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2026年5月26日火曜日

資本の言説の時代の「婚活」


ふと「婚活で消耗したアラサー男の独白」なんてのを読んでしまい、今更だが、ひどく不幸な時代だなあ、とつくづく思ったよ。逆に、実によかったな、ボクは少し前に生まれていて、という感慨をもよおしてしまった。


インターネットでの婚活は、自らの品質を列挙したり、写真を掲載したりして、自分自身を商品として提示しているんだよな。これはラカニアンにおいては資本の言説の時代の典型的な特徴だ。


ラカンはこう言っている。


資本の言説を特徴づけるのは、Verwerfung、拒絶、すなわちあらゆる象徴の領域からの排除であり、これには私がすでに述べたような結果が伴う。何を排除するのか? 去勢である。   

資本主義に歩調を合わせるあらゆる秩序、あらゆる言説は、私たちが単に「愛の事柄」と呼ぶものを、脇に置いてしまうのである、親愛なる友よ。 

Ce qui distingue le discours du capitalisme est ceci :  la Verwerfung, le rejet, le rejet en dehors de tous les champs du symbolique avec ce que j'ai déjà dit que ça a comme conséquence. Le rejet de quoi ? De la castration.   

Tout ordre, tout discours, qui s'apparente du capitalisme laisse de côté ce que nous appellerons simplement  les choses de l'amour, mes bons amis.  

Lacan, S19,  06 Janvier 1972   Sainte-Anne



キーワードは「去勢の排除」と「愛の事柄」だが、まず去勢についてのジャック=アラン・ミレールの注釈。


私たちは愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。〔・・・〕愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。すなわちあなたは彼もしくは彼女がいなくて寂しいということである。自らを完全だと思う者、あるいはそう欲する者は、愛することを知らない。時に彼らは痛みをもってこれを確かめる。彼らは巧みに操る、愛の糸を引く。しかし彼らは愛のリスクも愛の喜びも知らない。

On aime celui ou celle qui recèle la réponse, ou une réponse, à notre question : « Qui suis-je ? » …Pour aimer, il faut avouer son manque, et reconnaître que l'on a besoin de l'autre, qu'il vous manque. qu'il vous manque. Ceux qui croient être complets tout seuls, ou veulent l'être, ne savent pas aimer. Et parfois, ils le constatent douloureusement. Ils manipulent, tirent des ficelles, mais ne connaissent de l'amour ni le risque, ni les délices.

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかに置く 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼岸にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

« Aimer, disait Lacan, c'est donner ce qu'on n'a pas. » Ce qui veut dire : aimer, c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre. Ce n'est pas donner ce que l'on possède, des biens, des cadeaux, c'est donner quelque chose que l'on ne possède pas, qui va au-delà de soi-même. Pour ça, il faut assumer son manque, sa « castration », comme disait Freud.

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。もし彼が自らの滑稽さになすがままになったら、実際のところ、自らの男性性についてまったく確かでなくなる。

Et cela, c'est essentiellement féminin. On n'aime vraiment qu'à partir d'une position féminine. Aimer féminise. C'est pourquoi l'amour est toujours un peu comique chez un homme. Mais s'il se laisse intimider par le ridicule, c'est qu'en réalité, il n'est pas très assuré de sa virilité.

J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010


なおラカン自身はこう言っている。

性的なものにおいて重要なのは滑稽さだ。つまり男が女であるとき男は愛する[Ce qui dans le sexuel importe, c'est le comique, c'est que, quand un homme est femme, c'est à ce moment-là qu'il aime](Lacan, S25, 15 novembre 1977

女たちは男以上に男である[les femmes sont plus homme que l'homme.](Lacan, S24, 10 mai 1977



やあ、実際に資本の言説の時代の女性は男以上に去勢されていないからな。そもそも股の間にマンコがあるんだから。ーー《女の壺は空虚だろうか、それとも満湖[plein]だろうか。あれは何も欠けていない[Le vase féminin est-il vide, est-il plein ? … Il n'y manque rien ]》(Lacan, 20 Mars 1963)。


ファルスしかない男はますます滑稽になっちまうよーー《ファルスはそれ自体、主体において示される欠如の印以外の何ものでもない[  (le) phallus lui-même … n'est rien d'autre que ce point de manque qu'il indique dans le sujet. ]》(Lacan, LA SCIENCE ET LA VÉRITÉ, E877, 1965)




さてーーいくらか話が脱線したがーー、次に愛の事柄[ les choses de l'amour]についてのコレット・ソレールの注釈。

享楽は関係性を構築しない。これは現実界的条件である[la jouissance ne se prête pas à faire rapport. C'est la condition réelle]〔・・・〕

