やあ、素晴らしいハメネイ師の写真だな
《植樹はまったき宗教的かつ革命的行為》か。やっぱり木を植えないとな、私が愛してきた言葉に、《たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、 私は今日りんごの木を植える(Wenn ich wüsste, dass morgen die Welt unterginge, würde ich heute noch ein Apfelbäumchen pflanzen)》がある。かつてはマルティン・ルターが言ったとされていたが、現在は第二次世界大戦後の絶望と希望の間の揺れ動きのなかでの誰とも知れず湧き起こった言葉されている。
植樹する場がなければ水撒きだけでもいいよ。
ボクはこれが日課だがね。日々繰り返していると、水撒きがーー革命的行為かどうかはいざ知らずーー、宗教的行為という気はしてくるね。つまり祈りだと。挿し木なんかしたときはことさらにそうだよ、2週間ほどは朝晩水をやって「生きてくれ」と祈りながら過ごすからな
武満はこう言っていた、ーー《私は音楽の形は祈りの形式に集約されるものだと信じている。私が表したかったのは静けさと、深い沈黙であり、それらが生き生きと音符にまさって呼吸することを望んだ。》(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』1971年)
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私が愛する晩年の薄田泣菫の文があるがねーー、 |
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……晦堂は客の言が耳に入らなかつたもののやうに何とも答えなかつた。寺の境内はひつそりとしてゐて、あたりの木立を透してそよそよと吹き入る秋風の動きにつれて、冷々とした物の匂が、あけ放つた室々を腹這ふやうに流れて行つた。 晦堂は静かに口を開いた。「木犀の匂をお聴きかの。」 山谷は答へた。山谷はそれを聞いて、老師が即答のあざやかさに心から感歎したといふことだ。 ふと目に触れるか、鼻に感じるかした当座の事物を捉へて、難句の解釈に暗示を与へ、行詰つてゐる詩人の心境を打開して見せた老師の搏力には、さすがに感心させられるが、しかし、この場合一層つよく私の心を惹くのは、寺院の奥まつた一室に対座してゐる老僧と詩人との間を、煙のやうに脈々と流れて行つた木犀のかぐはしい呼吸で、その呼吸こそは、単に花樹の匂といふばかりでなく、また実に秋の高逸閑寂な心そのものより発散する香気として、この主客二人の思を浄め、興を深めたに相違ないといふことを忘れてはならぬ。(薄田泣菫「木犀の香」1939年) |



