるか『空に聞く』インタヴュー

OIT:ところで、小森さんが映画を作る時、どういう人が見るとか、観客って想定されますか?


小森はるか:『息の跡』から考えるようになったかもしれない。観客っていうと漠然としてますけど、やっぱり自分がいない場所でもその作品が見られるとか、作品が自立していていくっていうことを、以前は全然考えてなかったと思います。それまでは自分の手元に持っているものとして作品があったけど、多分そうじゃないんだなっていう風に、作る段階から意識するようになったのは『息の跡』を公開してからですね。


OIT:いろいろな方に絶賛されたり、蓮實重彦さんとかにも見つかってしまって(笑)。


小森はるか:それが影響してるのかな、どうなんだろう、そういう部分もあるかもしれません。


OIT:そういう見る人の存在が小森さんの中で生まれてきたっていう。


小森はるか:本にちゃんと見てくれる人がいるんだっていうか、自分しか見ていなかったものが受け取ってもらえた実感ってなかなか学生の時は得られなかったです。私以上に観客の方が見えているものがあったり、佐藤さんとか阿部さんの想いがわってたりするっていう経験はなかったですから。学生時代は、どう講評されるかとか、そのくらいしかないから、いたっていう実感を得られたっていう意味では大きいですね。


OIT:ペドロ・コスタが観客のことを考えますかって質問されて、いや全く考えない、何故なら観客を完全に信頼しているからって言っていました。ペドロ・コスタの映画は観客にある種の忍耐を強いる映画ですけど、観客は逃げ出す人もいるかもしれないけど、忍耐強く付き合って、ちゃんとスクリーンを見続けて、観客なりに何かを考えたりすることができる、そういうことをコスタも経験上学んだんだと思いますけど。


小森はるか:そうですね、なるほど、信するっていうことなんだなぁ。


OIT:ところで本題に戻りまして、阿部さんのご家族の写真が出てきたんですけど、僕はこれを見ていた時に、阿部さんのご家族が何で映画に出てこないんだろうとは思わなかったんですけど、恵比寿で上映した時に、その後のQ&Aで何でご家族が出てこないんですか?っていう質問があったんですよね。何かその点について、小森さん的にはありますか?


小森はるか:そうですね、阿部さんのご家族が出てくるっていうことは、阿部さん自身が負った、被災した傷にれることになるなと思っていて、それをやりたいって思わなかったんですよね。もちろん亡くなられたご両親のことや、旦那さんと娘さんが無事であるっていうことを別にしたいとか、無視したいわけではないんですけど、そこに踏みむことをしたくて阿部さんを撮っているわけではなかったんです。阿部さんっていう一人の人を撮りたいということですね。阿部さん自身もおっしゃってたんですけど、本に多くのまちにいたはずの人たちがいなくなってしまった悲しみって、ただ家族を失ったっていうこととはきっと違うと思うんだよねということを話していて。私も陸前高田にいながら、分からないなりにそのことをすごく感じていました。もちろん個人個人の抱えている悲しみもあると思うんですけど、そうではないまち全が失ったものとか、そのまちの人たちと亡くなられた人たちのがりとかがあって。そういうものを撮りたい、阿部さんの語りにはそれが映るようながしたので、阿部さん個人の家族に焦点をあてるっていうことをしなかったのかなと思います。実際撮れなかったと思いますし。






◼️震災後の陸前高田、あるラジオ・パーソナリティの物語/映画『空に聞く』予告編

『息の跡』の小森はるか監督最新作『空に聞く』が20201121日より公開。かつての町の上に、新しい町が作られていく。震災後の陸前高田で、いくつもの声を届けたあるラジオ・パーソナリティの物語。


東日本大震災の後、約三年半にわたり「陸前高田災害FM」のパーソナリティを務めた阿部裕美さん。地域の人びとの記憶や思いに寄り添い、いくつもの声をラジオを通じて届ける日々を、キャメラは親密な距離で記録した。津波で流された町の再建は着々と進み、嵩上げされた台地に新しい町が造成されていく光景が幾重にも折り重なっていく。失われていく何かと、これから出会う何か。時間が流れ、阿部さんは言う————忘れたとかじゃなくて、ちょっと前を見るようになった。


監督は、震災後のボランティアをきっかけに東北に移り住み、刻一刻と変化する町の風景と出会った人びとの営みを記録してきた映像作家の小森はるか。傑作『息の跡』と並行して撮影が行われた本作は、映像表現の新たな可能性を切り拓くことを目的としたプロジェクト「愛知芸術文化センター・愛知県美術館オリジナル映像作品」*として完成。あいちトリエンナーレ、山形国際ドキュメンタリー映画祭、恵比寿映像祭と立て続けに上映され、先鋭的なプログラムの中でもひときわ大きな反響を呼んだ。