資本の言説はカップルを創造しない。〔・・・〕資本の言説によって創造される唯一の結びつきは、社会的な結びつきでは殆どない。〔・・・〕英語圏のひとびとが使用する "an affair" という表現は、実に症候的である(affair とは、何よりも先ず、愛のビジネスのこと)。

資本の言説は、愛の事柄[ les choses de l'amourについて何も語らない。人々が《アフェアーles affaires》と呼ぶもの、つまり生産と消費のみについてのみ語る。以前の言説(主人の言説)とは異なり、現実界的非関係 non-rapport réel]を補填せずそれを露にしたままにする。だからといって、それが非関係性を明らかにしたわけではない。ただ、かつてはそれを和らげていた象徴的な資源を主体から奪い、性的非関係がもたらす孤独や不安定という結果に、かつてないほど主体は無防備な状態にさらされている。


Le seul lien forgé par le discours capitaliste, c'est celui, fort peu social, de tous les sujets et de chacun d'entre eux avec les objets à jouir de la production. …Le discours capitaliste, lui, ne forge pas de couple. (…) Le seul lien forgé par le discours capitaliste, c'est celui, fort peu social,(…) 

 Il est d'ailleurs bien symptomatique qu'en anglais une aventure soit an affair. Ce discours ne dit rien sur les choses de l'amour, il ne dit que sur ce que l'on appelle « les affaires », celles de la production-consommation. Il ne supplée donc pas au non-rapport réel et le laisse à découvert, contrairement aux précédents. Ce n'est pas dire qu'il l'éclairé pour autant, seulement prive-t-il les sujets des ressources symboliques qui l'ont tempéré en d'autres temps, les laissant plus exposés que jamais aux conséquences de solitude et de précarité du non-rapport sexuel. 

(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011



いやあ実に孤独や不安定の時代なんだよ。ソーセージしかない男はいっそう。


女らしさと男らしさの社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情を開き、愛することを。そして女性化することさえをも求められています。逆に女たちは、ある種の《男性化への駆り立て pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちも moi aussi」と言い続けるように駆り立てられているのです。したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、自己自身で「享楽の様式と愛の様式」を身につけるように求められているのです。

Les stéréotypes socioculturels de la féminité et de la virilité sont en pleine mutation. Les hommes sont invités à accueillir leurs émotions, à aimer, à se féminiser; les femmes, elles, connaissent au contraire un certain « pousse-à-l'homme » : au nom de l'égalité juridique, elles sont conduites à répéter « moi aussi ». […] D'où une grande instabilité des rôles, une fluidité généralisée du théâtre de l'amour, qui contraste avec la fixité de jadis. L'amour devient « liquide »,[…]. Chacun est amené à inventer son « style de vie » à soi, et à assumer son mode de jouir et d'aimer. (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010


資本の言説の時代にはことさら蝦蟇口派が強いからな、


彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ Hast du auch ein Portemonnaie? Der Waller hat ein Würstchen, ich hab' ein Portemonnaie]」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ[Ja, ich hab' auch ein Portemonnaie]」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢解釈』第6章、1900年)




……………


ところでラカンが資本の言説を言い始めたのは、学園紛争を契機にしている。



危機は、主人の言説ではなく、資本の言説である。それは、主人の言説の代替であり、今、開かれている la crise, non pas du discours du maître, mais du discours capitaliste, qui en est le substitut, est ouverte.  ]〔・・・〕

資本の言説それはルーレットのように作用する。こんなにスムースに動くものはない。だが実際はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、自らを貪り喰う le discours capitaliste… ça marche comme sur des roulettes, ça ne peut pas marcher mieux, mais justement ça marche trop vite, ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume.

さあ、あなた方はその上に乗った資本の言説の掌の上にvous êtes embarqués… vous êtes embarqués…](Lacan, Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972



ーー《言説とは何か? それは、言語の存在によって生じうる秩序において、社会的結びつきの機能を作るものである[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ]》(Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972)



主人の言説から資本の言説への移行とあるが、主人とはエディプス的父のことであり、主人は蒸発してしまったのである。


父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père1968年)

エディプスの失墜[ déclin de l'Œdipe](Lacan, S18, 16 Juin 1971



これは日本でも中井久夫が指摘している。


「学園紛争は何であったか」ということは精神科医の間でひそかに論じられつづけてきた。1960年代から70年代にかけて、世界同時的に起こったということが、もっとも説明を要する点であった。フランス、アメリカ、日本、中国という、別個の社会において起こったのである。「歴史の発展段階説」などでは説明しにくい現象である。


では何が同時的だろうかと考えた。それはまず第二次世界大戦からの時間的距離である。1945年の戦争終結の前後に生まれた人間が成年に達する時点である。つまり、彼らは戦死した父の子であった。あるいは戦争から還ってきた父が生ませた子であった。しかも、この第二次世界大戦から帰ってきた父親たちは第一次大戦中あるいは戦後の混乱期に生まれて恐慌時代に青少年期を送っている人が多い計算になる。ひょっとすると、そのまた父は第一次大戦が当時の西欧知識人に与えた、(われわれが過小評価しがちな)知的衝撃を受けた世代であるかもしれない。


