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2026年5月11日月曜日

大日本帝国の回帰は止め難い、ナチスの回帰と同じように。

 

戦前の回帰、つまり大日本帝国の回帰は容易には止まらない。これは日本だけじゃない。例えばドイツにおけるナチスの回帰も止まらない。逆に言えば、高市政権ばかりを責めてもしょうがない。日米欧の世界的傾向だよ。


何度か掲げているが、少なくとも精神分析観点ではこの回帰を止めるのはひどく困難だ。


まず、回帰の別名は退行だ。


退行、すなわち以前の発達段階への回帰[eine Regression, eine Rückkehr zu einer früheren Entwicklungsphase hervorrufen. ](フロイト『性理論』第31905年)


そして戦争はこの回帰=退行を促す。

特殊な退行作用がある。〔・・・〕戦争の影響は、このような退行を生み出す力のうちのひとつであることは疑いない。[besondere Fähigkeit zur Rückbildung – Regression – (…) Ohne Zweifel gehören die Einflüsse des Krieges zu den Mächten, welche solche Rückbildung erzeugen können(フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915)


この《過去の固着への退行 Regression zu alten Fixierungen  》(フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)こそ、抑圧されたものの回帰である。



抑圧の第一段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である。

固着は次のように説明できる。ある欲動または欲動的要素が、予想された正常な発達経路をたどることができず、その発達が制止された結果、より初期の段階に置き残される。問題のリビドーの流れは、その後の心的構造との関係で、無意識体系に属するもの、抑圧されたもののように振舞う。

Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. Die Tatsache der Fixierung kann dahin ausgesprochen werden, daß ein Trieb oder Triebanteil die als normal vorhergesehene Entwicklung nicht mitmacht und infolge dieser Entwicklungshemmung in einem infantileren Stadium verbleibt. Die betreffende libidinöse Strömung verhält sich zu den späteren psychischen Bildungen wie eine dem System des Unbewußten angehörige, wie eine verdrängte.

〔・・・〕

抑圧の失敗、侵入、抑圧されたものの回帰。この侵入は固着点から始まる。そしてリビドー的展開の固着点への退行を意味する。

des Mißlingens der Verdrängung, des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen. Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle zum Inhalte.

(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  1911年)



フロイトにおいて「抑圧=固着=退行」はセット概念である。


固着と退行は互いに独立していないと考えるのが妥当である。発達の過程での固着が強ければ強いほど、固着への退行がある[Es liegt uns nahe anzunehmen, daß Fixierung und Regression nicht unabhängig voneinander sind. Je stärker die Fixierungen auf dem Entwicklungsweg, …Regression bis zu jenen Fixierungen ](フロイト『精神分析入門」第22講、1917年)


最晩年のフロイトは宗教現象に関して次のように記している。

先史時代に関する我々の説明を全体として信用できるものとして受け入れるならば、宗教的教義や儀式には二種類の要素が認められる。一方は、古い家族の歴史への固着とその残存であり、もう一方は、過去の復活、長い間隔をおいての忘れられたものの回帰である。

Nimmt man unsere Darstellung der Urgeschichte als im ganzen glaubwürdig an, so erkennt man in den religiösen Lehren und Riten zweierlei Elemente: einerseits Fixierungen an die alte Familiengeschichte und Überlebsel derselben, anderseits Wiederherstellungen des Vergangenen, Wiederkehren des Vergessenen nach langen Intervallen.   (フロイト『モーセと一神教』3.1.4  Anwendung


この「過去の復活」こそ古い家族の歴史の固着点への退行であり、抑圧されたものの回帰である、《忘れられたものは消去されず「抑圧された」だけである[Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«]》(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)



《宗教的教義や儀式》とあったが、ナショナリズムは宗教だからな、つまり家族の歴史の固着点への退行とはナショナリズムの固着点への退行だ。

ネーション〔国民 Nation〕、ナショナリティ〔国民的帰属 nationality〕、ナショナリズム〔国民主義 nationalism〕、すべては分析するのはもちろん、定義からしてやたらと難しい。ナショナリズムが現代世界に及ぼしてきた広範な影響力とはまさに対照的に、ナショナリズムについての妥当な理論となると見事なほどに貧困である。〔・・・〕

ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義 nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単なのだ[It would, I think, make things easier if one treated it as if it belonged with 'kinship' and 'religion', rather than with 'liberalism' or 'fascism'.


そこでここでは、人類学的精神で、国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像されると[In an anthropological spirit, then, I propose the following definition of the nation: it is an imagined political community - and imagined as both inherently limited and sovereign. ]〔・・・〕

国民は一つの共同体として想像される[The nation …it is imagined as a community]。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛[comradeship]として心に思い描かれるからである。

そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀わたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである[Ultimately it is this fraternity that makes it possible, over the past two centuries, for so many millions of people, not so much to kill, as willingly to die for such limited imaginings.

これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的間題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛りは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう。These deaths bring us abruptly face to face with the central problem posed by nationalism: what makes the shrunken imaginings of recent history (scarcely more than two centuries) generate such colossal sacrifices? I believe that the beginnings of an answer lie in the cultural roots of nationalism.

(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体(Imagined Communities)』1983年)


ナショナリズムの固着への退行で、日本も近未来、《殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいく》ということがあるんだろうよ、


以上、理論的には説明されてんだよ、昔からね。でもやっぱり実際に、この今それが起こりつつあるのを見るとビックリするがね。


これらはラカンの簡潔な言い方なら次の通り。


想定された本能的ステージにおけるどの固着も、何よりもまず歴史のスティグマである。恥のページは忘れられる。あるいは抹消される。しかし忘れられたものは行為として呼び戻される[toute fixation à un prétendu stade instinctuel est avant tout stigmate historique :  page de honte qu'on oublie ou qu'on annule, ou page de gloire qui oblige.  Mais l'oublié se rappelle dans les actes(Lacan, E262, 1953)

抑圧は何よりもまず固着である[le refoulement est d'abord une fixation.  (Lacan, S1, 07 Avril 1954)


この文は先に示した「過去の固着への退行」の言い換えであると同時に、次のフロイト文の言い換えでもある。

人は、忘れられたものや抑圧されたものを思い出すわけではなく、むしろそれを行為にあらわす。人はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん自分がそれを反復していることを知らずに(行為として)反復している[der Analysierte erinnere überhaupt nichts von dem Vergessenen und Verdrängten, sondern er agiere es. Er reproduziert es nicht als Erinnerung, sondern als Tat, er wiederholt es, ohne natürlich zu wissen, daß er es wiederholt. ]。(フロイト『想起、反復、徹底操作』1914年)




ラカンの享楽とは、いまだ巷ではまともに理解されていないが、この《固着への退行(回帰)=抑圧されたものの回帰》がその核心だよ。



享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…)  on y revient toujours. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009


享楽=現実界=トラウマ=同化不能=固着

享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.](Lacan, S23, 13 Avril 1976

現実界は、同化不能な形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964

固着は、言説の法に同化不能なものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1  07 Juillet 1954

参照抑圧されたものの回帰は「抑圧されたトラウマの回帰」


なお、反復と回帰は同じ意味であるーー、《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)。さらにラカンが「常に同じ場処に回帰する」と言ったとき、ここまで記してきた内容からわかるように、固着点への退行を意味する、《享楽は絶対的なものであり、それは現実界であり、私が定義したように、「常に同じ場処に回帰するもの」である[La jouissance   est ici un absolu, c'est le réel, et tel que je l'ai défini comme « ce qui revient toujours à la même place »]》(Lacan, S16, 05  Mars  1969)。つまりここでの文脈でいえば、歴史の反復は「歴史の回帰=過去のトラウマ的固着点への退行」である。



もう少し補足するならーー、


欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

フロイトが措定したことは、欲動の動きはすべての影響から逃れることである。つまり享楽の抑圧・欲動の抑圧は、欲動要求を黙らせるには十分でない。それは自らを主張する[ce que Freud pose quand il aperçoit que la motion de la pulsion échappe à toute influence, que le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exigence. Comme il s'exprime

J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97


抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。

Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer)

(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)



つまり「抑圧された享楽の回帰」の核心はメフィストフェレスの世界であり、今は戦争で「束縛を排して休みなく前へと突き進む」世界への退行がたけなわということだ。


プーチンやラブロフは既に何度も「ナチスの回帰」を指摘しているし[参照]、中国指導部も「大日本帝国の回帰」を事実上、言っている(この表現を直接には使っていないにしろ)。


この過去への退行現象は今までも繰り返し起こっているが、現在、この退行がひどく厄介なのは核兵器があって人類皆殺しがありうることだ。


私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃欲動ならびに自己破壊欲動による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。この点、現代という時代こそは特別興味のある時代であろう。

いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩をとげ、自然力の助けを借りればたがいに最後の一人まで殺し合うことが容易である。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っていることから生じている。

Die Schicksalsfrage der Menschenart scheint mir zu sein, ob und in welchem Maße es ihrer Kulturentwicklung gelingen wird, der Störung des Zusammenlebens durch den menschlichen Aggressions- und Selbstvernichtungstrieb Herr zu werden. In diesem Bezug verdient vielleicht gerade die gegenwärtige Zeit ein besonderes Interesse. 

Die Menschen haben es jetzt in der Beherrschung der Naturkräfte so weit gebracht, daß sie es mit deren Hilfe leicht haben, einander bis auf den letzten Mann auszurotten. Sie wissen das, daher ein gut Stück ihrer gegenwärtigen Unruhe, ihres Unglücks, ihrer Angststimmung.

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年)


フロイト観点ではもはや魔女に厄介になるほかないんだよ。


欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs]とは、欲動の飼い馴らし[die »Bändigung«des Triebes]とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。


しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran]」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジー[Die Hexe Metapsychologie」である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)


とはいえどんな魔女に厄介になるべきかね、人類皆殺しを避けるためには?