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2026年3月31日火曜日

日本を奈落の底に突き落としつつある「あの犯罪人」の理論判断と実践判断

 


例えば、或る人が悪意のある嘘をつき、かかる虚言によって社会に或る混乱をひき起こしたとする。そこで我々は、まずかかる虚言の動因を尋ね、次にこの虚言とその結果の責任とがどんなあんばいに彼に帰せられるかを判定してみよう。第一の点に関しては、彼の経験的性格をその根源まで突きとめてみる、そしてその根源を、彼の受けた悪い教育、彼の交わっている不良な仲間、彼の恥知らずで悪性な生まれ付き、軽佻や無分別などに求めてみる。この場合に我々は、彼のかかる行為の機縁となった原因を度外視するものではない。このような事柄に関する手続は、およそ与えられた自然的結果に対する一定の原因を究明する場合とすべて同様である。しかし我々は、彼の行為がこういういろいろな事情によって規定されていると思いはするものの、しかしそれにも拘らず行為者自身を非難するのである。しかもその非難の理由は、彼が不幸な生れ付きをもつとか、彼に影響を与えた諸般の事情とか、或いはまたそればかりでなく彼の以前の状態などにあるのではない。それは我々が、次のようなことを前提しているからである。即ち――この行為者の以前の行状がどうあろうと、それは度外視してよろしい、――過去における条件の系列は、無かったものと思ってよい、今度の行為に対しては、この行為よりも前の状態はまったく条件にならないと考えてよい、ーー要するに我々は、行為者がかかる行為の結果の系列をまったく新らたに、みずから始めるかのように見なしてよい、というようなことを前提しているのである。行為者に対するかかる非難は、理性の法則に基づくものであり、この場合に我々は、理性を行為の原因と見なしているのである、つまりこの行為の原因は、上に述べた一切の経験的条件にかかわりなく、彼の所業を実際とは異なって規定し得たしまた規定すべきであったとみなすのである。(カント『純粋理性批判』) 


…………


『純粋理性批判』は、「理論的」な立場において、自己や主体や自由を証明する議論を形而上学として論駁することを目指している。一方、『実践理性批判』は、自然必然性が括弧に入れられた位相において、自己・主体・自由がいかにしてあるかを問うものである。実際には、われわれは行為において様々な選択をすることができる。それがどこまで自然必然性によって強いられているのかわからない。その結果、ある程度原因による決定を認め、ある程度自由意志を認めることになる。たとえば、ここに一人の犯罪者がいる。彼の犯罪にはさまざまな原因――社会的なものもふくめて――がある。それらの原因を数え上げていけば、彼は自由な主体ではなく、したがって、責任はないということになるだろう。人々はそのような弁護・弁明に憤激し、その犯罪者に選択の自由があったはずだと考える。即ち、人間がさまざまな因果性に規定されていることを認め、他方で自由な意志を認めるというのが常識的な考えである。


しかし、カントはそのような中途半端な考え方を斥けている。むしろ、われわれは自由意志などないと考えなければならない。われわれが自由な選択だと考えるものは、原因に規定されていることが十分にわからないからにすぎない。そう考えたとき、はじめて、「自由」はいかに可能かということが問われるのだ。原因を問うという「理論的な」観点からは、自由も責任も出てこない。では、自由も責任もないのか。カントの考えでは、その犯罪者の自由と責任は、因果性を括弧に入れたときに生じる。彼に事実上自由はなかった。にもかかわらず、自由であるとみなさなければならない。これは「実践的な」観点である。

(柄谷行人『トランスクリティーク ーーカントとマルクスーー』第一部・第3章「Transcritique」2001年)


❖カント自身の引用を含めてより詳しくは、柄谷行人=カントの「括弧入れ=無関心」


で、この立場に立って言えば、日本を奈落の底に突き落としつつある「あの犯罪人」は、理論判断としては責任はない。あの人物は悪い教育を受けて来たということもあるが、何よりもまず米国の操り人形に過ぎないから(参照:高市は操り人形)。だが実践判断としては大いに責任がある、ということになる。


私はしばしば因果性、つまり理論判断を強調し過ぎる傾向があるが、実践判断を忘れているわけではけっしてない。


ただし日本言論界では原因を問わない精神があまりに多いように見えるために、理論判断を忘れてはいけないと言っているつもりである。


重要なのは、〔・・・〕マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしに存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』「第二部・第一章 移動と批判」2001年)




なお柄谷行人は後年の「丸山真男とアソシエーショニズム」(2006年)にて、この文脈のなかで次の文を引用している。

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。


イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。

ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あそこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないんじゃないですか。


人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていいたくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思うんです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけではなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間が見えなくなったところからきている。

しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山眞男『丸山座談5』針生一郎との対談)

❖参照:パララックス・アンチノミー・トランスクリティーク