二回の世界大戦(と世界大不況と冷戦と)は世界の各部分を強制的に同期化した。数において戦死者を凌駕する死者を出した大戦末期のインフルエンザ大流行も世界同期的である。また結核もある。これらもこの同期性を強める因子となったろうか。

では、異議申立ての内容を与えたものは何であろうか。精神分析医の多くは、鍵は「父」という言葉だと答えるだろう。実際、彼らの父は、敗戦に打ちひしがれた父、あるいは戦勝国でも戦傷者なりの失望と憂鬱とにさいなまれた父である。戦後の流砂の中で生活に追われながら子育てをした父である。古い「父」の像は消滅し、新しい「父」は見えてこなかった。戦時の行為への罪悪感があるものも多かったであろう。戦勝国民であっても、戦場あるいは都市で生き残るためにおかしたやましいことの一つや二つがあって不思議ではない。二回の大戦によってもっともひどく損傷されたのは「父」である。であるとすれば、その子である「紛争世代」は「父なき世代」である。「超自我なき世代」といおうか。「父」は見えなくなった。フーコーのいう「主体の消滅」、ラカンにおける「父の名」「ファルス」の虚偽性が特にこの世代の共感を生んだのは偶然でなかろう。さらに、この世代が強く共感した人の中に第一次大戦の戦死者の子があることを特筆したい。特にアルベール・カミュ、ロラン・バルトは不遇な戦死者の子である。カミュの父は西部戦線の小戦闘で、バルトの父は漁船改造の哨戒艇の艇長として詳しい戦史に二行ばかり出てくる無名の小海戦で戦死している。


異議申立ての対象である「体制」とは「父的なもの」の総称である。「父なるもの」は「言語による専制」を意味するから、マルクス主義政党も含まれる道理である。もっとも、ここで「子どもは真の権威には反抗しない。反抗するのはバカバカしい権威 silly authority だけである」という精神科医サリヴァンの言葉を思い起こす。第二次大戦とそれに続く冷戦ほど言語的詐術が横行した時代はない。もっとも、その化けの皮は1960年代にすべて剥がれてしまった。(中井久夫「学園紛争は何であったのか」書き下ろし『家族の深淵』1995年)



より具体的に言えば、父の失墜とは家父長制がお釈迦になったことだ。



◾️最悪の時代への突入

今日、私たちは家父長制の終焉を体験している。ラカンは、それが良い方向には向かわないと予言した[Aujourd'hui, nous vivons véritablement la sor tie de cet ordre patriarcal. Lacan prédisait que ce ne serait pas pour le meilleur. ]。〔・・・〕

私たちは最悪の時代に突入したように見える。もちろん、父の時代(家父長制の時代)は輝かしいものではなかった〔・・・〕。しかしこの秩序がなければ、私たちはまったき方向感覚喪失の時代に入らないという保証はない[Il me semble que (…)  nous sommes entrés dans l'époque du pire - pire que le père. Cer tes, l'époque du père (patriarcat) n'est pas glorieuse, (…) Mais rien ne garantit que sans cet ordre, nous n'entrions pas dans une période de désorientation totale](J.-A. Miller, “Conversation d'actualité avec l'École espagnole du Champ freudien, 2 mai 2021


◼️科学の言説と資本の言説による伝統文化の破壊

21世紀の象徴秩序それはフロイトが「文化の中の居心地の悪さ」と呼んだものの成長、ラカンが「文明の行き詰まり」として解読したものの成長とともにある。


それは20世紀を置き去りにし、世界における我々の実践を更新し、二つの歴史的要因によって存分に再構成された。つまり科学の言説と資本の言説である。現代のこの支配的言説は、その出現以来、人間の経験の伝統的構造を破壊し始めている。それぞれが他方に依存しているこれら 2 つの言説の複合的な支配は、伝統の最も深い基盤を破壊し、おそらく粉砕することに成功するほどの規模になった。


我々が目にしているのは、象徴秩序に起こった大変動にともなう、その礎である父の名のひび割れである。ラカンが極めて正確に述べたように、伝統による父の名は、科学と資本主義の二つの言説の組み合わせによって影響を受け、価値を下げられたのである。

L'ordre symbolique au XXIème siècle …de ses coordonnées inédites au XXIème siècle, au moment où se développe ce que Freud appelle : « Le malaise dans la culture », que Lacan lira comme les impasses de la civilisation. 

