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2026年5月17日日曜日

習近平の高い王座ミーム

 

ははあ、池内恵がこんなのRTしてるが、彼は中国嫌いなんだろうかね。とすれば、しきりにネトウヨ批判をしている池内恵は根のところでは同じ穴の狢かもな。



ごく常識的には、アンジェロ・ジュリアーノのように判断すると思うのだがね、






ま、これだけではなく、私は1ヶ月くらい前から池内恵のタイムラインをナボコフ的に観察してるんだが、実にナボコフ的幸福に浸らしてくれる人物だよ。


彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。そして他の人たちが話をしている最中も、自分が話をしている最中も、いつどこででもそうしていたように、他人の内面の透明な動きを想像しようと努め、ちょうど肘掛け椅子に座るように話相手の中に慎重に腰をおろして、その人のひじが自分の肘掛けになるように、自分の魂が他人の魂の中に入り込むようにした。(ナボコフ『賜物』)

私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである。(ナボコフ『目』)



そろそろ精神科医的に観察してみるべきかな、



精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』1990年)

精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)



私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ]〔・・・〕

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973)


ーー《現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである。この意味で無意識と話す身体はひとつであり、同じ現実界である[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ». En ce sens, l'inconscient et le corps parlant sont un seul et même réel. ]》(J.-A. Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016


現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる[le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »  (Lacan, S16, 05  Mars  1969 )



…………………


※附記


はもともと池内恵くんを「尊敬」してるんだ、特にあの名高い井筒俊彦に対する批判(吟味)は日本における宗教観を問い直すためにとても勉強になったなァ。


◼️池内恵「井筒俊彦の主要著作に見る日本的イスラーム理解」2014年 PDF

【要旨】:日本におけるイスラーム思想の研究において、井筒俊彦の諸著作が与えた影響は他を圧している。日本の知識階層のイスラーム世界理解は、ほとんど井筒俊彦の著作のみを通じて行われてきたと言ってしまっても誇張ではないかもしれない。井筒の著作の特徴は、日本の知識人のイスラーム理解の特徴と等しいともいえる。この論文ではまず、井筒の著作において関心がもっぱらイスラーム神秘主義(スーフィズム)とイスラーム哲学にあり、イスラーム法学についてはほとんど言及されないことを指摘する。その上で、井筒がイスラーム思想史の神秘的な側面に特に重点をおいたことは、井筒が禅の素養を持つ父から受けた神秘的修道を基調とする教育に由来すると論じる。また、井筒の精神形成をめぐる自伝的な情報を井筒の初期の著作に散在する記述から読み取り、井筒の神秘家としての生育環境が、イスラーム思想史をめぐる著作に強く影響を及ぼしていることを示す。

【結論部分】:もし問題があるとすれば、井筒を高く評価し、もっぱら井筒の著作を通じてイスラーム思想史とイスラーム教を理解する日本の知識層の側に、井筒の叙述を相対化する手立てがおよそ欠けていたことだろう。井筒の特有のイスラーム思想史叙述が、特定の側面にもっぱら目を向けたものであり、それがいかなる井筒自身の固有な関心に基づいていたか、認識した上での井筒の受容、イスラームの受容であったとは思えない。


井筒が関心を払わなかった部分の存在を、あたかも存在しないかのように忘れさせるほどに、井筒のイスラーム思想史叙述は力強い。それは一面では井筒の幼少・精神形成期に受けた教育から、青年期から生涯をかけて追求した比較宗教思想史へとつながる思想的な一貫性がきわめて真摯であり緻密であったことに由来するだろう。しかしもう一方で、結果的に井筒のイスラーム思想史叙述が、日本における、特に近代の知識層が抱いている一般的な宗教観・思想観に、心地よく合致するものだったからということもできる。 井筒のイスラーム思想史叙述は、イスラーム文明の思想的遺産に関する、ある一面からのきわめて重要な貢献であるが、それと同時に、日本近代の宗教観・思想観を如実に示す事例としてみることも可能ではないだろうか。




優れたカフカ研究者池内紀を父にもった池内恵くんの最大の不幸は、国際政治学者などという彼には不相応な職業に付き、例えばネオリベイデオローグの典型フランシス・フクヤマなどという輩にほとんど無批判にイカレチマッタことだよ。

YouTube:特別企画「9.11テロから20年」 #国際政治ch 104 2021年9月11日


出演:細谷雄一(慶應大法学部教授), 池内恵(東京大学先端研教授), 中山俊宏(慶應大総合政策学部教授), 篠田英朗(東京外国語大学大学院教授)





第二次大戦後の世界は全体として、アメリカのヘゲモニーの下で“自由主義”的であったといえる。それは一九世紀半ば、世界経済がイギリスのヘゲモニー下で“自由主義”的であった時期に似ている。しかし、このような世界体制は、一九七〇年代になって揺らぎ始めた。一つには、敗戦国であったドイツや日本の経済的発展とともに、アメリカの圧倒的ヘゲモニーが失われたからである。


しかし、一般に注目されたのは、一九九一年にソ連邦が崩壊し、それとともに、「第二世界」としての社会主義圏が消滅するにいたったことのほうである。このことは、「歴史の終焉」(フランシス・フクヤマ)として騒がれた。愚かしい議論である。このような出来事はむしろ、「歴史の反復」を示すものであったからだ。


そのことを端的に示すのは、一九八〇年代に、それまで「第一世界」を統率し保護する超大国とし“自由主義”を維持してきた米国が、それを放棄し“新自由主義”を唱え始めたことである。つまり、ソ連の「終焉」より前に、資本主義経済のヘゲモンとしての米国の「終焉」が生じたのだ。それは、一九世紀後半にイギリスが産業資本の独占的地位を失い、それまでの“自由主義” を放棄したこと、 すなわち、 “帝国主義”に転化したことと類似する。 (柄谷行人『力と交換様式』2022年)