Il s'agit de laisser derrière soi le XXème siècle, pour renouveler notre pratique dans le monde, lui-même suffisamment restructuré par deux facteurs historiques, deux discours : le discours de la science et le discours du capitalisme. Ces discours dominants de la modernité ont commencé, depuis leur apparition, à détruire la structure traditionnelle de l'expérience humaine. La domination combinée de ces deux discours, chacun s'appuyant sur l'autre, a pris une telle ampleur qu'elle a réussi à détruire, et peut-être à briser, les fondements les plus profonds de la tradition.

Nous l'avons vu, …avec le bouleversement survenu dans l'ordre symbolique, dont la pierre angulaire, le Nom-du-Père, s'est fissurée. Et, comme le dit Lacan avec une extrême précision, le Nom-du-Père selon la tradition, a été touché, dévalué, par la combinaison des deux discours, celui de la science et celui du capitalisme.

(ジャック=アラン・ミレール、21世紀における現実界 JACQUES-ALAIN MILLER, LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE , 27 avril 2012 )


科学についてはラカン自身はこう言っている。

ラブレーはこう書いている、《良心なき科学は魂の墓場にほかならない》と。まさにその通り。坊主の説教なら、昨今の科学は魂の荒廃をもたらしているとの警告になるが、周知の通り、この時世では魂は存在しない。事実、昨今の科学は魂を地に堕としてしまった 。〔・・・〕魂以外に人間は存在しないのにもかかわらず。

ce qu'a écrit RABELAIS…  « Science sans conscience - a-t-il dit - n'est que ruine de l'âme ».   

Eh ben, c'est vrai.  C'est à prendre seulement, non pas comme les curés le prennent, à savoir que ça fait des ravages, dans cette âme qui comme chacun sait n'existe pas, mais ça fout l'âme par terre !   …il n'y a pas plus de monde que d'âmeLacan, S21, 19 Février 1974



なお資本の言説は、1970年前後を契機に始まったとはいえ、その悪が赤裸々になったのは冷戦終了後であり、市場原理の時代、新自由主義の時代である。


欧米資本主義ほど「悪性の」強制加入力を持つ人間的事象は他にほとんど類をみないことである(一九八九ー九〇年にはついにこの力の場の中に"社会主義"諸国がよろめきつつ引き入れらた)。(中井久夫『治療文化論』1990年)

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009年)



実際、この資本の言説の最悪の時代からいくらなんでももう降りないとな、みんなして。



聖人となればなるほど、ひとはよく笑う。これが私の原則であり、ひいては資本の言説からの脱却なのだが、それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。Plus on est de saints, plus on rit, c'est mon principe, voire la sortie du discours capitaliste, - ce qui ne constituera pas un progrès, si c'est seulement pour certains.  (LACAN,TÉLÉVISION, Noël 1973)


ボクはかなり前に聖人になったがね!? 


若い人たちもいつまでもやってんじゃないよ、自分を商品として差し出す婚活なんて。そのバカらしさに早く目覚めることだよ。と言っても、婚活をせざるを得ない人が多数いるのは分かってるよ、そもそも現在の支配的ナラティヴがそれを促すのだから抵抗するのは容易ではない。だからこよなく不幸な時代だ、ということだ。


それほど昔のことではない、支配的ナラティヴは少なくとも四種類の言説のあいだの相互作用を基盤としていたのは。それは、政治的言説・宗教的言説・経済的言説・文化的言説であり、その中でも政治的言説と宗教的言説の相が最も重要だった。現在、これらは殆ど消滅してしまった。政治家はお笑い芸人のネタである。宗教は性的虐待や自爆テロのイメージを呼び起こす。文化に関しては、人はみな芸術家となった。唯一残っている支配的言説は経済的言説であるわれわれは新自由主義社会に生きている。そこでは全世界がひとつの大きな市場であり、すべてが生産物となる。さらにこの社会はいわゆる実力主義に結びついている。人はみな自分の成功と失敗に責任がある。独力で出世するという神話。あなたが成功したら自分自身に感謝し、失敗したら自分自身を責める。そして最も重要な規範は、利益・マネーである。何をするにもマネーをもたらさねばならない。これが新自由主義社会のメッセージである。

Not so long ago, the dominant narrative was based on the interplay between at least four discourses: the political, the religious, the economic and the cultural, in which the political and the religious aspects were the most important. Today, they have all but disappeared. Politicians are fodder for stand-up comedians, religion calls up images of sexual abuse or suicide terrorism, and as for culture, everybody is now an artist. There is only one dominant discourse still standing, namely the economic. We live in a neoliberal society in which the whole world is one big market and everything has become a product. Furthermore, this is linked to a so-called meritocracy in which everyone is held responsible for his or her own success or failure – the myth of the self-made man. If you make it, you have yourself to thank; if you fail you have only yourself to blame. And the most important criterion is profit, money. Whatever you do must bring in the cash; that is the message.

(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Higher education in times of neoliberalism, November 2015